流魂街をそぞろ歩くのは、夜一にとって実に久し振りのことだった。もともと、瀞霊廷に住んでいたころから、特に積極的に流魂街に出たいと思う事はなかった。となれば、五大貴族の長に流魂街に出向く用事などそうそうあるはずがなく、自然と足が遠のいていた。
―― しっかし、貧しいのう。
 掘立小屋にしか見えない、10秒で一回りできそうな家々を縫うように歩きながら、夜一は心中ため息をついた。現世の生活を見慣れている目には、あれが人の住む家には見えない。行き交う人々も粗末な着物に草履姿だ。こんなところに隊長格の育て親が住んでいるとは、誰も思わないだろう。

「……ここじゃの」
 夜一の足は、他の家と大差ないサイズの一軒家の前で止まっていた。一軒家といっても、やはり掘立小屋に近い。壁も屋根も板張りで、屋根の上には重しの石がいくつか置かれている。入口の引き戸は開け放たれ、一目で家の奥まで見通せた。入口の向こうには土間があり、その向こうに居間として使っているらしい8畳くらいの部屋が続き、突き当たりは寝室らしい6畳間、それだけである。その向こうには縁側があり、ぽかぽかと春の日が当たっていた。
「誰かおらんかの」
 声をかけると、思いがけなく近くで「はい」と返事が聞こえた。土間の向こうから、小さな老婆がゆっくりと顔をのぞかせる。どうやら、土間で炊事仕事をしていたらしく、両手は濡れていた。

「どちらさまだい?」
 いきなりの見知らぬ客を訝しむでもなく、夜一を見上げた。巾着のようにすぼまった口をしていて小柄で、頬の辺りは少女のようにつやつやしている。妙に可愛らしいがそれだけで、どこにでもいる普通の老婆である。あまりにも普通で、却って夜一は驚いた。
「……ここは、日番谷冬獅郎が育った家かの?」
 自然と質問口調になる。老婆はそれを聞くと一瞬皺に埋もれた目を丸くし、そして微笑んだ。
「おや。冬獅郎の知り合いかい? 冬獅郎は元気にしていますかね」
「元気すぎてもてあましておる」
 事実をそのまま答えると、老婆は何度か頷いた。ほっとしている様子がうかがえて、少し心が痛む。まさか、今生きるか死ぬかの一線で彼が戦っていることなど、告げられるはずがない。

「しかし、ここが……」
 夜一は、改めてこじんまりとした家を眺めた。日番谷の実家にしてはあまりに粗末だ、と言いそうになったが押さえる。隊長であれば一カ月毎に、家が一軒建つくらいの給料をもらっているだろうに。どうして育て親に、豪邸のひとつやふたつ建ててやらないのだろう。
「まあ、立ち話もなんだから、お入りくださいな」
 家の中に通されて、すぐに気づいた。壁は板張りではあるが、隙間ひとつない。引き戸も滑らかに動くし、障子に張られている紙は新品のようだ。
「建てつけがよい家じゃな」
 流魂街の家はたいてい、板と板との隙間がぱっと見でも分かるほど、適当な建てつけのものが多いというのに。
「冬獅郎が来る度にあちこち自分で直して行くんだよ」
「って、あいつがか?」
 日番谷が鉢巻きに釘を挿し、金槌を振るっている姿を想像して、夜一は思わず噴き出した。氷雪系のような優雅な技を使う姿とどうしても重ならない。
「いろいろ器用な子だからねぇ。桃と冬獅郎が帰ってきたら、4人で雑魚寝するのが楽しみなんだよ」
「ほう……」
「最も、ここ2カ月ほど二人とも戻らないんだけどねぇ。何があったのか」
「……日番谷は大丈夫じゃ」
 そう言ってやることしかできなかった。藍染の部下だった雛森桃が、いいように操られて日番谷を襲ったことは夜一も知っている。自分を思う雛森の淡い恋心と、身内を思う日番谷の心を同時に弄んだ藍染の行動は唾棄すべきものだ。二人はまだ、互いに刀を向け合ってしまった過去から立ち直れていないのかもしれない。

