じっとりと暗い穿界門を通り抜けると、真っ青な空が広がっていた。瀞霊廷の機構はぐんと春めき、時折照りつける強い日差しには、初夏の兆しさえ見える。
「三百環のお買い上げになります!」
にっこりと笑った甘味処の娘から胡麻団子を受け取り、口に放り込みながら歩いた。
―― 呑気なものじゃのう。
この四楓院夜一は百余年の昔、五大貴族の権利をはく奪の上、華々しくも瀞霊廷から追放された罪人なのに、平気で団子を売るか。見渡す限り、瀞霊廷の町並は平和そのものに見えた。口を開けたまま餌が来るのを待つ魚のように、ただ与えらるものを享受しているような。ひとつの町や国や、世界が滅びる時は、平和に鈍感になった時だ。平穏と凋落は真逆ではなく、むしろ紙一重だ。
大通りの突き当りには、「一」と大きく墨書きされた巨大な門が見えた。門は固く閉じられている。この門を見るのも、久しぶりだった。二度と見ることはないと思っていたが、何の感慨も沸かない。まったく百年前と変化が見えないのに、驚いたくらいだった。
「何者だ? 許可のない者にはこの門は決して開かぬぞ!」
門前にいたると同時に門番に鋭く問われ、少々辟易する。名乗ってもかまわないが、余計もめそうだ。当然起こるだろう状況だったが、どうするか考えていなかった。と、唐突に内側から扉が開いた。
「何事だ?」
こんなことで動揺して大丈夫かと思うほど、門番は狼狽している。そして、内側から姿を見せた男を一目見るなり、全身をこわばらせ、あわてて門を自分から開けた。
「朽木隊長! 申し訳ありません。見知らぬ者が門の前に現れまして……」
その男は掌を貌の前にかざして、涼しげな視線を夜一に寄こした。
「……四楓院夜一。このような所で何をしている」
「白哉坊か。久しいの」
門の内側に佇んでいたのは、薄絹の肩掛けを風になびかせた朽木白哉だった。「白哉坊」の言葉にピクリと眉を動かしたものの、それ以外は全くの無表情である。漆黒のその瞳からは、まったく感情が読めない。初っ端から、難しい男に出会ってしまったものだ。夜一はため息をついた。
「一番隊に保管されておる書類に用があるのじゃ。そこを通してくれぬか」
「認めぬ」
答えは思ったとおり、淡々と返された。
「貴様は百年も昔、この瀞霊廷を追放されている身。瀞霊廷に入ることすら許されぬ身の筈だ」
「相変わらず融通の効かん奴じゃ」
瀞霊廷が滅びる滅びないと言っている時に、不法侵入くらいなんじゃ。文句を言っては見たものの、一旦口にしたことは早々曲げないこの男のことだ。ねばったところで無駄だろう。さてどうするか、と夜一が心中首を傾げた時だった。
「お通ししてあげてくださいな」
穏やかな声が聞こえた。決して大きくはないが、その場によく通った。
「烈……」
「ご機嫌よう、夜一さん」
にっこりと微笑を浮かべて、その場に現れたのは卯ノ花烈、四番隊隊長だった。その笑顔は、夜一がソウル・ソサエティを裏切る前と全く変わらない。
「しかし、卯ノ花隊長。この者は、すでに追放の身だ」
「中央四十六室の決定が、いつも正しいとは限りませんよ?」
卯ノ花は、白哉を見上げてそう言った。
「もう中央四十六室はいません。私達は自分達の目で、何が正しく、何がそうでないかを見極めねばなりませんよ」
まるで言い聞かせるような言葉遣い。プライドの高い白哉からすれば、到底受け入れがたいだろう。その言葉が真実を突いているなら尚のこと。白哉は視線を険しくしたが、無言を貫いた。相手が卯ノ花だ、ということが大きかったのだろう。
「お通しして差し上げてくださいな」
卯ノ花は穏やかな声のまま、白哉と門番を見やったが、それに反駁するものはもはや居なかった。
