景色が、目にも留まらない早さで回る。
上空へ引っ張りあげられた、と気づいたのは、浮竹と京楽を見下ろす形になってからだった。
「貴様! 断界に潜んでいたのか!」
浮竹が斬魂刀に手をやり、睨みつける。京楽も、織姫が見たことがないような険しい表情をしている。
「こっちのボスは、元々死神なんだぜ。こんな時に死神が何をするかなんて、お見通しさ」
織姫の耳元で、どこか艶を感じる、低い男の声が響く。織姫はおそるおそる、自分の胴に腕を回した男の顔を見上げた。

どことなく京楽に似た、彫りの深い男だった。長い黒髪が波打っている。
外見と年齢は一致しないのだろうが、人間にしてみれば三十代後半のようだ。
白い服と袴に似た着物を纏っている姿は、まるで白い死神のように見える。
織姫を抱え上げた右手の手の甲には、黒々と数字が刻まれていた。
「1」。織姫にはその数字の意味は分からなかったが、この男が、別次元の力を持っていることは分かる――ゾクリと肌が粟立った。

「捕まえたのは計画通りだろうけどさ、どこへ逃げるつもりなんだい? まさかこのまま、断界で織姫ちゃんと住むわけじゃないだろ?」
「それが一番ラクそうだけどな」
男はガシガシと頭を掻いた。そして次の瞬間、中空を蹴る。
「現世へ逃げるぞ!」
浮竹の緊迫した声が、後を追いかける。耳元でびゅうびゅうと風が鳴り、織姫が背後を振り返ると、浮竹と京楽が一直線に追ってくるのが分かった。
恐ろしいまでのスピードだった。風が顔に当たり、息ができない。

「だ……め」
織姫は呼吸しようと喘ぎながら、呟いた。
この先には行ってはならない。この先には……
「逃げて!」
視界が急に明るくなった時、織姫は必死に叫んでいた。

視界の先は、来る前と変わらない、織姫の部屋があった。
車座になって座っていた一角と弓親、乱菊と恋次が、反射的に刀に手をやり反射的に中腰になる。
一番奥にいた一護の瞳が、男と織姫を捕えた――途端、燃え上がった。
「てめぇ! 井上を放せっ!」


「一護っ、待ちなさい!」
慌てて手を伸ばした乱菊は、間に合わなかった。
一護はその場を蹴ると同時に、床においてあった刀を振りかぶる。
迷いのない動きで、織姫を捕まえた男に一足飛びで斬りつけた。
破面は刀を構えるでも逃げるでもなく、空いている掌を前に向けた。
その掌と、風を切って振り下ろされた斬月の刀が触れた……と思った瞬間。斬月の刀身が、まるで液体のように溶けた。
「……え?」
一護の瞳が、見開かれる。

「圧倒的に経験が足らないな。戦いの最中に『え?』はねぇだろ」
男は飄々とした口調でそう言うと体を翻し、右足で一護の胴体を蹴飛ばす。
それほど力を入れた一撃には見えなかったが、一護は苦悶の声を漏らすと同時に、背後の壁に叩きつけられる。
衝撃で家全体がミシミシときしんだ。
「どいてろ一護っ!」
倒れこんだ一護の両脇から、一角と弓親が刀を抜いて飛び出してきた。それと同時に、頭上からは刀を振りかぶった恋次が、思い切り振り下ろす。
「困ったねぇ、戦いはあんまり趣味じゃねぇのに」
男が間延びした声でそう呟くのが、織姫の耳に届いた。

「……なんだと」
右側から男の脇腹に刀を繰り出した一角が、唖然とした表情を見せた。
三人の刀は、的確に男の両脇腹と首元に当たっていた。そしてそのまま男の肌に血一筋流させることなく、止まっていたのだ。
「無駄、だね。君たちの行動を一言で言うとそうなる」
圧倒的な力量の差。その前に、三人の動きが止まった。
「馬鹿、逃げるのよ!」
乱菊の声が響いたが、それは間に合わなかった。次の瞬間、三人が血を吹き、倒れたからだ。

