一時間後。日番谷は一番隊舎内の一室で、総隊長と向き合っていた。
これから口にしなければいけない話題のことを考えれば、気が重かった。
しかし総隊長は黙り込んでいる日番谷に頓着せず、茶を点てている。
しかし、それにしても。
―― なんで茶室なんだ?
この戦時下に、刀も持って入れないような茶室に通すとは。あまりにも場違いだという他なかった。
日番谷の当惑を他所に、総隊長は飄々とした表情で茶点てを置いた。
チュンチュン……と雀の声が窓格子の外から長閑に聞こえてくる。春の日差しが長く畳の上に差し込んでいた。
「どうじゃな、この抹茶。最近変えてみたのじゃが」
日番谷の思惑など露知らずか、総隊長が湯飲みを日番谷につい、と差し出した。
最近変えたと言われても、総隊長が立てた茶を口にするのは初めてだ。
これまでも茶会に声をかけられたことはあったが、何時間も狭苦しい部屋で堅苦しい思いをする気になれず、浮竹や京楽を盾に逃げていたものだ。
―― 苦い……
「無事出歩けるようになったなら何より。それで、今日は何用じゃ」
日番谷が湯飲みを放り出したい衝動に駆られていた時、総隊長から話を切り出してきたためほっとした。
湯飲みを体の脇に置くと、指を畳の上について頭を下げる。
「今回の失態は、先遣隊を率いた俺の責任です。申し訳……」
「おぉ、日番谷隊長。此度のことじゃがな」
ずずっ、と自らの淹れた茶をすすりながら、総隊長は思い切り遮った。
「藍染の目的の特定から、井上織姫の保護の指示まで非常に的確、かつ迅速であった。力量が上回る破面を相手に、連携で押し返した手際も見事である。……伝令神機を破壊したことまでは誉めてはおらんがの。井上織姫を敵の手に渡したことは確かに失策じゃが、だからと言ってあの敵の力量を考えれば、防ぐことは難しかったじゃろう。お主は最善を尽くしたと思っておる」
「は? しかし」
「しかしじゃ。まだまだの所もあるの」
総隊長は、日番谷の言葉を掬い上げるように続ける。下げていた頭を上げて総隊長を見やると、そこには意外なくらい柔和な瞳があった。
「責任を自分に持って行きすぎる。京楽を見よ、いつも要領よくやっておる。浮竹も朽木も、ああ見えてうまく責任を分散させておるのじゃ。京楽のようになれとは言わんが、あまり真面目すぎると持たぬぞ」
「はぁ……」
「何より。隊長たるもの、頭を簡単に下げてはならぬ。お主らは、三千人が所属する護廷十三隊の頂点なのじゃ。お主らが常に迷わず道を示せればこそ、部下は迷わずついていけるのじゃ」
「……」
その言葉は、今の日番谷には痛かった。ふむ、と総隊長は口の中で唸ると、黙り込んだ日番谷を探るような目で見つめてきた。
「……まあ、そう気負うでない。負けても良いではないか」
「……はっ?」
日番谷は言葉をそこで切り、穴が空くほど総隊長の顔をじっと見つめた。この目の前の老人は、今何と漏らした?
「負けても良いって、何を言ってるんですか、総隊長……」
「何を意外そうな顔をしておる。お主とて気づいておるじゃろうが? 死神の劣勢を知りながら王廷が此度の戦いに組しない、その理由を」
「滅びたなら滅びたで構わない」そう言い放った日番谷に対して、総隊長が激怒したのは記憶に新しい。
しかし総隊長は、その時見せた怒りが嘘のように、こともなげに言った。
「そう。滅びたなら滅びたで構わぬ……更に言えば、死神亡き後、王廷自らが瀞霊廷に君臨するためじゃろうて」
「……総隊長」
無意識のうちに、畳についた拳をぎゅっと握りしめていた。日番谷の顔色が変わったのにも気づかないように、総隊長は続けた。
「王廷のほうが、瀞霊廷を護るには適しておる。のう、そうは思わ……」
ばん!
