日番谷が、雨乾堂で病床についている浮竹と京楽を見舞ったのは、病室で目を覚まして二日後のことだった。
「起きてるか?」
障子を開けて部屋を覗きこむと、京楽だけが布団の中で目を開けていた。少し間を開けて引かれた布団では浮竹が寝息を立てている。
「もう動けるのかい。大したもんだ」
若草色の一重に暗い灰色の袴を纏った日番谷を見上げた時に眩しそうだったのは、背景になった晴天のせいだろうか。
「もう、日番谷くん。いきなり入っちゃ失礼だよ」
後ろに引っ込んだ雛森が声を顰めるが、
「声はかけたぞ」
日番谷はさっさと部屋の中に入り込み、京楽の枕元に胡坐を掻いた。
雛森も頭を下げつつ入って来ると、日番谷の少し後ろに正座した。こちらは死覇装姿である。
「土産だ」
そう言って、手にした風呂敷から取り出したのは、煙管と煙草盆だった。おお、と京楽が声を上げて喜ぶ。
「禁止されてたんだけど、喫いたくて喫いたくてねぇ。いやぁ、気が利くねぇ」
雛森がこっそり日番谷を小突くが、煙草盆を部屋の隅から引き寄せた日番谷は気づかないふりをしている。
そして、握りしめた拳の親指の爪を、人差し指に磨るようにして跳ねあげた。すると、親指の先に小さな炎が灯る。
上半身を起こした京楽が、その炎に煙管の先を近づける。やがて、うまそうに煙を吸い込んだ。
まだ起きられないと聞いていたが、意外と元気そうだ。寝ている浮竹にしても顔色は悪くないことに、日番谷はほっとしていた。
「まだ入院中だろ? いいのかい、出歩いて」
「卯ノ花隊長はもう諦めてる」
「諦めて、桃ちゃんをお目付け役にしてるってトコかな」
桃ちゃん、と呼ばれた雛森が顔を赤くした。
「お前、どこにでもついて来んなよ。仕事に戻れ」
日番谷が頬杖をついたまま雛森を見やると、雛森は小声で言い返して来た。
「日番谷くんが大人しくしてればいいのよ。それにこんな時に、普段の仕事なんてないわよ」
はぁー、と日番谷がため息をつくと、雛森の睨みつける視線を感じた。
日番谷があれ、と思うほどに、ここ数日の雛森は元気を取り戻しているように見えた。藍染がいたころと普段は変わらなく見えるほどだ。
卯ノ花に言わせると、日番谷の面倒を見ている、自分も何かの役に立てると思う事で、気の張りが生まれているらしい。
―― 「雛森副隊長のためにもなるのです。今しばらく、傍に置いてあげてくださいな」
卯ノ花にはそう言われた。弱っている自分の姿など雛森に見せたくはなかったが、ぶつぶつ言いながらも強く反対しないのは、そのあたりの理由があった。
京楽は煙草を吸いながら、日番谷をちらりと見やる。
「この間の色男の破面のことかい? 打つ手があるか、聞きに来たとか」
「違う」
そう返すと、京楽はじっとその瞳の奥から日番谷を見返して来た。
「……打つ手を失った、って顔じゃないね」
「一つ、考えてることがある。……ただ、そのためにはしばらく、瀞霊廷を開けなきゃいけねぇ」
「乱菊ちゃんは、そのことを?」
「もちろん知ってる。十番隊の指揮は、俺が不在の間松本が執る。が、もし松本で対処しきれないことがあれば、十番隊をあんたに頼みたい」
雛森が、驚いたように見つめて来る視線を背後から感じた。
日番谷が十番隊の隊長になって以来、どんな時でも隊長職を優先してきたことを知っているからだ。
ふむ、と京楽は唸ったが、すぐにいつもの飄々とした笑顔に戻った。
「いいよ。十番隊は優秀な部隊だからね。八番隊の刺激にもなるだろうし」
「悪い。有事の際は、できるだけ早く戻る」
「戻るって、どこにいるんだい」
「現世だ。四楓院夜一を訪ねる」
「それまた、なんで」
「黒崎一護は、卍解を四楓院夜一の元で会得したと聞いた」
「……なるほど」
すでに卍解は会得しているはずだろうと突っ込まれると思ったが、京楽は何も聞いてこなかった。
頷く同時に、ポン、と煙草盆の角に煙管を打ちつけた。
「十番隊が、いい加減な僕に愛想を尽かす前に戻って来てね。十日くらいかな?」
「短ぇな」
苦笑いして、立ち上がる。雛森を部屋の中に残し、外に出た。
