「『大紅蓮氷輪丸』!」
一切の小手先は通用しないと、先だってのやり取りで感じていたのだろう。対峙すると同時に、日番谷が卍解した。さすがに、その霊圧はさきほどまでと比べ物にならない。極限まで高まった霊圧が全身から噴出し、氷となって背中に巨大な翼を形作った。
相対する氷輪は、氷輪丸を持ちながら卍解どころか始解すらしていない。観察するように、日番谷の姿に視線を止めている。氷輪と、日番谷の視線が交錯する。本来なら、相手の出方が全く分からないときは、打って来させて様子を見るのが定石だろう。
……しかし。夜一には、日番谷が先に打って出るだろうという予感があった。もしも日番谷が、相手の実力に呑まれかけているとするならば、待つことはすまい。
「……来い」
図ったように、氷輪が顎をわずかに引いてみせる。次の瞬間、日番谷が地を蹴り、疾風のような勢いで氷輪に斬りかかった。
キィン、と金属がぶつかり合う高い音が響き、二人の男の影が中空ですれ違った。ざっ、と音を立て、それぞれが地面に着地する。着地すると同時に身を翻し、再び対峙した。二人の動きは、鏡に映したように瓜二つである。ただし、180センチは優に越えている氷輪と、130センチあまりの日番谷では、どうしても撃ち込みの重さに差がありすぎる。短距離戦はどう考えても不利だった。日番谷は、すぐに手にした斬魂刀を翳し、霊圧を込める。元々冷えきっていた周囲の冷気が凝固し、空間に5メートルはある氷の柱が次々と出現する。そして氷輪を取り囲んだ。チラリ、と氷輪が自分に迫り来る氷を一瞥する。
「……氷漬けになったらちょっとは堪えるだろ」
なるほど、氷に閉じ込めて身動きを取れなくする算段か、と夜一が読んだ。
「千年氷牢」
切っ先を向けた瞬間、氷の柱が氷輪に向って殺到する。氷輪は、瞳をスッと閉ざした。そして、掌を胸の前で上に向ける。口元で何かを呟くのが聞こえた。
「……破道の六十、鎌鼬」
浦原が息を飲むのが分かった。氷輪の言葉と同時に、掌の上でつむじ風が巻き起こったように見えた。それは見る間に巨大な刃となり、迫り来る氷の柱を一気に切裂いた。
「何っ?」
日番谷が息を飲む。
「下がれ日番谷! 来るぞっ!」
瞬歩で日番谷が下がるよりも、氷輪の動きの方が早かった。斬魂刀の柄尻から伸びた鎖を手に取り、ひょうと投げる。氷の間を掠め跳んだ鎖は過たず、日番谷の右腕と刀を絡め取った。
「ちっ!」
そのまま、氷輪が鎖をぐいと下に引きおろす。こらえきれず、日番谷が岩上に着地した。ピンと張った鎖を間に、対峙する。
「綴雷電!」
すかさず日番谷が叫んだ。絡み取られた鎖を伝い、雷電が氷輪に向かう。
「……断空」
氷輪の反応は素早かった。放った鬼道は無効化され、虚空に雷電が飛び散る。
日番谷は油断なく斬魂刀を氷輪に向けたまま、背後の浦原に声をかけた。
「……斬魂刀の本体ってのは、鬼道を使うのか?」
「奇遇ですね。今アタシも同じこと考えてました」
浦原が返す。口調は相変わらず飄々としているが、この男が今猛烈な勢いで考えを巡らせていることは分かった。
「……普通に考えれば、ありえんじゃろう」
「ですね。鬼道を使えるのは、訓練した死神だけのはずです」
霊圧を持つ者は死神以外にも幅広く存在し、鬼道に似た技を独自で編み出す者も稀にはいる。しかし今、目の前のこの男が使った技は「鎌鼬」と「断空」の二つ。どちらも、鬼道の基本が押さえられている上に、当たり前のように詠唱を破棄して使っている。
―― これじゃ、まるで死神だ。
その場の三人が同時に、同じ事を思ったに違いない。
「お前は、一体何者だ?」
まなじりを決して、日番谷は単刀直入に尋ねた。その口調には、もはや敵意は籠っていなかった。
「……覚えては、おらぬか」
黙っていた氷輪は、ゆっくりとそう返した。その無表情からは、感情は読みとれない。
「なんのことだ?」
「お前と我は、約束を交わした」
日番谷が、ごくりと唾を飲み込むのが分かった。
「約束……?」
「そうだ。その約束のために、我はお前と共に在る」
傍から見ていても、日番谷がその「約束」とやらの内容に思い当たっていないのは、明らかだった。
「……そうか」
氷輪は静かに瞑目した。夜一の目には、まるで何かを諦めたように見えた。そのまま、その姿が煙のように視界から掻き消える。
―― どこだ?