夜一は、ゆっくりと卯ノ花に歩み寄る。前に会ってから百年以上の月日が流れているのに、全く変わっているように見えなかった。
「もう少し前に来られれば良かったですね」
卯ノ花は微笑むと、頭上の桜を見上げる。すでに、八割がた散っていて、緑の葉がぐんぐんと成長していた。
「なんの。儂はもともと桜の花は好かぬ。草木の類なら、竹や菖蒲……百歩譲って桔梗じゃな」
「さっぱりした貴女らしい好みですね。……それで、なぜ瀞霊廷に?」
「いくつか野暮用じゃ。ついでに一つ、確かめたいこともあってな。実家に立ち寄るつもりじゃ」
「……ご本家に」
卯ノ花はわずかに目を見張った。確かに夜一の実家は、五大貴族の一つ「四楓院」家。家出娘がふらりと実家に戻るのとは訳が違う。
「儂でなければ、調べられぬことなのだからな。仕方なくじゃ」
「何の用件なのか、お伺いしても?」
「『それが嘘ならば』儂の腹から出してはならぬ。逆に『本当ならば』天地に明らかとなる。いずれにせよ、ここで言うには及ばぬ」
望もうと望むまいと、自分の中に収めるほかない事柄が増えていくのは、年を取ったせいだろうか? 卯ノ花は、夜一が言外にこめた意味合いを汲み取ったようだった。わずかに微笑む。
「お互い、長く生きましたね。色々なものを背負いこみ過ぎてしまったようです」
「そうじゃの」
「ええ。そういえば」
思わず笑み返した夜一に、卯ノ花は今思いだしたように言った。
「今隊首会が終わったところなのですが、私を含めた隊長4名で虚圏へ出向くことになりました」
まるで、近くの喫茶店へ行ってきます、とでも言うような気軽さに、さすがの夜一もちょっと呆れる。
「……武運を祈っておるぞ」
「ええ。全て終わったら、また四番隊へお立ち寄りくださいな。ふたりで心行くまで、積もる話をしましょう」
戦えるとも思えないこの女性が、いかに強いかを知っている。夜一は微笑みを返した。
***
卯ノ花と別れ、一番隊の敷地内に足を踏み入れた時だった。
「あっ!」
遠慮のない大きな声が敷地内に響き、夜一は首をめぐらせる。金色の長い髪を腰まで伸ばした、青い目をした女死神だった。自分に負けず劣らず巨大な乳房が、大きく開いた着物からこぼれそうに覗いている。ここに来る前に、日番谷に言われた言葉を思い出した。あの時はそんないい加減な特徴で分かるのかと思ったが……
―― 「長い金髪で、目が青くて、露出狂のケがある女がいたら、声をかけてくれねぇか? 俺の部下だから」
「お主、松本乱菊か? 日番谷の副官の……」
「はい! 四楓院夜一さんですね。ウチの隊長は元気ですか?」
表情を明るくして、書類を胸に抱えていた乱菊が駆け寄ってくる。「ウチの隊長」という響きに、家族にも似た親しさを感じ、夜一は気づけば微笑んでいた。
「やれやれ、用事のひとつがこれで済みそうじゃ。日番谷からお主に、近況を話してくれと言われておる。それほど長居するわけにもいかんのでな、立ち話じゃがよいか」
「はい!」
日番谷の休職中、どれほどの負担が彼女にいっているか、隊長だったことがある夜一にはよく分かる。書類を抱えた指先に、白くなるほど力がこもっている。夜一は軽く息をつくと、日番谷に起こったことを手短に話した。
「……あたしが頭悪いんでしょうか。今イチ理解できないんですけど……」
説明をひとしきり聞いた乱菊は、何だか脱力したような顔をしていた。
「安心しろ。儂らも分からぬ」
夜一の答えに、うぅん、と乱菊は唸る。二人は、二人は、一番隊の門から少し離れた、人気のない中庭に場所を移していた。もしこんなことが広まったら、日番谷の隊長生命にも関わる。自然と互いに小声になっていた。
「浦原喜助サンのその仮説が正しいなら、そもそも氷輪丸は隊長の斬魂刀じゃないってことですよね。
