それから、十五分後。日番谷は病棟の螺旋階段を、ゆっくりと一足一足踏みしめながら降りていた。
体の傷は癒えているが、柵をしっかり掴んでいないと、重心を失ったように身体を支えられない。
やはり卯ノ花が言った通り、表面の傷を塞いだところで、失った血は元には戻らないということだろう。
この状態では無理やり退院したところでとても戦えない、と認めるほかなかった。

乱菊の病室は、日番谷のちょうど一階下の部屋だと聞いていた。
少し前に、まだ日番谷の目が醒めていなかった時に病室に来ていたというから、それほど重傷ではなさそうなのが救いだった。

―― 何を話すつもりなんだ、俺は。
これから乱菊に話さなければいけない内容を思い浮かべると、気が重かった。
スタークと戦って完敗した今、今までのやり方は通用しないと認めざるを得ない。
日番谷はヴァストローデを文字通り命がけで倒す任務がある一方、乱菊は日番谷がいなくなった後を考えれば死ぬわけにはいかなかった。
俺の傍で戦うな―― そう伝えなければならないのだ。しかし、日番谷の背中を護ることを矜持とする乱菊が、簡単に納得してくれるとは思えない。

いっそ殉職命令を含め、全てを乱菊に打ち明けるか?
そう一瞬思ったが、すぐに心中で首を振った。はいそうですかと自分一人を死地に送り出すはずがない。
一体他の隊長たちはどう副隊長に伝えるつもりなのか、聞けるものなら聞きたい気分だった。
死にゆく者と、生きて行く者。今まで共に闘ってきた隊長と副隊長の間には、今やはっきりと線が引かれている。


ちらり、と胸元から包帯が覗く。
右肩から、左脇にかけて袈裟懸けに斬られていたと卯ノ花から聞いた。
綺麗にいろんな組織がまっぷたつにされて傷口は綺麗だったから、つなげるのも早かったらしい。
運が良かったですね、と言われたが、スタークに斬られた瞬間の記憶はほとんどない。
白刃が胸の辺りでひらめいた、と思った次の瞬間に意識が吹っ飛ばされたからだ。
死の恐怖など、感じる暇もなかったのは不幸中の幸いだったはずだが――

さっきまで見ていた夢の中で、追い詰められた時の恐怖感が蘇り、日番谷は思わず足を止める。
ただの夢だ、とは思えないほど、その時の気持ちは生々しかった。鳥肌が立つ感触まで思いだせるほどに。
―― 死にたくなんてない。
そう夢の最後で叫んだ自分自身の声が、まるで別人のように思えた。
俺は、本当は死を恐れているのだろうか?
自分の心なのに、分からない。

乱菊の病室だと教えられていた、奥から三番目の部屋は、名札がかけられていなかった。
やはり幹部級の入院は、周りを不安にさせるからだろう。となれば、自分が廊下にこんな姿で長居して、周囲に見られるのはまずい。
ノックすれば、「どうぞ」と聞き慣れた声が返した。

*

「……入るぞ」
病室の扉を開けると、ベッドの上で饅頭をくわえた乱菊と目が合った。
「え? あ、隊長!」
口を開いたとたんにぽたり、と饅頭を落とし、手でキャッチした。
「元気そうだな……」
ほっとしたのと同時に、あまりの呑気さに腹が立ってくる。どうやら、傷は自分と比べれば格段に浅かったらしい。呆れつつ、部屋の中に足を踏み入れる。

乱菊はベッドから降りて立ち上がろうとしたが、日番谷は手でそれを制した。乱菊は両足を床に下ろした格好で、目の前の椅子を日番谷に押してよこした。
「座って下さいよ。相当な重傷だったんでしょう? ふらついてますよ」
「お前の頭がふらついてるからそう見えるんだ」
「って、違うでしょ。騙されません」
足元が頼りないのを隠したつもりだったが、さすがにすぐに見抜かれている。
正直、今座ってしまえば、さっと立ち上がる自信がなかった。日番谷は立ったまま椅子の背もたれに手をつき、乱菊を向き合った。
「雛森はどうしました? あの子をつけておけば安心って思ってましたよ。さっきも、隊長の傍から1ミリも離れないって形相で座ってました」
「十番隊舎に、俺の着物を取りに行ってくれてる」
「その隙に出てきたんですね」
「逃げて来たみたいな言い方するな。どう動こうが俺の勝手だろ」
とは言ったが、雛森が帰る前に戻っておかないと相当がみがみ言われそうだ。