夜一が辺りに視線を走らせた、その時だった。ドッ、と鈍い音が耳に届いた。続いて、かすかなうめき声も。
「日番谷隊長っ!」
めったに聞かない、浦原の緊迫した声がその場を貫いた。
その場に散った鮮血に、一瞬何が起こったのかわからなかった。
氷輪が、日番谷の左の二の腕を無造作に掴み、その小柄な体をやすやすと中空に掲げていた。夜一の視界には、日番谷の背中だけが見えた。そして、その背中からまっすぐに突き出た銀色の輝きに、視線を奪われる。
「日番谷ッ!」
氷輪の斬魂刀が、日番谷の腹から背中を貫いていた。この位置、心臓は外れているが重傷には間違いない。ビクン、と日番谷の体が一度痙攣し、その後だらりと力を失う。その腹から足を伝い、鮮血がポタポタと地面に落ちた。
「貴様っ……」
夜一が構えると、氷輪は興味を失ったように、地面に日番谷の体を投げ出した。慌てて駆け寄り、抱き起こす。その手に斬魂刀を握ったままなのを見て、ほっとした。まだ、かすかに意識はあるか。
ざ、と単調な足音が聞こえ、夜一は顔を上げた。ゆっくりと、歩み寄ってくる。顔を上げるだけで、その霊圧が吹き付けて来そうだった。夜一は、無言で日番谷を地面に寝かせ、身構える。
「それ以上は、やらせませんよ」
声と同時に、浦原が上空に現れた。「紅姫」を手に、上空から一気に氷輪に向って斬りつけた。
―― いけるか!
「紅姫」が至近距離に迫っても、氷輪は微動だにしない。と、無造作に腕を伸ばし、刀の鍔口の辺りをぐっと握り締めた。
「な……」
浦原が声を漏らす。鍔口と言っても刃だ、握りしめた氷輪の右掌から血が滴る。しかし痛みもないのか、ぐいと引き寄せると、つられて近づいた浦原の胴体を思い切り蹴り飛ばした。カランッ、と音がして、「紅姫」が地面に転がる。
「遅い上に、一撃が軽すぎる」
氷輪が地面に倒れた浦原に歩み寄るのを見て、夜一は地を蹴った。
「くっ!」
間一髪。振り下ろされた刃をかいくぐり、浦原の肩をつかむと、瞬歩でその場を移動した。その極限まで高めたスピードに自分でも着地できず、地面に体を打ちつけて止まる。
「我を呼びだしておきながら、これだけのもてなしで終わる気ではないだろうな」
素早く起き上がった我らに、氷輪が迫る。
「たりめー……だ」
その背後で、日番谷が刀を地面に突きたて、起き上がろうとするのが見えた。
「馬鹿者! もう修行どころではない!」
とんでもないパンドラの箱を開けてしまったのだ、と今になるとよく分かった。宝箱に見えて、開けてみればバケモノが巣食っていたということだ。殺気が波のように押し寄せてくるのを感じながら、身構えた。
***
「まだ、向かってくるか」
氷輪の声が、エコーのように耳に届いた。
―― 手足の感覚がない……
寒さと同時に小刻みな震えが全身を繰り返し、襲う。血を失いすぎたのかもしれぬ。まるで自分のものではないように、体が動かなかった。傍に、浦原が転がっているのが見えた。その後ろには日番谷の姿もある。二人とも意識があるとしても、朦朧としている状態だろう。ピクリとも動かなかった。
―― 儂らがこの状態で、今更向っていける者がいるとなると……
「テッサイ……ダメじゃ、逃げろ」
この者は、まともではない。次元が、違う……
「勝てぬまでも、貴方を止める!」
テッサイの声も、苦痛に割れている。おそらく、浅からぬ傷を負っているのだろう。
「……く」
無理やりに身を起こすと、対峙する二人が目に入った。佇んでいる氷輪は、その着物に血のしぶきすら飛んでいない。一対四で戦っているにも関わらず、疲労の影も見えない。氷輪の輪郭が、滲む。皺が刻まれた厳しい横顔が、遠ざかる。
どういうことなのだ、と思わずにはいられなかった。
日番谷は現役の隊長だ。浦原と夜一もそれぞれ隊長だったことがあるし、テッサイも同レベルの力を持っている。仮にこの男が死神だとすれば、自分たちが手も足も出ないとは一体どういうことなのだ?
