必死に逃げる夢を見た。
あたりはうす暗く、何も見えない。地面が異常にやわらかく、蹴ろうにも全く踏ん張りが利かなかった。
全力で走ろうとすればするほど、真綿が足元に絡みつくような感覚に、ついに倒れ込んだ。
「つまらないな。ここまでか」
粘り気のある濡れた音とともに、足音が近づいて来る。
辺りは暗いはずなのにはっきりと分かる。黒髪をそよがせてやってくるのは、あの破面の男だ。
その左手の甲には、「1」の数字が毒々しく刻まれている。

―― 逃げなければ。
気ばかり焦るが、立ち上がるどころか、背後に下がることさえできない。
地面に滑った手が、固くて大きなものに触れる。ちらりと振り返り――それが何だか確認した瞬間、全身が凍りついた。
「く……ろさき」
何かに驚愕したように、目を見開いたままうつ伏せに倒れている。三秒、五秒……十秒が流れても、その瞳は瞬きをしなかった。
一護の身体に触れると、もうすでに固く冷たくなっていた。自分の手を見下ろせば、闇の中に更にドス黒く、掌は血に染まっていた。
死んでいる――

辺りを改めて見回せば、横たわる身体は一体や二体ではない。
乱菊が、ルキアが、一角が、浮竹が……死体となって、ただの物のように地面に転がっていた。
それを見たとたん、戦意を絶望感が一気に追い越した。護る者を失った死神など、何の意義がある?
―― 殺される。
どくん、どくん、と高まる鼓動に、全身が震えだしそうだ。
それを見下ろす男は、気の毒そうにさえ見えた。
「何を逃げているんだ? ほら」
指差され、日番谷は自分の胸を見下ろす。するとそれは夜目にも赤く、血を噴いていた。
そうか。
そうか、俺はもう、
「あんたはもう、とっくに死んでいるのに」
嫌だ。心の中でそう叫ぶ。しかし言葉は出てこない。
嫌だ。俺は――
まだ死にたくなんて。


***


「日番谷くんっ! 聞こえる? 日番谷くん!」
こんな風に目覚めたことが少し前にもあったような気がする。
既視感を覚えながら薄眼を開けると、間近で覗き込んでくる見慣れた顔が、ぼんやりと見えた。
「雛森……?」
喉元から出た声は、誰の声だと思うくらいに掠れていた。
あぁ、と呻きたいほどに全身が重い。
「大丈夫、大丈夫だから」
覗き込んでくる雛森の顔は、前にも増してやつれているように見えた。泣いていたのか、瞼が少し赤く腫れているのが痛々しい。

「俺……生きて、るのか」
今しがた見た悪夢と、現実の光景が入り混じる。それを想い出した瞬間、日番谷は、反射的に上半身を起こした。
ガララ、と乾いた音を立て、人工呼吸器だの管だのが床に落ちた。腕をベッドについて体を支えようとしたが、腕に全く力が入らない。
そのままガクリと崩れ落ちそうになるのを、雛森の華奢な腕が支えた。

ぐるり、と目の前の景色が回って気持ちが悪い。あたりを見回すと、汚れ一つない白い床に壁が目に入る。
二十畳ほどの部屋には大きな窓が設けられ、日番谷が寝ていたベッドはその窓際に置かれていた。
四番隊にある、隊長用の個室だ。入ったことはなかったが、すぐに気づいた。

「日番谷隊長!」
入口の扉を開けて入ってきたのは、卯ノ花だった。随分長い間ほどけなかったように見える眉間の皺が、ゆっくりと和らぐ。
「よかった。目が覚めたんですね。でも、まだ動けないはず。寝ていなければなりませんよ」
「そうだよ日番谷くん、起きようなんて無茶だよ」
そう言って再びベッドに寝かせようとした雛森の手を、日番谷は振り払う。
自由にならない体を無理やり起こし、傍に立った卯ノ花を見やった。
「卯ノ花隊長! 先遣隊の他の奴らは? 黒崎は! 井上織姫は?」
「誰も死んではいませんよ」
「……本当、か」
声が、掠れた。
さっきまで見ていた夢は、ただの「夢」ではなかった。
日番谷は、一護が血を噴いて倒れるところをこの目で見たのだ。
その直後、打ちかかろうとしたところを逆に斬られた。乱菊やルキアに逃げろ、と叫んだところで、意識が途切れている。
隊長格が束になっても傷一つ負わせられなかったスタークという破面に、残された二人が勝てたとはとても思えない。
どうして自分達が今助かっているのか想像がつかなかった。

日番谷がぐっと見つめると、卯ノ花は軽く微笑み、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「井上織姫さんが、その治癒能力を使って貴方がたを助けたのです。その後、貴方がたの霊圧の急変を察知した技術開発局が、皆さんを発見しました」
「井上織姫は……どこに」
「おそらく、貴方がたを助けることと引き換えに……虚圏へ連れ去られました」
ダンッ、と音を立てて、日番谷が壁を殴りつける。まだ真新しい胸の傷が痛んだ。
日番谷くん! 雛森が悲鳴を上げて、再び振り下ろそうとした腕を押さえる。

