26. PANDORA�X

「氷輪丸か……？」
　日番谷は訝しげに眉をひそめ、辺りを見回す。氷輪丸の声は広い空間に反響するように、どこか亡羊としていた。しかし今聞こえた声は、はっきりとした輪郭を持っていた。遠くに聞こえていた咆哮が、突然耳元で聞こえたようだ。そう思った時、夜一はなぜかゾクリとした。周囲を見ても、そこには凍てついた地面が広がっているだけだ。
「一体どこに……」
　浦原に向き直りかけた日番谷の肩が、びくりと痙攣したように跳ね上がる。
「誰だッ！」
　鋭い誰何とともに、氷輪丸の柄に手を掛ける。
「日番谷っ、どうしたのじゃ」
「分からねぇ、けど。誰かに見られてる」
　鯉口を切る、その指先は力がこもり白くなっていた。
　
「なんだ？　これは……霊圧、なのか」
　息詰るような沈黙の後、浦原がぽつんと言葉を落とした。普段の飄々とした、「造った」空気とは別の、素の横顔を見せている。
「霊圧、というよりも、これは」
　夜一は言葉を引き継いだ。浦原と同じく、奇妙な気持ちに包み込まれていた。その場に少しずつ広がっていたのは、霊圧と言うには余りにも静かだった。冬の朝のように冴え冴えとした静謐な空気が、その場を覆ってゆく。

「そこにいるのか」
日番谷が刀を抜き放つ。そして、何もいないはずの一角に、切っ先を迷いなく向けた。一体どうしたのだ、と軽々しく問いかけられぬ空気が、その表情にはあった。辺りを油断なくうかがう瞳に、今まではなかった強い緊張が浮かび出ている。
「……これは面白い。気配が一箇所にわだかまってゆく」
　浦原がゆっくりと呟き、日番谷が刀で指した場所を見やった。その頃には、夜一も感じ取っていた。
　
　まるで寒月のような凛とした気配が、一箇所に凝り固まってゆくのが、精神を研ぎ澄ませれば分かった。その部分が、陽炎のようにゆら……と揺らめき、人の姿を形作るのに、その場の四人は同時に息を飲んだ。
「……お前は、誰だ」
　刀を正眼に構えた日番谷の目が、ゆっくりと見開かれた。
「……我の名は、氷輪（ひのわ）」
　一瞬、人の声とは分からなかった。深い洞窟を風が吹きぬける音を聞くような、低い、かすれた響きだった。まるで、ずっと長い間、肉声を発していなかったかのように。あっ、と声をあげそうになった時には、そこには既に一人の男が佇んでいた。まるでずっと前からそこにいたような、自然さで。

　それは、人間なら年のころ50代くらいの、初老の男だった。生成りの着物を3枚ほどゆったりと重ねている姿は、まるで白い死覇装をまとっているかのようだ。首からは何連も連なる長い黒数珠をかけている。まるで修行僧のようだ、と思ったのは、その服装もさることながら、男の醸し出す空気も原因だった。口の脇や眉間など顔のあちこちに、彫刻刀で掘り込んだような、きっぱりとした皺が刻まれている。それは老いというよりも、その男の雰囲気に断固とした意思を添えているように見えた。殺意も敵意も感じない。穏やかな、と言ってもいい気配が、日番谷の緊張と比べて不釣合いに見えた。切れ長で、二重の瞳がゆっくりと開けられる。濃い茶色の瞳が、日番谷の前にひた、と据えられた。

　え、と日番谷が軽く声を漏らした。その視線は、その男が左手にだらりと提げた刀に吸い寄せられている。特徴的な星型の鍔の形、美しい弧を描く長刀はどう見ても――
「氷輪丸が二本……？」
　日番谷は自分が構えた刀を見下ろし、信じがたいといった声で男の刀と見比べた。
「……どういうことじゃ」
　思わぬ事態に、夜一も身体をこわばらせた。日番谷が、単純に刀の形が同じだから動揺しているわけではないことはすぐに分かった。氷輪という男と、日番谷の持つ二本の氷輪丸から感じる霊圧は全くの同一。そして、氷輪から感じる霊圧は、氷輪丸から感じる霊圧と完全に一致しているように思えた。……日番谷でさえ、氷輪丸とは霊圧がわずかに「ずれて」いるというのに。

