井上織姫が、囚われている。悲鳴も上げられない凍てついた表情で、身動きもできず。
それを目にしたとたん、一護の脳裏が真空に変わった。
「一護っ、待ちなさい!」
乱菊の声が聞こえたが、耳に入っていなかった。
一護はその場を蹴り、立ち上がりざまに床に転がしていた刀を手に取る。
大きく振りかぶれば、男が右腕に抱えた織姫に刃が当たりかねない。自然と「突き」の姿勢になった。

男は刀を構えるでも逃げるでもなく、空いている左の掌を前に向けた。
その掌と、風を切って振り下ろされた斬月の刀が触れた……と思った瞬間。斬月の刀身が、まるで液体のように溶けた。
「……え?」
ぼたぼたと、「刀だったもの」が下に落ちる。一護は言葉を失った。

「圧倒的に経験が足らないな。戦いの最中に『え?』はねぇだろ」
男は飄々とした口調でそう言うと身を翻し、右足で一護の胴体を蹴飛ばす。
その声音からも、全力の蹴りには到底思えなかった――それなのに、鞭のようにしなる足の動きは、一護にはほとんど影のようにしか捕えられなかった。
あっ、と思った時には、背後の壁に叩きつけられていた。あっさりと壁を突き破り、背中が宙に浮く。
歯を食いしばり、壊れた窓の桟に手を掛け、かろうじて外に投げ出されるのは防いだ。

「どいてろ一護っ!」
一護の前に、一角と弓親が刀を抜いて飛び出してきた。それと同時に、頭上からは刀を振りかぶった恋次が、思い切り振り下ろす。
「困ったねぇ、戦いはあんまり趣味じゃねぇのに」
男が間延びした声でそう呟いた。

「……なんだと」
右側から男の脇腹に刀を繰り出した一角が、唖然とした表情を見せた。
三人の刀は、的確に男の両脇腹と首元に当たっていた。そしてそのまま男の肌に血一筋流させることなく、止まっていたのだ。
「無駄、だね。君たちの行動を一言で言うとそうなる」
圧倒的な力量の差。その前に、三人の動きが止まった。
「馬鹿、逃げるのよ!」
乱菊の声が響いたが、それは間に合わなかった。次の瞬間、三人が血を吹いて倒れる。

血痕が部屋の壁を濡らし、凍てついたように動きを止めた織姫の頬にも散った。
一体何をしたのか、まったく目に留めることもできなかった。
「イヤ……」
ピクリともせずに倒れ伏した三人の体に手を伸ばすが、届かない。

「野郎!」
刀を失った一護が、素手で男に殴りかかる。
「やめてぇ!」
織姫の高い叫びが、その場に木霊した。



「落ち着け!」
その時。凛とした声が、その場を貫いた。
「ぅおっ?」
一護の肩口に黒い影が落ち、肩を蹴りつけられた一護が前のめりに倒れこんだ。たたらを踏んで立ち直って……そして、目の前に着地した小柄な影を見た。
「冬獅郎!」
「退け、一護!」
さらに背後から現れたルキアが一護の腕を掴み、ぐいと引き戻した。

「……っ、大丈夫か!」
我に返り、屋根の上にうつ伏せに倒れた三人に駆け寄ろうとする。しかしそれを、
「馬鹿者。敵に集中しろ!」
ルキアの声が遮る。
「けど……」
「三人とも致命傷ではない」
「朽木の言う通りだな」
スタークから数メートルほどの距離に着地した日番谷が、氷輪丸の切っ先を男に向けた。
「今助けようなんて思うな、気をそらせば手前が殺られるぞ。まずこいつを倒して、井上織姫を取り戻す。助けるのはそれからだ」
一護は唇を噛み、スタークに目を向ける。そして改めて、日番谷とルキア、そして乱菊の横顔を一瞥した。

仲間が血を流し、意識を失っているのに顔色も変えない。
仲間の命はもちろん、この相手では自分たちの身も危ないと分からないはずはないのに。
明らかに、自分よりも戦闘に慣れているし、訓練されているのだ。一護は、すぅ、と息を吸い込む。
怒りや動揺、驚きといった感情が少しずつ自分の中から放たれ、落ち着きを取り戻すのが分かった。

