ひゅん、と耳元で風が鳴る。景色が、早送りのように飛び去ってゆく。
ぜぇ、ぜぇ、と自分の息が風音に混ざる。
焦るんじゃないわよ朽木、と背後で聞こえたような気がしたが、気のせいかもしれない。
井上の霊圧を感じていた。
蝋燭に灯された炎のようにその霊圧が揺れている。
破面の霊圧を感じて飛び出していった一護の無事を、一心に祈っているのだろう。
ふと目をやれば、西の空は少しだけ朱色に染まり始めている。
―― 「夕闇は、苦手なのだ」
井上に打ち明けた日のことを、ふと思い出した。
藍染の反乱後、ようやく落ち着きを取り戻し始めた瀞霊廷。
現世への帰還を翌日に控えた夕方、井上と二人で、朽木家の縁側から夕日を見ていた。
―― 「明日見る夕日は、現世からなんだなぁ。なんだか不思議」
井上は、縁側に後ろ手をつきながら、空を見上げていた。
―― 「夕闇は、苦手なのだ」
私がそうつぶやくと、不思議そうな視線を向けてきた。
―― 「どうして? こんなにキレイなのに」
分からないだろう、と思う。これほど明るい眼差しをした少女には。
―― 「私には大切な人がいた。その人の命は闇の中で奪われたのだ。夕闇は、本物の闇を連れてくる」
だから、私は夕闇がおそろしい。そう呟いた。
どうしてこんなことを言ったのか、分からない。
あの人のことは、彼の死後一度たりとも口にしたことがなかったのだ。
「奪ったのは自分だ」。そう打ち明ける勇気は、なかった。
―― 「……今ここで日が沈むってことは、誰かのところで日が昇ってるってことなんだよ」
不意に、織姫が口を開いた。
―― 「あたしも夜が来るのを、辛いって思うことはあるよ。もう朝が来ないのかもって思うことも。
でもそんな時は、祈るんだ。あたしは、自分が今辛いなら、誰かのところに幸せが届いていてほしいって、そう思えるようになりたい」
だから。
井上、お前は今、祈っているのか?
ぎゅっと唇をかみ締める。だん、と力を入れて地を蹴った。
一護の背中を見つめる井上と、海燕を追いかけ続けたかつての自分が重なる。
自分の気持ちは、最悪の結末を迎えてしまったが、だからこそ。
井上には幸せになって欲しかった。
「き。……朽木っ?」
松本副隊長に呼ばれ、不意に我に返る。
「ま……松本副隊長! なんでしょう」
「なんでしょうじゃないわよ。ぼーっとすんじゃないの」
「す、すみません!」
慌てて前方を見据える。戦いの最中に考え事ができるほどの余裕もないはずなのに。
額に浮かんだ汗を拳でぬぐう。
あと五分ほどで辿り着けると思われる方角では、半ば信じられないほど霊圧が高まっていた。
しかし、一護と恋次の霊圧はまだ、弱まってはいない。
松本副隊長が、日番谷隊長を振り返った。
「何とか踏ん張ってるみたいですね、一護と恋次。織姫も無事みたいですし」
ふん、と日番谷隊長は鼻を鳴らす。
「俺に向かってあれほどの啖呵を切ったんだ、それなりに根性見せてくれねぇとな」
「た、啖呵?」
思わず顔が引きつる。日番谷隊長を不機嫌にさせる何を言ったのか、一護なだけに分かったものではない。
「日番谷隊長、お怪我は……」
大丈夫ですか、とは聞けなかった。そもそも、大丈夫なはずがない。
しかし日番谷隊長は、右肩をわずかに顔をしかめるだけで動かして見せた。
さっきは明らかに、骨が断たれているように見えたのに、である。
「最近卯ノ花に、治癒を習ったんだ」
私が目を丸くすると、彼はなぜか仕方ない、とでも言いたそうな口ぶりで説明する。
えー、と松本副隊長が声を上げた。
「なんで黙ってるんですかぁ! 全然知りませんでした、いつの間に?」
「……四番隊に行く用事はあったからな」
しばらく空けて、ああ、と松本副隊長が歯切れ悪く返す。
藍染の凶刃に倒れた雛森副隊長のことは、私もすぐに思い浮かんだ。
瀕死の幼馴染を見て何もできなかった無力が、彼に努力を強いたのだろう。
「ンなことはいいから、構えろ。突っ込むぞ」
日番谷隊長は無表情のまま続けると、氷輪丸を左手に構えた。
***
「月牙天衝!」
「狒狒王蛇尾丸!」
その場に降り立ったのと同時に響いたのは、一護と恋次の叫びだった。
「甘えっ!」
その直後に、聞きなれぬ男の声が響く。
「一護っ! 恋次!」
空中で足を止めた脇を、私より一回りは大きな漆黒の影が二つ、吹っ飛ばされて通り過ぎた。