***
雨乾堂の庭は、桜の隠れた名所として知られている。
庭には並々と清水を湛えた巨大な池があり、池の上を、木の橋がいくつも渡っている。
周辺にいくつも植えられたしだれ桜が、見事な花を咲かせていた。
いくつかの花房は清水すれすれのところで揺れていて、その下には錦鯉が泳いでいる。
木の橋をきしきし言わせながら歩いていると、今が戦争中だということを忘れそうだった。
「……誰か来る」
日番谷はハッとして顔を上げた。目を閉じた瞬間、こちらへまっすぐに歩いてくる草履のイメージが頭に浮かんだ。
相手が誰なのかは、あけっぴろげな霊圧からすぐにわかったが、なぜこの場所を知っているのか。
平和な世界を乱す、不協和音。足音が少しずつ聞こえてくる。その不協和音の正体が、隠しきれない殺気だと気づいた時、日番谷は肩に背負った刀の存在を確かめた。
敵ではない……だが、躊躇いなくそう言い切るにはあまりにあの男のことを知らない。
ざぁ、と風が吹き、橋の上は桜色に染まった。
日番谷が再び視線を戻した時、橋上はもう無人ではなかった。
少女の頬を思わせるふくよかな桜色の中に、禍々しいまでに異質な、黒い影が佇んでいた。
漆黒の衣装をまとい、巨大な刀を肩に背負っている。朱色の髪は光に当たり半ば金髪に見えた。その表情は逆光になっていて伺えない。
「黒崎一護。何の用だ」
「お前に会いに来た」
ざっ、と草履が地面を蹴る。迷いのない大股で、橋の上を日番谷に向かって歩み寄ってくる。その全身から放たれる気迫に、自然に全身が緊張する。
現世で会話した時とは別人のようだ。殺気が加わるとこうも違うのかと心中驚いた。
「……誰に、この家の場所を聞いた?」
「乱菊さんだよ。お前はどこにいるって聞いたら、多分ここだろうって」
一護は何気なくそう言ったが、日番谷の居場所を乱菊が明かすことは、そうそうないはずだ。
敢えて教えるとは、よほどこの男のことを信用しているということか。
一護は日番谷から1メートルくらいの場所まで近付いたところで、立ち止った。
一護の死覇装の襟元からは、分厚い包帯が覗いている。まだ傷が癒えきっていないのは、一歩ごとに揺らぐ歩き方ですぐに分かった。
斬月は背中に負わず、片手に掴んでいる。その重みも今の一護では辛いだろうと想像する。浮竹や京楽と変わらない深さの傷を負ったと聞いていた。
「傷は? 2日ほど前に目が醒めたって卯ノ花さんから聞いたけどよ」
「どってことねぇよ」
隊長格に対して、まるで友人に話しかけるような口調だ。最近の人間は躾がなってないと思ったが、変にへりくだられても非効率だ。
世間話を、ましてや長話をする気にはなれなかった。だから、単刀直入に尋ねる。
「俺に何か用か」
「用がなきゃ、来ちゃいけねぇのかよ」
「別に親しくもねぇだろ」
「……本当に可愛げがねぇな、お前は」
「誰に物言ってんだ、ガキが」
イラッとした視線を互いに交わし合う。いくら人間でも、死神の見た目と実年齢が比例していないことくらいは知っているはずだが。
更に歩み寄って来た一護の影が、日番谷の足元に落ちる。無意識の間に、足を引いていた。日番谷は口を開く。
「用がなきゃ、来るわけねぇよな。……井上織姫が浚われたんだ、呑気に俺を見舞ってる場合じゃねぇだろ」
途端。目を剥いて見下ろしてきた一護の視線に、戦慄する。
闇に光る獣の双眸のように、飢えた気配。その表情には、以前には見られなかった怒りが植えつけられていた。
抑えきれない殺気が、その場に充満した。
日番谷にじっと視線を据えて、一護は口を開いた。
「総隊長さんに、何度頼んでもダメだったんだ。虚圏に行く方法は教えられぬと、その一点張りだ」
「だろうな」
日番谷は頷いた。当然だろうと思う。
一護が、NO.6十刃に最後に放ったあの力に、正直驚かされたのだ。
日番谷にとって、その力も姿も死神より虚に近い、という事実は大したことではなかった。問題はその力の強さが、隊長格をも凌いでいるように見えたこと。
いまや黒崎一護が、瀞霊廷にとって無駄死にさせられないほどの人物になっていることは間違いない。