日番谷が掌で畳を叩いた音に、庭の外で雀の群れが飛び立った。
「王廷が何を思おうと関係ない。最後の一人になっても。瀞霊廷を護るのは俺達だ。違いますか」
微かに声が震えるほどの怒りをぶつけられても、総隊長は微動だにしない。静かな瞳で、日番谷を見返しただけだった。
「……お主は本気で、瀞霊廷を護り抜くつもりか? 王廷よりも、我らの方が瀞霊廷の守護にはふさわしいと言うか」
「当たり前だ!」
この男は、今の今までそんな心づもりで瀞霊廷を二千年も護って来たと言うのか。そんなはずはない、という疑いを、突発的な怒りが追い越した。総隊長以外の隊長が同じ事を口にしたら、おそらく殴っていただろう。
しばらくの沈黙があった。息詰まるような空白の後に、うつむいていた総隊長の肩が不意に大きく揺れた。日番谷は眉根を寄せる。
「総隊長……もしかして」
まさか笑っているのかこの男は。
総隊長は無言だったが、ふっ、と息を漏らす。すぐに肩を揺らし、茶室を揺るがすような呵呵大笑を放った。
「若いとはいいのう。不遜もそこまで来ると気持ちがよいわい。それでこそお主じゃ、安心したぞ」
「……まさか。嵌めた……?」
「それくらいの腹も読めぬとは、やはり若いわ」
思わず赤面したのが自分でも分かる。無言で身を退くと、元の場所に正座をしなおした。
「で。本題に話を戻していいでしょうか、総隊長!」
「もちろんじゃ」
何事もなかったように茶をすする総隊長に殺意を覚えながら、体をまっすぐに起こす。
「総隊長は、知っているはずです。俺の卍解が、未だ不完全だということを」
総隊長は眉ひとつ動かさずに、日番谷の言葉を受けた。それを肯定と捕え、言葉を続ける。
「卍解の会得は、隊長となる必須条件。俺は歴代でただ一人、不完全な卍解でありながら、隊首試験に合格したと聞いています。これまではそれでもよかったかもしれない。でも、今回の戦いは、完全な卍解なしに乗り切れるものじゃない」
ふむ、と総隊長は髭を捻る。
「お主が破面と戦ってそう思ったのなら、それは事実なのじゃろうて。それで? 何を望む」
「修行のため、十番隊隊長職をしばらくの間、休職させて頂きたい」
「しばらくの間」がどれほどになるのか、それは日番谷にも分からなかった。ただし、残された時間は決して多くはない。
総隊長はしばらく無言だった。言葉の代わりに、深く長いため息をついた。
「お主が、そこまで思い詰めておったとは。留守の間、隊長業務はどうするつもりじゃ」
「松本に、俺がいない間の仕切りを任せてあります。後見は京楽に頼みました」
二日前、それを切り出した時の乱菊の表情を思い出していた。普段自分の業務もさぼりたがるくせに、あの時は本当に嬉しそうな顔をしていた。
―― 「隊長の力になれるなら、あたしは何だってやりますよ」
そう言った彼女の明るさを取り戻した表情を、思い出す。決意した以上、日番谷が完全な卍解を会得すると100%信じきった声だった。
総隊長はしばらく沈黙した後、重い口を開いた。
「休職については、認めよう。しかし一つ言わねばならんが……お主が望んでいる結果は難しいかもしれんの」
「……完全な卍解は難しいということですか?」
「そう結論を急ぐでない。……氷輪丸を見せてくれぬか」
日番谷は頷き、茶室の外に立てかけてあった氷輪丸を持ち込むと、総隊長に手渡した。総隊長は皺だらけの手で静かに鯉口を切り、静かに刃を抜き放つ。薄暗い茶室の中で、刀身が鈍く輝いた。
「……やはり、な」
そう呟く。その低い声音の意味が分からなかったが、不吉な予感が胸の中に広がった。