目に姿を捉えることも難しいようなスピードだった。こんな勢いで背後の建物に打ち当たれば……
「縛道の三十七、吊星っ!」
いち早く松本副隊長が縛道を唱える。
吹き飛ばされた二人の体を、霊圧でできた白布のような物体が受け止める。
ゴムのように収縮するそれは、建物にぶつかるギリギリのところで止まった。
「ぶわっ、なんだこりゃ?」
「今、口が、口が当たっ……」
「やーだ、勢いでチューしてなかった? 今」
吊星の外から覗き込んだ松本副隊長は、口元に手を当てて笑いを堪える表情だ。
「……てめぇら、死にそうにねぇな」
日番谷隊長がうんざりしたような視線を投げると、少し離れた空中に佇む破面に、刀の切っ先を向けた。
私は一歩前に出て、同じように刀を構える。
「……ワラワラ出てきやがったか。弱い奴ほど群れやがる」
薄い唇をゆがませ、その男が笑った。
「てめぇは?」
「グリムジョー・ジャガージャック。NO.6だ」
その答えに、問うた日番谷隊長の眉が潜められる。一桁なら、十刃ということか。
グリムジョーと名乗った男の髪は、まるで水彩画のように淡く、透明感のある青色だった。
上半身には何もまとっておらず、その腹には拳が入りそうな大きさの穴が開いている。
肌の色は真っ白で、両目の下の黒い隈取が酷薄な印象を与える。
その青い瞳が、獲物を見つけた野獣のような獰猛な輝きを放った。
「気をつけろ。あいつマジで強ぇぞ」
恋次が、背後からぐいと私の肩を掴み、ささやいた。
「分かっておる」
「そっちの敵は、倒せたんだな」
「ああ、問題ない」
頷いてチラリと横に並んだ恋次を見やる。こめかみから血が滴り、腕や死覇装のところどころに血がにじんでいるが、重傷ではなさそうだ。
しかしその横顔には、隠しきれない緊張が張り付いていた。戦いの場数を踏んでいる、普段の恋次には珍しい態度だった。
値踏みするように、グリムジョーが一人ずつの顔を見渡してゆく。ちっ、と舌打ちした。
「強え奴からと思ったが、面倒くせぇ。一番手前にいる奴から殺す」
その瞳が、私に据えられる。
「ルキア、さがれ!」
恋次が大声を出すと同時に、前に躍り出た。
「恋……!」
目の前に広い背中が立ちふさがると同時に、鈍い音が響く。
ぐっ、と恋次が息を押し殺し、呻いた。体をくの字に曲げる。
恋次の腹を殴りつけたグリムジョーが、次の拳で恋次を横に弾き飛ばす。
「まず一人!」
顔に向かって振り上げられた刃に、視線が吸い寄せられる。
ルキア! と叫ぶ一護の声が遠くに聞こえた。
何を考える間もなく、左にかわす。その肩越しに、斜め上から三日月型の小型の刃がかすめ飛ぶ。ジャラッ、と鎖が鳴った。
金属質な音を耳元に残すと、グリムジョーの振り上げた腕に鎖が巻きつく。
「綴雷電!」
日番谷隊長の声に、振り返る。
いつのまに始解したのか、日番谷隊長が氷輪丸の柄尻に取り付けられた鎖で、グリムジョーを拘束していた。
その鎖に、白い雷電が走り、グリムジョーに向かう。
「こんなもんが効くかよ!」
一喝して振り払おうとした時。
「月牙天衝!」
下から放たれた一撃が、その場の空気を断ち切った。
鎖に拘束されていた分、初動が遅れた。その一撃は、グリムジョーの腹を直撃する。
さすがに堪えられなかったか、その体が背後に大きく弾き飛ばされた。
「ルキア! 冬獅郎! 大丈夫か」
「てめぇの一撃が、氷輪丸の鎖をぶった切らなければな」
日番谷隊長は、月牙天衝に断ち切られた鎖を睨みながら言った。柄尻に手をやり、残りの鎖を取り外すと、中空に投げる。
建物の屋根を蹴り、中空で静止した一護が日番谷隊長を見……すぐに目を剥いた。
「悪ぃ……ていうかお前、大怪我してんじゃねぇか! 戦えるわけねぇだろ、そんなん……」
皆まで言い終わる前に、ぱしんっ、と背後から一護の頭をはたく。
「いてーな、ルキア! そんなことのために瞬歩使うな!」
「馬鹿者。敵を目の前にしていながら、弱点をわざわざ大声で言うな」
「ぐっ……でもよ」
一護が声を落とす。
「でも、も何もない。ここは戦場なのだぞ!」
一護は、私を見やった。そして、日番谷隊長に視線をやる。
痛みなどまるで感じないように、平然とした表情でグリムジョーを見据えている、その横顔を。
「……俺がやる」
一護はぐい、と前に出た。
* last update:2011/9/19