一護が激怒しようが懇願しようが、頑として受け付けなかった姿が目に見えるようだった。
一護は、感情を抑えた低い声で続ける。
「教えられぬってことは、方法はあるんだよな?」
「なぜ俺に聞く?」
「お前が隊長だからだ。お前は知ってるはずだ、違うか?」
手負いの獣のように荒々しい霊圧に、背筋が粟立つ。日番谷がとっさに氷輪丸に手を伸ばすと、一護の視線が鋭く突き刺さる。
日番谷は刀の柄に指を走らせ、鯉口を切る。そして、一護を睨みあげた。
「……俺を脅すつもりか? 黒崎一護」
今の自分と一護が正面からぶつかったとして、おそらく力の差はそこまでないと想像する。
ただし、周囲に被害を出してしまう。戦えないのであれば、気迫で押し返すほかない。
日番谷にまっすぐに睨みつけられ、一護は一瞬ためらい――そして、不意に動きを止めた。そのわずかな間隙に、
「誰っ!」
鋭い女の声が、その場を貫く。はじかれたように振り返れば、血相を変えた雛森が池を飛び越え、弾丸のような勢いで飛び込んできた。
浅打になっても常に携帯していた飛梅を、おそらく反射的に引き抜く。そして、日番谷の前に飛び降りると同時に切っ先を一護に向けた。
「飛梅」が赤く発光するのを見て、日番谷は息を飲む。
連日の修行にも、全く反応しなかったはず―― それなのに、今は明らかに刀から霊圧を感じる。
雛森に睨みつけられた一護は、つかの間ぼんやりと立ちつくした。
そして不意に背後に下がる。そして片手で顔を覆い、大きく息をついた。
沈黙が落ちた橋の上で、一護の荒い息だけが響き渡る。三人ともが無言のまま、随分長い時間が経った気がした。
「すまねぇ。俺は、そんなつもりじゃ、」
振り絞るような声が指の間から漏れる。雛森が、訝しげに一護を見返す。
「死覇装……? 日番谷くん、この人」
「黒崎一護だ」
それを聞いた雛森が、眉間をぎゅっと寄せる。刀を一護に向けたまま歩み寄ると、日番谷の目の前で一護に向き直った。
「あの時の旅禍が……こんなところまで、どうして」
その言葉には、抑えきれない怒りがあった。
初対面なのだから無理もないが、「旅禍」という響きには、雛森の思考が藍染反乱前から進んでいないことを示している。
一護に非はない、と頭では分かっているはずだ。でも、一護たち旅禍が現れたことをきっかけに、事件が一気に進んだように見えるのも事実だ。
一護を前に、藍染のことを思い出すなというのは無理だろう。
向けられた切っ先……正確にはその向こうの雛森の怒りの強さに、顔を上げた一護がたじろぐ。
「よせ、雛森」
意図的に声を高めて、日番谷は氷輪丸から手を離した。
「そいつは敵じゃねぇ」
雛森はその言葉を聞いてもしばらくは動かなかった。しかし日番谷の無言に促されるように、切っ先をゆっくりと下に落とす。
飛梅の周囲に輝いていた赤い光芒は消えていた。
日番谷は雛森と並び、一護と対峙した。
「たった一人で敵の縄張りに乗り込むつもりか?」
「そうだ」
「死ぬだけだぞ。分かってるはずだ」
一護は、たまりかねたように一歩進み出た。
「何を……」
雛森が日番谷を庇うように刀を手に前に出たが、一護は素手で、雛森ごと飛梅を押しのけた。そして突然、橋の上に両手をついて頭を下げた。
「頼む!」
しん、とその場が静まり返る。
「井上を助けたいんだ。虚圏に行く方法を教えてくれ」
突きのけられた形になった雛森が、触れられた肩に手をやりながら、当惑と不審が入り混じった視線を日番谷と一護に向ける。
「どうしても行くんだな」
日番谷は、一護の掌の中に、小さなヘアピンを見つける。
織姫が髪に挿していたものに違いなかった。一護は視線を落とし、唇をかみしめる。
「……虚圏へ潜入する方法は一つ。虚圏への入口、黒腔を創造することだ。そして、その第一人者が浦原喜助だ。
二日前、黒腔を開通させることに成功したらしい。奴のところへ行け」
それは、隊長にしか知らされていない機密情報。死神代行に漏らしては罪に問われかねなかったが、不思議と伝えることに迷いはなかった。
一護はしばらくそのままの体勢で固まっていたが、不意に日番谷に向かって一礼した。