「お主の卍解が未完成じゃということは、隊首試験の際、大きな議論を巻き起こしたのじゃよ。単純に実力のみで言えば隊長格レベル。しかし未熟な卍解のまま隊長職に就かせるべきではない、という意見も多くての。今は修行に専念させ、完全な卍解を会得した後でも遅くはないという意見が大勢じゃった。それでもその時点でお主を隊長にと推したのは、儂じゃ」
「……それは、何故」
「お主、おかしいと思ったことはないか?」
総隊長は逆に問い返した。
「お主は物ごころついた時から、この『氷輪丸』を携えていた。夢で刀と会話するとも言っていた。通常の刀『浅打』で修行する中で刀が霊性を帯び、斬魂刀となる……その過程を経ておらぬ。そもそも、『始解』がいつなのかも不明瞭じゃ」
「なんでそれを……」
「知っているのか、と? 隊首試験の前には、斬魂刀の審査もあるのを知っておろう?氷輪丸についての審査結果は『疑いあり』。理由の一つは、お主と氷輪丸の霊圧に、完全な一致が見られないこと。二つは、『浅打』、『始解』、『卍解』。この三つの段階の全てを、氷輪丸が満たしていないこと。どちらも斬魂刀としては致命的じゃ」
その言葉は、日番谷にとってはまさに晴天の霹靂だった。一瞬言葉を失った日番谷は、言葉に詰まりながらも問い返す。
「……氷輪丸が不完全な斬魂刀だってことですか? 当時、そんなことは一切……」
「不完全とは言わぬ。従来の斬魂刀の型におさまらぬ、ということじゃ」
総隊長は、思わず片膝を立てた日番谷の前に手をかざしていさめた。
「……すまぬの」
総隊長が頭を下げるのを、日番谷は絶句して見返すことしかできなかった。
「死神全体の秩序を揺るがすが故に、斬魂刀の『亜種』の存在は禁忌なのじゃよ。卍解を会得した後に隊長に据えるという条件をつけては、お主が卍解に至れなかった時に、
なぜできないのかという議論が巻き起ころう。その際に、氷輪丸の正体が明るみにでるかもしれぬ」
「……議論を終わらせるために、隊首試験に合格させた、と?」
「誤解するでない。お主の実力が隊長レベルでなければ、そんな決断はせぬ」
沈黙のあと、日番谷は力なく問うた。
「そこまでして隠そうとした、氷輪丸の正体とは何なんですか」
「分からぬ。亜種だということ、当時はそれだけ分かれば十分じゃった。それに情報とは漏れるものじゃ……儂はそれ以上の調査をあの時、命じなかった。じゃが、お主なら直接、氷輪丸に聞けるであろう?」
総隊長が差し出した氷輪丸を受け取る。心なしか、それはいつもより重く、冷たく感じた。
その時、、茶室の外に気配が現れた。
「雀部か。どうしたのじゃ」
総隊長が茶室の向うに声をかけると、は、とすぐに落ち着き払った声が返した。
「人間と死神数名が浦原喜助の手引きにより、虚圏へと潜入したようです。侵入者の名は、阿散井恋次、朽木ルキア、黒崎一護。そして、石田雨竜、茶渡泰虎の合計五名です」
日番谷はチラリと総隊長の顔を見やったが、意外そうな表情は浮かべていなかった。
「ふむ。まぁ、思ったよりは早かったな。しょうがあるまい。更木、卯ノ花、涅、朽木。以上四名の隊長に出陣の準備を指示しておけ」
雀部の立ち去る気配を聞きながら、総隊長は日番谷に向き直った。
「お主も、現世で夜楓院夜一に会うつもりじゃろう?」
完全に、読まれている。日番谷はひとつ頷いた。
「せいぜい10日。長くて二週間しかやれぬぞ」
「はい、ありがとうございます」
今この状況で、戦線離脱が許されるほうがおかしいのだ。日番谷は一礼し、その場を後にした。
* last update:2012/10/10