日番谷の姿を上から下まで見た乱菊が、突然笑い出した。
「何だか懐かしいですね、その恰好」
「なにがだ?」
「流魂街にある隊長ん家で、初めてまともに喋った時ですよ。隊長、今と同じ寝巻き姿だったでしょ」
「ああ……」
言われて見れば。日番谷は自分の姿を見下ろす。

松本乱菊は、日番谷が初めて出会った死神だった。斬魂刀を腰に帯び、死覇装をまとう凛々しい姿に、全く、1%も憧れの念を抱かなかったと言えば嘘になる。
―― 「死神になりなさい、坊や」
あの時、まっすぐに視線を合わせて、そう言われたのだった。
死神は文字通り命がけの職業で、一旦死神になれば、自分の意思で辞めることもままならない。
今にして思えば、よく初対面でそう言い切ったと思うが、当時の日番谷の胸にはストンとその言葉が落ちたのだった。
なぜなら日番谷自身も、死神になりたいと欲していた。それに死神になる以外に、身体の奥から次々に湧きあがる力と、折り合いをつけられないことも分かっていた。
求めていた言葉を目の前につきつけられて、乱菊の真剣な瞳に引きこまれるように頷いていた。

もしあの時乱菊に出会っていなければどうなっていたか、と思うとぞっとする。
日番谷はかけがえのない祖母を自分の力のせいで失い、今頃心に深い傷を負ったまま、流魂街で孤独に暮らしていただろう。
紆余曲折あって部下になってしまったが、それでも乱菊が恩人なのは一生、変わりないと思っている。

「……すまなかったな。護ってやれなくて」
だから松本乱菊は、日番谷にとってはただの部下の一人ではない。
乱菊はその青い瞳をわずかに見開いたが、すぐに微笑んで首を振った。
「隊長の背中を護るのは、副隊長であるあたしの役目です。あたしこそ、申し訳ありません」

思わず、口元がゆがんだ。
もう、それではいけないんだ。俺の背中を護るよりも前に、生き抜いてもらわないと困るんだ。
破面とやり合って死ねと命じられる、自分の無力さが悔しかった。
「……隊長?」
「俺のことはいい。自分が生き残ることを考えろ」
「……」
乱菊は目を見開き、日番谷を見やった。
いつもの日番谷なら、「なんでもねぇよ」とはぐらかしていただろう。
乱菊もそれを受けて、「ならいいんですけど」と深く追求はしない、それが二人の慣れ親しんだ方法だった。
しかし日番谷はその時一瞬、答えをためらった。不自然な沈黙ができ、乱菊はそれを見逃さなかった。
「どういうことですか」
彼女の声が、鋭さを帯びる。


何も副官に心配されることなく、事実を告げることもなく任務を遂行できれば、それに越したことはないのだろう。
京楽あたりならうまくやってのけそうな気がする。しかし日番谷には、まっすぐに告げる以外に、部下に向き合う方法が分からない。
「一つだけ、ヴァストローデに勝つ方法がある。隊長にしか使えねぇ、一人につき、たった一度だけ使える方法が」
「……たった一度だけって」
乱菊の声が、震えを帯びた。日番谷の言い方で、察してしまったらしい。
心まで見とおそうとするように、まじまじと日番谷の目を覗き込んできた。
「生き残れ、と言っただろ」
自分が死ぬくせに、部下には生きろと指示するなど勝手だとは思う。
「……隊長」乱菊の声は全ての感情をそぎ落とし、無色にさえ聞こえた。「死ぬつもりですか?」
もうごまかせないな、とその目を見て思った。日番谷は乱菊を見返す。初めて会った日のことが、ついさっきのように思い浮かんだ。
「悪いな」こんなことを言うつもりではなかったのに、口をついて出た。「お前が悪いわけじゃねぇ」