スタークは、日番谷に視線を止める。
「ようやく話をさせてもらえそうだと思ったら、今度は随分若い隊長さんだな」
「だったら何だ」
「俺は子供と女性とは戦いたくないんだけどな」
「じゃあ、死ね」
スッ、と日番谷が目を細める。返事の代わりに、興ありげにスタークは口角を上げる。その態度が示すのは、圧倒的な余裕だった。
対照的に、一護の頬には冷や汗が伝う。

「……あんた、十刃のひとりなの?」
日番谷の隣に歩み寄りつつ、乱菊が尋ねた。その表情には、抑えきれない緊張がにじんでいる。
「まあね」
「階級は」
「1だ。名はスターク」
簡潔な答えに、乱菊がぴくりと眉を動かす。日番谷がさりげなく、その前に出た。
「十刃の中で最強、ということか」
「さあな、別にひとりひとりと戦ったわけじゃねぇし」」
刃のように鋭い日番谷の声音とは間逆に、まるで人を食ったような飄々とした答えだ。
スタークと名乗った男は、ざっと自分を取り囲む死神たちを見渡した。

「力ずくで取り戻そうなんて、考えるだけ損だぜ。卍解も会得してないのが二人。
不完全な卍解しか会得してないのが一人。そして、破面の成り損ないが一人。どうあがいても勝ち目はねぇ」
「不完全な卍解ですって?」
乱菊がそこで、不審げに眉をひそめる。そしてちらり、と日番谷を見やったのを、背後にいた一護は見逃さなかった。

卍解を会得していないのはルキアと乱菊。
破面の成り損ないは自分のことだろう。となれば、残りは……
「おや、内緒のことだったのかい。そりゃ申し訳ないな」
ちっとも申し訳なくなさそうな声音で、スタークが日番谷を見た。

「ンなことはどうだっていい。お前はヴァストローデなのか」
日番谷は氷輪丸の切っ先をスタークに突きつけたまま、問いかける。刀にぽぅ……と白い光が宿った。
その美しさとは裏腹に、強い霊圧が周囲に満ちる。
「さーて、どうかねぇ」
スタークの返事は、あくまで掴みどころがない。
「アジューカスだのヴァストローデだのいう分類は、あんたらが勝手につけたもんだろ。俺たちには馴染みのない呼び名だ。
ま、俺は確かに十刃では最強らしいんだが、虚圏の中で自分が最強なんて夢にも思わねぇのは確かだ」
「……どうして藍染に従う。狙いはなんだ」
「粘るねぇ、少年。でも、これ以上は教えてあげられないな」
「……そうか」
二人の視線が交錯する。スタークの瞳が、危険な光を帯びた。

「冬獅郎くん、あぶな……!」
織姫が声を上げる。その叫びにスタークの意識が逸れた、その一瞬だった。
日番谷とスタークとの間に、浮竹と京楽が疾風のように姿を現した。少なくとも一護には、二人がどこから出現したのかまったく見えなかった。
高めていた日番谷の霊圧に隠れて出現に気がつかなかったのだろう、スタークが初めて、驚いたような顔をした。
「もらった!」
浮竹が鋭く叫ぶ。両刀使いの二人の、二対の刀が宙を滑った。その切っ先がスタークの胸にもぐりこもうとした、その瞬間――
スタークが腰に差した刀を抜き放った。
「ごめんな?」
顔の前で、その刀がまぶしいくらいの光を放った。

至近距離から見た織姫の目には、その刀身がブレたように見えた。まるで刀身が一本から二本に分裂したかのように。
轟、という風鳴りの音を残して、刃が振り下ろされた。
「浮竹っ! 京楽!」
日番谷の緊迫した叫びが、その場を貫いた。

斬りつける直前の体制で動きを止めていた二人が、全く同時に胸から血を吹いた。
目を見開いた一護の前で、二人の体がシンメトリーに棒立ちになり、仰向けになって背中から崩れ落ちてゆく。
一護の素人目から見ても、その場所が心臓であり、致命傷だということは明らかだった。

―― うそだろ。
一護が出会った隊長たちは、一対一で勝ったことが未だに信じられないほど、一人ひとりが強かった。
京楽と浮竹にしても、直接戦ったことはないにしろ、隊長なのだから白哉や更木と同レベルのはずだ。
それが、たったの一撃で二人同時に、倒されるとは。
「ば……ばけもの」
織姫が、そう呟いた。それを聞きつけたスタークは震えだした織姫を見下ろし、にこりと笑う。
「バケモノは君だよ、井上織姫。すぐに分かるさ」