 ふと見ると、土間で湯を沸かしている祖母は、夜一を振り返って微笑んでいる。今の考え込んでいた表情を見られてしまったか。中々油断ならないと、夜一は話題を変えた。
「しっかし、ここで4人、のう」
 四楓院家なら、この寝室の面積は便所にも満たない。よくこんなところで寝られるものだと思う。特に、寝相が悪い上、思うさま両手足を伸ばして寝るのが好きな夜一には信じられない。だが、広いばかりがいいとは言えないのかもしれない、と日番谷の気持ちが少し分かるような気もした。
 心が通い合うためには、それなりの近さが必要なのかもしれぬ。夜一は、この後行くつもりの実家の広い、しかし寒々した屋敷を思い浮かべた。

「それにしても、4人と言ったか? 今」
 夜一は居間に胡坐を掻いたまま、周りを見回した。そういえば、小さな女の子がいるということだったか。そう思った時、唐突にぞく! と背筋が粟立った。慌てて振り返ると、ひと組の鳶色の瞳とぶつかった。少女が、入口の戸に半分隠れるようにして立ち、夜一を見つめていた。祖母が入口を見やる。
「……あぁ、孫の澪だよ。屋根の上にいたのかい」
 こくん、と少女は頷く。祖母は困ったように笑い、夜一に視線を移した。
「屋根の上にしょっちゅう上がるもんだから困ってしまうよ。こんなことまで冬獅郎の真似をするんだから。……澪、お客さんだよ。あいさつしなさい」
「……こんにちは」
 促されて出て来たのは、膝丈の単衣を着た、どこにでもいるような子供だった。長めの前髪は耳の後ろでピンで止められ、形のいい額の上でゆるくカーブを描いている。後ろ髪は簪でまとめられていた。上目遣いで大人たちの様子をうかがう表情が似合う、大きな眼が目を引く。どうしてこんな子供に反応してしまったのだろう、と改めてその姿を見るとおかしかった。どうやら結構疲れているらしい。


 茶を出された頃合を見計らい、夜一は話を切り出した。
「日番谷と出会った時の話を聞きたくての。あいつに聞こうにも、覚えておらぬと言うし」
 ちゃぶ台を挟んで座った祖母は、背中に隠れるようにして話を聞いている澪を振り返った。
「澪、あちらへ行っていなさい」
「やだ。あたしも聞く。お兄ちゃんのことだもん」
 意外とはっきり自分の意思を口に出す子供らしい。すとん、と後ろに座り込んでしまった。ちらり、と祖母が夜一を見やる。聞かせてもいい内容なのか、ということらしい。夜一は頷いた。
「初めて日番谷に会った時、何歳くらいだったのじゃ?」
「そうだね……この澪よりもずっと小さかったよ。三歳くらいだったかねぇ。もう一人前に口は利けたけれど」
 後ろの澪を見やり、身長を測るように頭に手を載せた。
「その時、刀を持っておったか?」
「ああ、今も持っている、あの刀だね」
 祖母はこともなげに頷いた。
「まだ小さいのに、自分の身長よりも長い刀を引きずってたんだ。ちょうど、あの子がこの世界に来たばかりのことで、どこか治安が悪い地域に送られようとしてるのに出くわしてねぇ。児団坊さんの口利きもあって、わたしが引き取ったんだよ。まだ小さいのに可哀想だと思ってね」
 懐かしそうな口調だった。きょとん、と澪が目を丸くする。
「あたしと、同じ……?」
 祖母は笑って頭を撫でた。
「そうだよ。冬獅郎は自分がそうされたから、他の誰かに同じことをして、返してあげたかったのかもしれないね」
 刀を引っ提げた子供など、気味が悪いと思っても仕方がないだろうに。自分一人で生活するのも苦労するこの世界で、子供を引き取るなど並大抵のことではない。澪への接し方を見ても、夜一に対する態度にしても、きちんと生活を整えている様子が伝わってくる。治安がおおむね悪い流魂街出身者は倫理観が抜け落ちていることも多いが、日番谷の感覚が至極まっとうに見えるのはこの祖母の影響か、と納得した。仮に最も治安が悪い八十番区に送られたとしても日番谷なら生き延びただろうが、その場合はまともな性格にはならなかっただろう。敵にまわってしまえば、あの才能は脅威にすぎない。瀞霊廷にとっても、潤林安でこの祖母の手によって育てられたのは僥倖だったかもしれない。