「……ありがとな。何だかんだ言って、お前だけは教えてくれると思ってた」
「あ? なんでだ」
こんな男に見透かされる覚えなどない。信頼されても迷惑だ。不機嫌に見返したが、顔を上げた一護は気にする様子もなく続けた。
「お前、井上を護るって言ってくれただろ。護れないなら井上を殺せって言われてたのによ。命令に逆らってくれた」
「それは……」
「感謝してる」
率直な口調でそう言われ、日番谷は言葉に詰まった。
「さっさと行け。時間はねぇはずだ」
とっさに別の言葉にすり替える。
「……あぁ」
一護はそう言うと、もう一度軽く頭を下げた。日番谷だけではなく、雛森にも。
そして背を向けたが、すぐにまた振り返った。
「何だ」
「……お前はまだ、奪われてねぇんだな。護れよ、何があってもだ」
何のことなのかは、痛いほどに良く分かった。日番谷はひとつ、頷いた。
***
一護が去った後、日番谷はその場に佇んだまま、しばらく身動きもしなかった。
荒ぶる男が残していった余韻が、まだ残っている。
「……良かったの? 日番谷くん。隊長だけの機密情報だったんでしょ? 今の」
刀を鞘におさめた雛森が、日番谷を振り返る。
「ああ」
「だったら、どうして」
「『あの』戦いの時、俺達はみんな右往左往してた。黒崎の行動は一番めちゃくちゃだったけど……少なくとも、間違っちゃいなかった。ただ一人だけな」
「でも! 日番谷くんだって、間違ってたわけじゃ……」
「俺は間違えた」
日番谷は首を振った。「間違えた」に違いない。結果的に藍染を止められず、雛森を護れなかったのだから。
自分も、こうしてはいられない。足早に十番隊舎に向かった日番谷を、不安げに雛森が追う。
隊舎内の自室に戻るが早いか、纏っていた単衣を脱ぎ捨てた。
「ちょ、ちょっと」
続いて部屋に入ろうとしていた雛森が、上半身裸になった日番谷を見て流石に二の足を踏む。
しかしその視線は、すぐに日番谷の胸元に吸い寄せられた。
巨大な十字傷が、その胸には深く刻み込まれていた。右肩から左脇に斬り下げられた傷は、藍染にやられたものだ。
そしてまだ真新しい、スタークにやられた左肩から右脇への傷。図ったかのように心臓の前で交差していた。
「ひどい」
口元を手で押さえた雛森の顔が、青くなっている。片方が、藍染による傷だと分かったのだろう。
その雛森にも、藍染によって貫かれた傷がまだ残っているはずなのだ。
「卯ノ花隊長には、そのうち消えると言われたけどな。そのままでもいい」
自分が未熟なままだということを、忘れないために。
「無茶だよ」
雛森の声が、泣きそうに震えた。
「そんな酷い傷を負って……どうして、戦い続けなきゃいけないの」
ふっ、と日番谷は心中、ため息をついた。
日番谷を庇って一護と向き合ったあの一瞬、かつての雛森が戻ってきたような気がしたのだ。でもそれは、気のせいだったのかもしれない。
戦わねばここが戦場になり、殺されるだけだ。もう戦わなくて済ませられる状況ではないことを、雛森も気づいているはずなのに、目を逸らしている。
「まだ、護るものがあるからだ」
雛森にとっては、藍染を失った風景など荒野にしかすぎないのかもしれない。でも日番谷の目には、護るべき者の姿がはっきりと映っている。
「……あたし、」
「お前はしっかり食え! そして、ちゃんと寝ろ」
ぶっきらぼうに言うと、死覇装を羽織り、腰紐をキュッと腹の前で結ぶ。
「……日番谷くんは、どうするの」
「修行に出る。完全な卍解を会得するために。その前に、総隊長に会って行く」
「えっ? でも……」
雛森の声が、途中で小さくなる。
日番谷の卍解が不完全だということをはっきりと知っているのは、総隊長と雛森だけだった。
隊長の中には薄々気づいている者もいるだろうし、今回乱菊にも知られてしまっただろうが、直接話したのはこの二人だけだ。
「……ごめんね、日番谷くん」
雛森の声が小さく聞こえた。
「あたしもいつか、隣にいけるようにがんばるから……」
* last update:2012/7/1