血痕が部屋の壁を濡らし、凍てついたように動きを止めた織姫の頬にも散った。
一体何をしたのか、まったく見ることもできない。
「イヤ……」
ピクリともせずに倒れ伏した三人の体に手を伸ばすが、届かない。

「野郎!」
刀を失った一護が、素手で男に殴りかかる。
「やめてぇ!」
織姫は声も限りに叫んだ。男の視線が、一護に向けられたのに気づいたからだ。
刀もなしに飛び掛って何が起こるかは……想像に難くない。



「落ち着け!」
その時。凛とした声が、その場を貫いた。
「ぅおっ?」
一護の肩口に黒い影が落ち、肩を蹴りつけられた一護が前のめりに倒れこんだ。たたらを踏んで立ち直って……そして、目の前に立つ小柄な影を見た。
「冬獅郎!」
「退け、一護!」
さらに背後から現れたルキアが一護の腕を掴み、ぐいと引き戻した。

「冬獅郎! 恋次達が!」
スタークと数メートルほどの距離に立った日番谷が、氷輪丸の切っ先を男に向けた。
ちらり、と視線を足元に倒れ伏した三人に向ける。
「致命傷じゃねぇ。落ち着け」
「ようやく、話をさせてもらえそうだ」
まるで道端で立ち話をしているかのように緊張感がない態度が示すのは、圧倒的な余裕だった。
対照的に、織姫の頬には冷や汗が伝う。

「お前は、十刃か? 階級は」
「1だ。名はスターク」
簡潔な答えに、日番谷がピクリ、と眉を動かす。
「十刃の中で最強、ということか?」
「まあ、そうなるね」
刃のように冷たい日番谷の声音とは間逆に、仲間に対して話しているように聞こえる。
スタークと名乗った男は、ざっと自分を取り囲む死神たちを見渡した。

「力ずくで取り戻そうなんて、考えるだけ損だぜ。卍解も会得してないのが二人。
不完全な卍解しか会得してないのが一人。そして、仮面の軍勢の成り損ないが一人。どうあがいても勝ち目はねぇ」
「不完全な卍解ですって?」
乱菊がそこで不審げに眉を顰める。卍解を会得していないのは乱菊とルキア。
仮面の軍勢の成り損ない、というのは、虚のような仮面を出すことができる一護のことだろう。
とすると、残りは……
「おや、内緒のことだったのかい。そりゃ申し訳ないな」
ちっとも申し訳なくなさそうな声音で、スタークが日番谷を見た。

「ンなことはどうだっていい。お前はヴァストローデなのか」
日番谷は氷輪丸の切っ先をスタークに突きつけ、問いかける。刀にぽぅ……と白い光が宿った。
その美しさとは裏腹に、強い霊圧が周囲に満ちる。
「さーて、どうかねぇ」
スタークの返事は、あくまで掴みどころがない。
「アジューカスだのヴァストローデだのいう分類は、あんたらが勝手につけたもんだろ。俺たちには馴染みのない呼び名だ。
ま、俺は確かに十刃では最強だが、虚圏の中で自分が最強なんて夢にも思わねぇのは確かだ」
「……どうして藍染に従う。狙いはなんだ」
「粘るねぇ、少年。でも、これ以上は教えてあげられないな」
「……そうか」
二人の視線が交錯する。スタークの瞳が、危険な光を帯びた。

「冬獅郎くん、あぶな……!」
「卍解!」
織姫の叫びに、二人の男の声が重なる。
日番谷とスタークとの間に、浮竹と京楽の姿が突然現れた。
高めていた日番谷の霊圧に隠れて出現に気がつかなかったのだろう、スタークが初めて、驚いたような顔をした。
「もらった!」
浮竹が鋭く叫ぶ。両刀使いの二人の、二対の刀が宙を滑った。その切っ先がスタークの胸にもぐりこもうとした、その瞬間――
スタークが腰に差した刀を抜き放った。
「ごめんな?」
顔の前で、その刀がまぶしいくらいの光を放った。