「氷輪サン、とおっしゃいましたね」
　浦原が、ひょいと地を蹴り日番谷の前に着地した。油断なく、斬魂刀『紅姫』を構えている。
「見たところ、アナタと氷輪丸の霊圧はぴったり重なるようですが……アナタは、何者です？」
「……声」
　浦原に返したのは、すぐ背後にいる日番谷だった。
「声？」
「あの男……俺が物ごころついた時から、頭の中で俺に話しかけてきてた、『氷輪丸』と同じ声だ」
　それを聞いて、ピンと来た。
「龍は、仮の姿か？　……お主が、氷輪丸が具象化した真の姿か」
　さっきまで具象化していた龍の声は周囲に割れるように響いていたため分かりづらいが、声の質は似ている気がする。
　当然、斬魂刀は元々刀の形をしている。対話は頭の中で行われるため、精神世界で相手がどんな姿をしているのかは分からない。神具によって具象化してみても、その姿は刀の持ち主の意識に大きく左右される。持ち主が己の斬魂刀を人型だと思いこんでいれば、本来の姿はなんであれ人型に見える。具象化とは、極めてあいまいな現象でもあるのだ。実際に氷輪丸を振るった時に、氷雪が龍の形になるため、日番谷自身が龍の形だと思いこんでいた可能性は大いにある。

　氷輪は、日番谷に視線を向けたが、表情は全く変えなかった。その、固く引き結ばれた唇が言葉を紡ぐ。
「……今のお前に告げる必要はない」
　そして、一歩踏み出した。じゃりっ、と地面が鳴る。反射的に、日番谷が一歩下った。そして下がってしまった自分の足を、信じられぬように見下ろす。やはりだ、とそれを見守っていた夜一は思う。日番谷は緊張している。いや、これはもう「緊張している」というよりも……
「力を手に入れたいか？」
　不意に投げかけられた男の問いに、日番谷の肩がピクリと反応する。
「当たり前だ！」
　男と対照的に、若々しい声だった。迷いを振り切るように、一歩大きく前に踏み出す。
「ならば我に勝利せよ。されば力を与えよう」
「……それは、本当だな」
「偽りを言う理由がない」
「そうか」
　日番谷は自らの刀を、油断なく正眼に構えた。
「お前が『氷輪丸』の真の姿というなら……龍にさっき勝ったんだ。姿を龍から人間に変えただけのお前に勝てない理由はねぇ」
　この少年らしからぬ断定の仕方だ。聞いていた夜一がそう思った時。男の口元が、にぃ、とつりあがった。暴風のように唐突に、その男の気配が変わったのは一瞬のことだった。

「くく……はははははは！！」

　さっきまでの静謐を一瞬で破壊し、狂ったように男は笑い出した。
「――っ！」
　日番谷がその場から飛びのく。まるで突発的な火山の噴火のように、男の霊圧がいきなり跳ね上がったからだ。
「何……っ！」
　笑声に反応するように、地面が地割れを起こす。割れた地面からは次々と氷の塊が噴出してくる。ピシッ、という音に顔を上げると、大気中に跳ね上げられた岩が一瞬で凍りつくのが見えた。温度が、急速に下がってゆく。

　吹きつける烈風に、夜一は顔を腕で庇った。
「痛っ……」
　庇った腕に鋭い痛みが走り薄く目を開けると、腕が見る見る間に凍りつくのが見えた。
「ここから離れましょう。凍死なんて旬じゃない死に方はゴメンです」
　夜一の腕を、背後から浦原が引っ張る。
「バカヤロウッ、早く下がれ！　浦原、四楓院！」
　斬魂刀を眼前に構えた日番谷が、前に降り立った。さすが氷雪系の力を操るだけあって、全く凍りついてはいない。
「この場は俺が押さえる。だから――」
　そこまで言った時だった。男が、日番谷に向って指先を向けたように見えた。
「ひつ――」
　浦原が呼びかけようとした刹那、日番谷の頬が血を吹いた。
「……っ？」
　頬を流れる血をを拳で乱暴に拭うと、男に向き直る。そして自分に向けられた指先を、信じられぬように見返した。閃光が走ったようにしか、夜一の目にも見えなかった。
「屈服させる、俺が押さえる、とさっきから聞いていれば……誰が、誰を？」
　男の瞳の奥に潜んでいる狂気が、露になる。
「くだらぬ冗談を言っておると……殺すぞ」