例えどんなことがあっても、井上織姫だけは、奪われてはならなかった。
彼女が果たしうる役割を考えれば、他の全ての命と引き換えにしても、護り抜かねばならなかったのに――
逆に命を救われ、自ら虚圏へ向わせてしまうなんて。「失態」どころの騒ぎではなかった。
そんな日番谷の悔恨を見越したかのように、卯ノ花は静かな口調で続けた。
「総隊長は、すでに経緯をご存知です。護れないなら殺せ――そう指示が出ていたようですが」
日番谷は首を振った。
「人間は殺せません」
「なぜ?」
「自分達が滅びないために人間を殺したなら―― もう俺たちは死神じゃなくなる」
「ソウル・ソサエティ全体の命がかかっています。一人とは重みが違いますよ」
「たった一人だって人間です」
雛森が、ぎゅっと袖を握りしめる。日番谷と卯ノ花の視線が、まっすぐにぶつかった。
どちらも視線を逸らさない――長い時間に思われた後、先に視線を落としたのは、卯ノ花だった。
「貴方と話していると、時々困ってしまいます」
謝るのも妙な具合だ。日番谷が返答に詰まっていると、卯ノ花は微笑んだ。
「遠い昔に信じていたものを、思い出しそうになってしまいます。年寄りには毒ですわ」
そう言って、不意に手を伸ばすと日番谷の額に置いた。
「もう熱は下がっていますね。でも、無理をしてはまた熱が上がりますよ」
「――大丈夫です」
さりげなく後ろに下がる。優しい、柔らかい掌だった。時々困らせるのはそっちだって同じだと思う。日番谷は話題を切り替えた。
「―― 俺たちを圧倒した、あのNo.1を刻んだ破面は、ヴァストローデだったのか?」
できる限り情報を引き出そうと聞いては見たが、当然ヴァストローデなのだろうと思っていた。
それなのにあの男は明言は避け、自分よりも強い者が虚圏には当たり前にいることを示唆していた。

卯ノ花は日番谷の言葉に、わずかに首を傾げた。
「可能性は半分、というところでしょうか。浮竹隊長と京楽隊長はあの時、まだ余力を残していました。
彼らは霊圧の出力を最大にするまで、時間がかかりますから。戦いを始めたばかりあの段階で、全力まで霊圧を高める時間はなかったでしょう。
一方の破面も、本気ではなかった。ただ……ヴァストローデという者たちは、すべからく非常に好戦的で、かつ残忍です。
敵を倒しながら殺さない、ということはないでしょう。となれば、スタークというあの破面の態度はヴァストローデには似つかわしくありません」
「でも……」
俺は、本気だった。その言葉を飲み込み、ちらりと雛森を見やって日番谷は唇を噛む。
あれで本気ではなく、かつヴァストローデではない可能性があるのなら、ヴァストローデの本気というのはもう想像の範囲を超えている。
ただ、日番谷の実力を知っている雛森の前でそれを言えば、いたずらに恐れさせるばかりだろう。
「……浮竹隊長が言っていましたでしょう。『君たちは、ヴァストローデの身の毛がよだつほどの強さを知らない』と。」
労わるような口調だった。
「戦いの序盤でそれを知り、かつ生き残れたのは運が良かった。さすがに、この段階であれほどの実力者が出てくるとは予想外でしたから。
貴方にはほかの隊長の誰よりも、更に強くなれる可能性がありますし」

そう言われたからといって、希望は持てなかった。
命を犠牲にして隊長が部下を護ったところで、十人の隊長では十体が限度。
そもそも、その場合の敵はヴァストローデを想定している。浦原の話では、崩玉の能力を使えば、ヴァストローデより更に強くなるというのだ。
―― 死ぬよりも生き残ることのほうがはるかに難しいのです。
卯ノ花がさらりと言った言葉の意味が、重苦しく胸に落ちた。

卯ノ花は、黙り込んだ日番谷の胸にそっと指先を伸ばした。破面によって斬りつけられた、その場所だ。
「……明日には、退院する。いつまでも寝ちゃいられねぇ」
焦燥感、というのだろうか。とても、布団に横になっていると、下から熱されているような、いても立ってもいられない気持ちだった。
しかし卯ノ花は、静かに首を振った。
「貴方は、隊長の中では一番傷が浅いようです。とはいえ、重症には違いありません。
それに、貴方は短期間で何度も深い傷を負いすぎた。いくら傷を塞いでも、体力が戻るには時間がかかります。しばらく静養してください」
「静養なんて……」
「戦いは長く続くでしょう。休もうにも休めなくなる時が来ます」
不吉な言葉を残すと、卯ノ花は一度頭を下げ、病室から姿を消した。



* last update:2012/6/30