至近距離から見た織姫の目には、その刀身がブレたように見えた。まるで刀身が一本から二本に分裂したかのように。
轟、という風鳴りの音を残して、刃が振り下ろされた。
「浮竹っ! 京楽!」
日番谷の緊迫した叫びが、その場を貫いた。

斬りつける直前の体制で動きを止めていた二人が、全く同時に胸から血を吹いた。
目を見開いた織姫の先で、二人の体がシンメトリーに棒立ちになり、仰向けになって背中から崩れ落ちてゆく。
織姫の素人目から見ても、その場所が心臓であり、致命傷だということは明らかだった。

「ば……ばけもの」
気づけば、織姫はそう呟いていた。それを聞きつけたスタークは震えだした織姫を見下ろし、にこりと笑う。
「バケモノは君だよ、井上織姫。すぐに分かるさ」

とっさに日番谷が二人に駆け寄ろうとする。しかしその首元に、スタークの容赦のない刃が据えられた。
「逃げるべきじゃないのかい? その二人を見捨てて。そしたら、他は助かるかもしれないよ」
「てめぇ……っ」
ギリ、と日番谷が歯をくいしばった。その目が、足元に広がりつつある仲間の血に注がれる。
「どうせ、生き残る気なんてハナからないんだろ?」
日番谷が顔を上げるより先に、スタークの刃がぐん、と前に突き出された。切っ先が、日番谷の翡翠の瞳をまっすぐに狙う。

「やらせねえ!」
スターク以外の誰もが体を強張らせていた時、一護が大きく一歩踏み出した。
そして、日番谷が背負っていた刀の鞘をすばやく抜き取り振りかぶる。

金属音が響き、スタークの刃と、一護の鞘が正面から打ち合う。
しかし所詮は鞘、スタークの刃の前にあっという間に鞘にヒビが入った。一護が歯を食いしばる。
「甘いねえ、鞘ひとつで……」
「卍解! 大紅蓮氷輪丸!!」
間髪入れず日番谷が卍解する。急速に膨れ上がった衝撃で、轟音と共に部屋が崩れ落ちた。

日番谷と一護が、スタッと屋根の上に飛び降りた。少し背後に、乱菊とルキアが現れる。
日番谷の背後で、巨大な龍の姿が形作られていく。水と氷でできたそれは、生き物のように空に大きな翼を広げた。
「冬獅郎……」
一護が、気遣わしげに日番谷を見やった。二人とも分かっているはずなのだ。

「黒崎、朽木、松本。逃げろ」
「隊長!」
乱菊が声を上げるが、日番谷は前を見据えたまま続けた。
「これは命令だ。早くしろ」
その日番谷の肩を、ぐっと一護が掴む。
「俺はお前の部下じゃねぇぞ」
「……お前には言っても無駄そうだな。馬鹿な奴だ」
「ほぅ、まだかかってくるのかい」
穏やかとも言えるスタークの声が、この場面ではこの上なく冷徹に聞こえた。

「みんな、逃げて!」
織姫は叫ぶと、何とか腕から逃れようと身をよじった。しかし、暴れるは暴れるほど、腕はガッチリと胴を押さえ込んでゆく。
「井上を放せ!」
決然とした一護の声が響き、スタークは抜き身の刀を一護と日番谷に向けた。


***


陽光が当たる黒い瓦屋根の上を、液体が滑ってゆく。黒いせいで、色は分からない。
ぽたり。
それは真紅の雫となり、道路へと落ちてゆく。誰にも見えない血の雫の下を、家族連れが笑いさざめきながら通り過ぎてゆく。
笑い声が、織姫の耳に空虚に響いた。