　どういうことだ、と浦原が口の中で呟くのが分かった。
「日番谷隊長、本当に逃げた方がいい。……あの男、アナタより遥かに強い。いや、この場の誰も、あの男に勝つことなんてできない」
「お前らだけで逃げろ」
　日番谷は間髪入れず返した。
「あいつが氷輪丸の持ち主なら、呼び出したのは俺だ。俺が始末をつける」
　逃げろ、と言うことは。日番谷にも分かっているのだ、このどうしようもない実力差が。
「お主も退け！　ここで犬死して零になるよりはマシじゃ！」
　夜一は小さな肩をガッと掴んだ。この男を倒すのが力を得るのに必要だというなら、それは時期尚早ということだ。だが、何年も修行を積めば、いつか匹敵する力を身につけられるかもしれない。しかし、日番谷はその手を振り払った。
「今だって零と同じだっ！」
　爛々と輝く翡翠の瞳が、夜一に向けられた。
「あいつらを護れねぇなら、今の力は『零』なんだ。強くなる道があるのに、背を向けるなんてできるか！」
「馬鹿者が……」
　こんな顔をする奴を、止めるだけ無駄だということは一護の時に学習している。自分たちにできるのは、男が本気で日番谷を「殺す」つもりなら、それを阻止することのみ。

「なりふり構わず強くなろうとするのは、そのためか」
　ざっ、と足音が響き、一斉に身構える。
「『護る』か。美しい言葉だ」
　氷輪が、刀を一振りした。それだけで、剣筋の通った地面が一瞬で凍てつく。三人は同時に飛び退いた。日番谷が刀を正眼に構え、男を見返した。
「綺麗事、だと？」
「死神の矜持は、『終わらせる』ことだ。死に切れぬ人間の命を終わらせ、それでも死ねず虚になる者たちを斬る。我がお前の中から『見てきた』風景は、いつもそうだった。いつかは、全ての行いには報いがあるもの。誰かを終わらせる者は、誰かに終わりを見せられる。お前には違うものが映っていたのか？」
「違う」
　夜一は、思わず日番谷の背中を見つめた。
「俺はそんなものは見ちゃいない。いつだって終わらせるためじゃなく、続けていくために……始めるために、俺たちは戦ってきたんだ」
「今まさに、自分の命を終わらようとしているのにか。あの殉職命令をお前は受け入れた」

　殉職命令。その言葉に、一瞬夜一の思考は停止した。
　予想がついたことではある。目の前にいるのが総隊長や京楽や浮竹、卯ノ花なら、頷いていただろう。たとえ自分が言われても、あっさりと受け入れる自信はある。なぜなら自分たちは生きすぎたし、今回の原因にも関係がある。それなのに……一護や、日番谷や。罪を作っていない若い者から身を危険にさらしてゆく。理不尽だと、似合わないことを思った。
「それでも」
　日番谷の言葉は静かだった。おそらく、「死」というものについて何度も何度も考えて来たのだろう。
「俺は、戦いの終わりを見届けるまでは死ねない。先がどうなるかも分からねぇのに、途中下車は御免だ」
「……浦原」
　夜一は、傍らに立つ浦原を見上げた。
「日番谷を死なせてはならんぞ」
「骨が折れることですねぇ」
　浦原は年より染みたセリフを吐くと、諦めたように刀の柄を握った。
「ふん……」
　氷輪と名乗った男はむしろ満足そうに、笑みを広げた。しかし、その瞳から見える殺気はどんどんと増している。
「我は、お前のそういう甘さを嫌いではない。だがそれでは、我には決して勝てぬ」
「やってみなきゃ、分からねぇ」
　向き合った二人が同時に体勢を低め、氷輪丸を向け合う。まるでシンメトリーのように、二人の動きは瓜二つだった。
「言葉で語る場面は終わりだ。かかってこい」



＊　last update：2012/10/11