たとえ、明日死ぬことになったとしても、自分を死神にいざなった乱菊を恨むことはない。むしろ、感謝している。
こんな感情を乱菊に伝えたことは、今まで一度もなかったような気がする。
背中合わせでいても、乱菊なら察してくれる、そんな風に甘えていたのかもしれない。
「……ありがとう」
最初で、最後だ。そう思って口にした。


乱菊は、石のように固まっている。受け止め、咀嚼するには時間がかかるに違いない。
日番谷は椅子から手を離し、背を向けた。足をわずかに引きずりながら、扉に向かおうとした時だった。
日番谷の目の前に飛んできた饅頭が、扉に当たって妙な音を立てた。
「あ?」
ぽかんとしてベッドを振り返ると、裸足のまま寝巻きがはだけるのも一向に構わず、大股で歩いてくる乱菊が見えた。

「松本! 食い物は大事に……」
「饅頭なんてどうだっていいんですッ!」
まともに向かい合えば、乱菊は日番谷より四十センチほど背が高い。
ぶつかりそうなスピードで近寄って来られて、無意識に後ずさった。
すぐに扉が打ち当たり、背中が一度弾んで、止まった。無表情のまま日番谷の眼前で足を止めた乱菊は身をかがめ、日番谷の胸元にトン、と掌をおいた。

言葉を何も交わさないまま、二人は至近距離で見つめ合った。
静まり返った病室の中で、乱菊の掌の下で動いている、鼓動が伝わって来た。
初めて会った時と同じだ―― きっと乱菊も今、同じことを考えているに違いない。
あの時も今も、生きている。こんな時なのに、そう思った。
「……あなたはあたしにあの時、約束したわね。『死神になる』って。あなたは約束を護った」
日番谷が隊長になってから一度も欠かすことがなかった敬語が、抜け落ちている。既視感で頭がぐらぐらした。
「あたしもその瞬間、自分に約束したの。誘った以上、絶対に死神としてこの子を死なせたりしない。あたしが護り抜くと」
「……松本。俺は――」
「それでもなお、死なせてしまったら。その時はあたしも生きてはいないと誓ったの」
とっさに、言葉が出て来なかった。あれほど短い間に、乱菊がそれほどまでの覚悟をしていたとは夢にも思っていなかった。
「あなたを失って。何事もなかったように、あたしが生きて行けると思っていたの?」
馬鹿にしないで、と吐き捨てて、乱菊は視線を落とした。その目には、いっぱいに涙がたまっていた。

「死なないでください、隊長」

やるせなさが、その声全体ににじみ出ていた。
乱菊はそう言うと、そっと日番谷から手を離した。そして、向き合っているのが耐えきれなくなったように背中を向ける。
物分りよく諦めるのではなく、どうして足掻かないのかと、彼女の後ろ姿に責められている気がした。
そんな風に、思っていたのか。決して短くもない間ずっと一緒にいたのに、全く気づいていなかった。

市丸が裏切った時さえ、涙ひとつ見せなかった乱菊を泣かせている。
自分が本当に生きていたいのか分からなくても、生き延びる方法が見つからなくても、乱菊のために「死なない」と言ってやりたかった。
でも、言うためだけに言った言葉など、二人の間では何の意味もないことくらい分かった。

もしも……もしも自分がもっと強く、大人の男だったら、絶対に死なないと返してやれるのだろうか。
どうすれば今の自分でも、この背中にそう返してやれるんだろうか。

―― 「不完全な卍解しかできない者が一人」
その時頭をよぎったのは、スタークが残した一言。
「……松本」
振り返った乱菊は、自分の放った言葉に自分で傷ついた、そんな目をしていた。
「お前に頼みがあるんだ。……聞いてくれるか」



* last update:2012/7/24