とっさに日番谷が、二人に駆け寄ろうとした。しかしその首もとに、スタークの容赦のない刃が据えられた。
「さっき、仲間を助けるより相手を倒すのが先だって言ったのと同一人物とは思えないな。
仲間がこのままだと死ぬからか? それならなおさら、自分を護ることを先に考えるべきだろ?」
日番谷の表情に、抑えきれない葛藤が拡がる。

今までの状況を見れば、残された者たちでスタークに勝つのが限りなく難しいのは分かる。
一人でも生き残りたいと思うのならば、動ける者は逃げるべきだ、というのは一護にも分かった。
しかしそうすれば、今倒れている者たちは助からない。織姫も救えない。
スタークの視線が、スッと細くなる。
「するべき論で言うのなら……そうだな。あんたらの大将はきっと、この井上織姫を護れないならいっそ殺せと言ってるんだろ?いいのか? 殺さなくて」
ピシッ、と心に石をぶつけられたような衝撃が一護の中に走る。
一護は、自分の前に立つ日番谷の頭をまじまじと見下ろした。

「……嘘だろ」
誰が敵なんだ。一護の中で、ぐらりと何かが揺らぐ。織姫の敵であれば皆、一護の敵だ。死神が織姫を狙うなら……彼ら彼女らも敵となるのか。
織姫は数秒の間、表情をなくした。そしてそのあと、なぜかうっすらと微笑んだ。
この状況で微笑む理由は一護には分からない。しかし一護には、織姫がただ、諦めたように見えた。
「……俺は、そんなことは信じねぇ」
ぐっ、と奥歯を噛みしめ、スタークを睨みつけた。
織姫が、瀞霊廷へ侵入する結界を破る鍵となるのなら、護れないなら殺せと死神が考えるのはあり得る話だ。
しかし一護にはどうしても、目の前にいるルキアや乱菊、日番谷がそのような決断を下すとは思えなかった。

日番谷の肩が、わずかに揺れる。後ろからは、息をついたように見えた。
「……俺は、決して人間を殺さねぇ」
ほお、とスタークが目を見開く。
「意外な答えだな」
日番谷の眼前につきつけた刃を、少し後ろに退く。
「ただしその言葉には重みはないね。どうせ、生き残る気なんてないんだろ? あんたは心のどこかでとっくに諦めている、違うか」
ぴくり、と日番谷が動きを止めた。その一瞬、スタークの刃がぐん、と前に突き出された。切っ先が、まっすぐに日番谷の翡翠の瞳を狙う。
「やらせねえ!」
スターク以外の誰もが体を強張らせていた時、一護が大きく一歩踏み出した。
そして、日番谷が背負っていた刀の鞘をすばやく抜き取り振りかぶる。

金属音が響き、スタークの刃と、一護の鞘が正面から打ち合う。
しかし所詮は鞘、スタークの刃の前にあっという間に鞘にヒビが入った。一護が歯を食いしばる。
「甘いねえ、鞘ひとつで……」
「卍解! 大紅蓮氷輪丸!!」
間髪入れず日番谷が卍解する。急速に膨れ上がった衝撃で、轟音と共に部屋が崩れ落ちた。

日番谷と一護が、スタッと屋根の上に飛び降りた。少し背後に、乱菊とルキアが現れる。
日番谷の背後で、巨大な龍の姿が形作られていく。水と氷でできたそれは、生き物のように空に大きな翼を広げた。
「冬獅郎……」
一護が、気遣わしげに日番谷を見やった。二人とも分かっているはずなのだ。

「黒崎、朽木、松本。逃げろ」
「隊長!」
乱菊が声を上げるが、日番谷は前を見据えたまま続けた。
「これは命令だ。早くしろ」
その日番谷の肩を、ぐっと一護が掴む。
「俺はお前の部下じゃねぇぞ」
「……お前には言っても無駄そうだな。馬鹿な奴だ」
「ほぅ、まだかかってくるのかい」
穏やかとも言えるスタークの声が、この場面ではこの上なく冷徹に聞こえた。

「みんな、逃げて!」
織姫は叫ぶと、何とか腕から逃れようと身をよじった。しかし、暴れるは暴れるほど、腕はガッチリと胴を押さえ込んでゆく。
「井上を放せ!」
決然とした一護の声が響き、スタークは抜き身の刀を一護と日番谷に向けた。