 ううむ、と夜一は湯呑をちゃぶ台に戻すと腕を組んだ。
「しかし、出会った時に、すでに刀を持っていたか」
 できれば、刀を手に入れた経緯を知りたかったのだが。そこまで考えて、ふと眉を顰める。
「待て。この世界……ソウル・ソサエティに来た直後だと言ったか?」
「ええ。振り分けを待っていたんだから、この世界に来たばかりじゃないのかい?」
 逆に聞き返され、考え込んだ。確かに、待ち時間はあれど、長くても現世で死んで一週間後には流魂街の各エリアへの振り分けは終わっているのが普通だ。ということは、現世で死んで、振り分けられるまでの一週間の間に、斬魂刀を手に入れたと言うのか?
「まさか、現世から持ってきたわけでもないじゃろうしな」
 苦笑いが洩れた。
「どんな子供だったんじゃ? 初めは」
「変わった子供だったね」
 日番谷が聞いたら肩を落としただろう。祖母は即答した。
「刀と話ができるって、ずっと話しかけているんだもの。こっちからは独り言にしか聞こえないし、周りは心配したもんさ。大人が刀を引き離すと、今度は石みたいに黙りこくってしまって。しかたなく返したら、今度は刀を抱いて寝てたよ。ある程度時間が経って、誰も刀を自分から取り上げないって分かってからは、少しずつ手放すようになったけれど」
「なるほど」
 今の話は、物ごころついたころから刀と会話をしていた、という日番谷の言葉と矛盾する事はない。となると、この時点から既に日番谷の記憶にはあることになる。もう、新しい情報は聞けないか。

 祖母は、自分のしわくちゃの手を見下ろした。
「あの子にとって、あの刀は家族……父親みたいなものだったのかねぇ。その役を、わたしや桃にもちょうだいって言って、少しずつ心を開いていったんだよ」
「……そうか」
「今でも、氷輪と話しているのかねぇ」
 何気なく言った祖母の言葉に、何気なく頷こうとして、夜一はいきなり祖母に向き直った。
「今何と言った?」
「え?」
「氷輪、と言ったのか」
 祖母は、夜一が血相を変えた理由が分からない、と言う風にゆっくり首を傾げた。
「氷輪は、あの刀の名前だろう?」
「あの刀の名前は氷輪丸だ……氷輪、とは日番谷が呼んでいたのか?」
「初めに、刀の名前を聞いた時に、氷輪、と言っていたよ。もっとも刀と話すのがおかしい、と周りから言われた後は、名前を呼ばないようにしてたみたいだけど」

 何も得ることがないと思ったが、とんでもない勘違いだったようだ。流魂街に来たばかりの日番谷が話し、信頼していたというのは、「あの」氷輪なのか? 生活に慣れ、刀を遠ざけるにつれて、少しずつ氷輪との記憶を忘れ、氷輪丸との記憶にすり替わって行ったのか。
「……約束……」
 そうだ。氷輪は、日番谷と「約束」したと言っていた。氷輪はそのために日番谷と共に居るというが、日番谷は全く覚えていないという「約束」。
「約束?」
 夜一の独り言を聞き咎めたか、澪が祖母に掴まったまま、夜一を見返して来た。
「……いや。日番谷が『氷輪』と交わした約束について、何か言っておらんかったかの」
 祖母はしばらく考え込んだが、やがて首を振る。
「わたしたちに心を開いてくれた時には、もう刀と話すことはなくなっていたからね。何も聞いてはいないよ」
「……そうか」
 どうしてかは分からない。しかしそれが、日番谷と氷輪の関係を探る上の「鍵」だという気がした。




* last update:2012/10/11