「スターク……さん」
織姫は、自分を解放した破面に話しかける。
「止めを刺す気なら、舌を噛みます。あたしが死んだら困るんでしょう?」
「それは困るね」
織姫が立つ瓦がカタカタと音を立てるほど、織姫の全身は震えていた。立っているのがやっとなくらいだ。
彼女の足元には、最後まで戦った九人の体が、ピクリとも動かずに横たわっていた。

「……ただし」
震えないで、と織姫は自分の足に言い聞かせる。もう自分しか、この九人を護れない。
「ひとつだけ、条件があります。もしあたしが皆の傷を治せるなら、あたしは貴方と一緒にどこへでも行きます」
「受け入れがたいな」
聞き覚えのない声が、二人の会話に割って入る。織姫が振り向くと、真っ白な肌に黒い刺青を施した、緑の目をした破面がそこに立っていた。
「ウルキオラか。見てたのか」
「……娘。お前に交渉する権利などない」
スタークを見ることなく、ウルキオラと呼ばれた男は織姫を酷薄な瞳で見据えた。

「ま、いいんじゃないか」
張り詰めた緊張を破ったのは、意外にもスタークだった。ちらりと倒れた九人を一瞥する。
「生きていたところで、戦局に大した影響はなさそうだ。藍染様からの命令は、この子を確実に虚圏に連れて行くことだろ?
命令外の仕事は、あんまりしたくねぇしな」
数秒の沈黙の後、ふぅ、とウルキオラは息をついた。
「NO.1の貴方に歯向かう気はない」
「じゃ、決まりだな」
その言葉を受けて、スタークが織姫を見やる。
「言っておくが、あまり待てないよ。援軍が来たら面倒くさい」
それは、苦戦するから困る、という意味ではない。織姫は、急ぎ足で皆のところへ向った。



「ごめん……ね」
九人の傷はひとつひとつ、致命傷に近いものだった。放置すれば、もうあと10分も持たなかっただろう。
即死ではなかった分、まだ良かった。しかしその傷口を見るたび、織姫の心にも穴が空いていくような気がした。

自分のせいだ、と思った。自分がいなければ、こんな犠牲はなかった。
そして、これほどまでに命を賭けて留めようとしてくれたのに、虚圏に行く自分は「裏切り者」と呼ばれるしかないのだろうか?
それでもいい、と思った。皆が生きていてくれて、あの笑顔が戻るなら、そこに自分がいなくてもいい。

最後に一護の隣に跪いた。
死覇装から覗いた首から胸にかけてばっさりと、体が分断されそうなほどの切り傷が見え、指が震える。目を閉じて、力を解放した。
その時、がくん、と織姫の服の袖が引っ張られ、慌てて目を開ける。
袖を掴んでいたのは、一護の指だった。そっとその顔をうかがったが、意識が戻っているようには見えない。
そっと指を取り、引き離そうとしたが、中々離れない。
離そうとしていた時……思いがけないくらい唐突に、涙が零れ落ちた。

唐突に、分かったのだ。
瀞霊廷に移住するように言われてもそれほど動揺しなかったのは、一護に会える方法が残されていたからだ。
会える以上、一護の中から自分の存在が消えることはない。そう思っていた。

でも……虚圏へ行ってしまえば、もう二度と一護には会えないだろう。
一護の日常から、自分が消える。自分の知らないところで、一護が生きていく。
そのことがこれほどまでに、苦しい。
「……嫌だよ」
一緒にいたい。本当は指を引き離したくなどない。
祈るような気持ちで、織姫は一護の指をゆっくりと振りほどいた。

「おい。そろそろだぞ」
スタークの声に、織姫はぐいっと涙を拭う。そして、髪を止めていたヘアピンをそっと抜き取り、一護の手の中に滑り落とした。
「別れは言えたかい」
織姫はゆっくりと立ち上がる。
きっと、これ以上悲しいことは自分の人生にはもう起こらない。泣くこともない。そんな気がした。