***


陽光が当たる黒い瓦屋根の上を、液体が滑ってゆく。黒いせいで、色は分からない。
ぽたり。
それは真紅の雫となり、道路へと落ちてゆく。誰にも見えない血の雫の下を、家族連れが笑いさざめきながら通り過ぎてゆく。
笑い声が、織姫の耳に空虚に響いた。

「スターク……さん」
織姫は、自分を解放した破面に話しかける。
「止めを刺す気なら、舌を噛みます。あたしが死んだら困るんでしょう?」
「それは困るね」
織姫が立つ瓦がカタカタと音を立てるほど、織姫の全身は震えていた。立っているのがやっとなくらいだ。
彼女の足元には、最後まで戦った九人の体が、ピクリとも動かずに横たわっていた。

「……ただし」
震えないで、と織姫は自分の足に言い聞かせる。もう自分しか、この九人を護れない。
「ひとつだけ、条件があります。もしあたしが皆の傷を治せるなら、貴方と一緒にどこへでも行きます」
「受け入れがたいな」
聞き覚えのない声が、二人の会話に割って入る。織姫が振り向くと、真っ白な肌に黒い刺青を施した、緑の目をした破面がそこに立っていた。
「ウルキオラ。見てたのか」
「……娘。お前に交渉する権利などない」
スタークを見ることなく、ウルキオラと呼ばれた男は織姫を酷薄な瞳で見据えた。

「ま、いいんじゃないか」
張り詰めた緊張を破ったのは、意外にもスタークだった。ちらりと倒れた九人を一瞥する。
「生きていたところで、戦局に大した影響はなさそうだ。藍染様からの命令は、この子を確実に虚圏に連れて行くことだろ?命令外の仕事は、あんまりしたくねぇしな」
数秒の沈黙の後、ふぅ、とウルキオラは息をついた。
「NO.1の貴方に歯向かう気はない」
「じゃ、決まりだな」
その言葉を受けて、スタークが織姫を見やる。
「言っておくが、あまり待てないよ。援軍が来たら面倒くさい」
それは、苦戦するから困る、という意味ではない。織姫は、急ぎ足で皆のところへ向った。



「ごめん……ね」
九人の傷はひとつひとつ、致命傷に近いものだった。放置すれば、もうあと10分も持たなかっただろう。
即死ではなかった分、まだ良かった。しかしその傷口を見るたび、織姫の心にも穴が空いていくような気がした。

自分のせいだ、と思った。自分がいなければ、こんな犠牲はなかった。
そして、これほどまでに命を賭けて留めようとしてくれたのに、虚圏に行く自分は「裏切り者」と呼ばれるしかないのだろうか?
それでもいい、と思った。皆が生きていてくれて、あの笑顔が戻るなら、そこに自分がいなくてもいい。

最後に一護の隣に跪いた。
死覇装から覗いた首から胸にかけてばっさりと、体が分断されそうなほどの切り傷が見え、指が震える。目を閉じて、力を解放した。
その時、がくん、と織姫の服の袖が引っ張られ、慌てて目を開ける。
袖を掴んでいたのは、一護の指だった。そっとその顔をうかがったが、意識が戻っているようには見えない。
そっと指を取り、引き離そうとしたが、中々離れない。
離そうとしていた時……思いがけないくらい唐突に、涙が零れ落ちた。

唐突に、分かったのだ。
瀞霊廷に移住するように言われてもそれほど動揺しなかったのは、一護に会える方法が残されていたからだ。
会える以上、一護の中から自分の存在が消えることはない。そう思っていた。

でも……虚圏へ行ってしまえば、もう二度と一護には会えないだろう。
一護の日常から、自分が消える。自分の知らないところで、一護が生きていく。
そのことがこれほどまでに、苦しい。
「……嫌だよ」
一緒にいたい。本当は指を引き離したくなどない。
祈るような気持ちで、織姫は一護の指をゆっくりと振りほどいた。

「おい。そろそろだぞ」
スタークの声に、織姫はぐいっと涙を拭う。そして、髪を止めていたヘアピンをそっと抜き取り、一護の手の中に滑り落とした。
「別れは言えたかい」
織姫はゆっくりと立ち上がる。
きっと、これ以上悲しいことは自分の人生にはもう起こらない。泣くこともない。そんな気がした。



* last update:2012/6/30