それだったら、他人の刀で卍解なんてできるんですか?」
「……東仙要は、他の死神の斬魂刀を使い卍解を会得しておる」
「そうなんですか!?」
乱菊の声のトーンが跳ね上がり、慌てて声を顰めた。
「今さら本人に尋ねる訳にもいかんがの、事実じゃ。結局は、斬魂刀と持ち主の間の決めごとが全てじゃからの」
ただし、東仙が刀を引き継いだ時、元の持ち主はすでに死亡していたはずだ。仮に浦原の仮説の通りだったとしても、元の持ち主が日番谷に反逆している状況は未知の領域には違いない。それにそもそも、あんな力の持ち主を「屈服」できるとは夜一には思えなかった。
「で、隊長は今何を?」
「かれこれ10日、浦原商店で氷輪と戦っておる」
「……しっかり食べて寝るように伝えてくださいね」
さすが、よく自分の上官のことを分かっている。はっきりいって、碌に食べても寝てもおらず、子供のように夜一に怒られている。ただ、戦いにかける危機迫るまでの執念には、夜一も驚かされた。自分の中で飼いならされ、穏やかに眠っていた「闘争本能」がもやもやと掻き立てられるほどに。
「ま、安心せい。本人は悲観しておらぬ……というよりも元気じゃ」
もはや戦時中の今、卍解を手に入れるのが今すぐには難しいと落ち込むのかと思っていたが、夜一が見る限り日番谷はむしろ奮い立っている。
「長い目で見れば、斬魂刀の本体が強ければ強いほど、よいことなのじゃが」
「……それなら、良かったです」
乱菊は、長い睫毛を伏せた。明るいサバサバした印象だが、俯くと途端に考え深そうな表情をのぞかせる。
「あたしには話してくれませんけど。隊長はたぶん、死ななければいけないような状況に追い込まれていると思うの」
ぎくり、とさせられた。日番谷からは、乱菊には殉職命令のことは告げないようにと釘を刺されている。それでもほぼ見抜かれている、ということは、乱菊は日番谷が思っている以上に、彼のことをよく見ているのだろう。下手に否定しても、見透かされるだけ。夜一は敢えて肯定も否定もしなかった。
「だから、隊長が少しでも先のことを見てくれるようになったら、あたしはそれだけでも嬉しいんです」
お主はなかなか隅に置けない男じゃの、と日番谷のことを思う。これほどいい女に、これほど深く思われているのだから。
「十番隊のことは心配無用って伝えてください。京楽隊長も、意外なくらい気にかけてくれてますし」
「……伝えておこう。それと、別件じゃが、日番谷の最も古い過去を知る人物が誰か分かるか?」
質問を変えると、乱菊はすぐに頷いた。
「流魂街に、育ての親がいますよ。親っていうか、おばあちゃんなんですけど。澪っていう女の子と今一緒に暮らしてます」
「……話が聞けそうかの?」
重ねて問うと、乱菊は少し複雑な表情を返した。
「大丈夫……ですけど。おばあちゃんを心配させるようなことを言わないって約束してくださいますか? 日番谷隊長とおばあちゃんは、本当にお互いのことを大切にしていますから。余人が割って入れないくらいに」
「分かっておる。心配させるようなことは話さぬ。ただ、日番谷と初めて出会った時のことを聞きたいだけじゃ。……あやつ、自分が流魂街に来た前後の記憶はあまりないらしい。まあ、ありがちなことではあるがの」
流魂街の人間は、自分がここへ来た経緯――言い換えれば、死んだ前後の記憶はあいまいになっていることが多い。日番谷は赤ん坊に毛が生えたくらいだと言っていたから、覚えていなかったとしても無理はなかった。だから、物ごころついたころには手元にあったという氷輪丸のルーツを探るには、それを知っている人物に当たるしかない。
「……分かりました」
しばらく逡巡した後、乱菊はようやく頷いた。
* last update:2012/10/11