……それに。
そこまで考えて、夜一はふっと寒気を覚えた。
氷輪。これほどまでに強い男で死神だというなら、名前が知られていてもいいはずなのに。
そのような名前の男は、知らぬ。
「お主は……一体、何者なのだ?」
涼しげな鳶色の瞳が、夜一に向けられる。しかし感情をともなうことなく、そのままテッサイに戻った。
このような男に勝利するなど、絶望的ではないか。
「……ちっ」
その時氷輪が、舌打ちと同時に空を仰いだ。
「時間切れ、か」
その視線が日番谷に注がれる。ちょうどガックリと首を落とし、地面にくず折れたところだった。意識は全くないようだ。
「何……」
声を上げた瞬間、氷輪の姿が驚くほどのあっけなさで、ふっ……と立ち消えた。
「え?」
テッサイがきょろきょろと辺りを見回す。
「もう大丈夫そうじゃ、テッサイ」
気配を探った夜一が声をかけると、力尽きたように両膝を地面についた。律儀なこの男のことだ、何があろうが最後の自分が倒れるわけにはいかぬと、無理をしていたに違いない。
「夜一殿、ご無事ですか?」
「やれやれ。これが無事だというなら、大抵のことは大丈夫じゃ」
夜一はやっとのことで身を起こし、地面に座り込んだ。
「一体、どうしてあの男は突然消えたのです? おかげで命拾いしましたが」
「日番谷が気を失ったのと同時じゃな。理由は分からぬ。考えるのももう面倒じゃ」
「やっと行ったっスね」
意外なくらい身軽に、浦原が身を起こす。
「お主……気を失ったフリをしておったな?」
「そのうち行ってくれるかなーと思いまして」
腹が立つほど平然と言い放つと、落ちていた帽子を拾って頭に載せ、日番谷の元へと歩み寄る。口調とは逆にその足取りは重く、右手で腹を押さえていた。
「全く。とんでもないバケモノを呼んでくれましたね」
うつぶせに倒れた日番谷の体を仰向けに返すと、肩と膝裏を持って地面から起こした。おぉ軽い軽い、と驚く浦原の口調に、さっきまでの緊張感はまったく感じられない。
「……浦原。どう読む? 今しがた起こったことを」
「……あの氷輪サンという男が死神で、『氷輪丸』を己の斬魂刀としていた、と考えるのはどうでしょうね。何かしらの手続きを経て、彼は日番谷サンに『憑依』した。だから日番谷サンが意識を失えば、氷輪サンは存在し続けられない」
「何かしらの手続きって何じゃ」
夜一が訊ねると、浦原は肩をすくめた。
「今思いついた仮説にすぎませんから。それに、寡聞にしてあれほど強い死神をアタシは知りませんし」
「……儂もじゃ」
死神なら、護廷十三隊に所属したことがあるはずだ。しかし、長年所属した夜一ですら、氷雪系でそれほどまでの力の持ち主がいるとは初耳だった。
それにしても、理解できないことばかりだ。命の危険が去ってみると、今度は腹が立ってきた。
「ま、少々調べてみますよ。いや、なかなか面白い」
やっぱりこの男はどこかタガが外れている。涅ほどあからさまではないが、放っておけば日番谷を研究対象にしそうだった。夜一は地面にそっと下ろされた、日番谷の顔を見下ろした。場違いなくらいあどけない表情で眠っている。思わず、溜め息が出た。
「しばらくは儂らも、生傷が絶えぬな」
* last update:2012/10/11