真綿で首を絞められるように、息苦しく不気味な夢を、延々と見ていたような気がする。
低く呻いた自分自身の声で、目を覚ました。
薄目を開けると、間近で覗き込んでくる見慣れた顔が、ぼんやりと見えた。
「日番谷くんっ! 聞こえる? 日番谷くん!」
「ひな、もり……」
喉元から出た声は、誰の声だと思うくらいに掠れていた。
あぁ、と呻きたいほどに全身が重い。
「大丈夫、大丈夫だから」
繰り返す雛森が、何だか滑稽に見えた。
大丈夫、というのなら、どうしてそんなに泣きそうな顔をするんだ?
その時日番谷の脳裏に閃いたのは、濃厚なまでの真紅だった。
閃光のように宙を切裂く刃、シンメトリーのように血を噴いて倒れた二人の同僚の姿。
その時頬に散った、血の赤さとぬくもりまで……写真を突きつけられたかのように一瞬で思い出した。
「うっ……」
日番谷は、とっさに上半身を起こした。
ガララ、と乾いた音を立て、人工呼吸器だの管だのが床に落ちた。
腕をベッドについて体を支えようとしたが、腕に全く力が入らない。
そのままガクリと崩れ落ちそうになるのを、雛森の華奢な腕が支えた。
ぐるり、と目の前の景色が回って気持ちが悪い。
あたりを見回すと、汚れ一つない白い床に壁が目に入る。
二十畳ほどの部屋には大きな窓が設けられ、日番谷が寝ていたベッドはその窓際に置かれていた。
四番隊にある、隊長用の個室だ。入ったことはなかったが、すぐに気づいた。
「日番谷隊長!」
入口の扉を開けて入ってきたのは、卯ノ花だった。
随分長い間ほどけなかったように見える眉間の皺が、ゆっくりと和らぐ。
「よかった。目が覚めたんですね。でも、まだ動けないはず。寝ていなければなりませんよ」
「そうだよ日番谷くん、起きようなんて無茶だよ」
そう言って再びベッドに寝かせようとした雛森の手を、日番谷は振り払う。
自由にならない体を無理やり起こし、傍に立った卯ノ花を見やった。
「卯ノ花隊長! 先遣隊の他のメンバーは? 黒崎は! 井上織姫は?」
「誰も死んではいませんよ」
「……本当、か」
声が、掠れた。
一護も、乱菊も、ルキアも。全員目の前で倒れるところを目の当たりにしたというのに、とっさに信じられなかった。
しかし、卯ノ花はどんな時でも、嘘やごまかしを言うタイプではない。
日番谷がぐっと見つめると、卯ノ花は軽く微笑み、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「井上織姫さんが、その治癒能力を使って貴方がたを助けたのです」
「井上織姫は……どこに」
「おそらく、貴方がたを助けることと引き換えに……虚圏へ連れ去られました」
ダンッ、と音を立てて、日番谷が壁を殴りつける。まだ真新しい胸の傷が痛んだ。
日番谷くん! 雛森が悲鳴を上げて、その腕を押さえる。
例えどんなことがあっても、井上織姫だけは、奪われてはならなかった。
彼女が果たしうる役割を考えれば、他の全ての命と引き換えにしても、護り抜かねばならなかったのに――
逆に命を救われ、自ら虚圏へ向わせてしまうなんて。「失態」どころの騒ぎではなかった。
そんな日番谷の悔恨を見越したかのように、卯ノ花は静かな口調で続けた。
「総隊長は、すでに経緯をご存知です。井上織姫を護れなかったことは、不問にすると。
三人の隊長が卍解しても歯が立たなかった今回の破面の力は、さすがに予想外のものでした。
我々も、戦略を練り直す必要があるでしょうね」
戦略。
あれだけの実力差をひっくり返すどんな戦略があるというのか、にわかには思いつきそうになかった。
相手は、隊長よりも強い。そして自分達は負けられず、死ねないのだ。
そう総隊長から聞かされてもなお、どうにかなると思っていた。
自分達が殺されるはずはない。そして平和な世の中を取り戻すのだと。
根拠もなく思っていた自分の甘さが身に染みた。
卯ノ花は、右手をそっと日番谷の胸に伸ばした。破面によって斬りつけられた、その場所だ。
「傷を負った方々は皆、この四番隊舎で眠っています。貴方は、隊長の中では一番傷が浅かった。
とはいえ、無理をできる状態ではありません。気が逸るのは分かりますが今は、お休みください」
大きくはなく、穏やかとさえ言える声。
しかしそれは、絶対に逆らえないような強さもまた、持っていた。
「……はい、ありがとうございます」
「いいえ。命が助かって、本当に良かった」
頭を下げた日番谷に、卯ノ花は笑みを浮かべた。
そして一礼すると、カーテンを閉めて出て行った。
「……日番谷くん」
顔を上げると、雛森が唇を噛み締めて見つめていた。
藍染に裏切られてからいつも、ずっとこんな顔をしていると日番谷は思う。
まるで親を見失った子供のような目だ。
「……大丈夫だ」
日番谷はそう言うと、するりとベッドの下へと降りた。
途端にズキンと右足が痛みふらついたが、何とか歩くことはできそうだ。
「日番谷くん! 寝てなさいって卯ノ花隊長が……」
「何度言ったら分かんだ、俺は日番谷『隊長』だって……」
いつものフレーズを口にしかけて、ぴたりと言葉を留めた。
卍解も、完全じゃない。
部下も仲間も護れない。
そんな無力な男が、「隊長」と呼ばれていいんだろうか。
今までは夢にも思わなかった考えが、錐のように胸を突いたからだ。
手を伸ばした雛森の前で、無言で背中を向ける。
「……なんか、変だよ……?」
不安そうな雛森の声が、その背中を追いかけた。
「うるせ。他の奴らの様子くらい、見に行かせろ」
まだ、あのスタークとかいう破面の霊圧に当てられているのかもしれない。
胸の奥に消えない疼きを感じながら、日番谷は足を踏み出した。
***
日番谷が病室の扉を開けると、ベッドの上で饅頭をくわえた乱菊と目が合った。
「え? あ、隊長!」
顔を見た途端にぽたり、と口から饅頭を落し、反射的に手でキャッチした。
「元気そうだな松本……」
どうやら、傷は自分と比べれば格段に浅かったらしい。少し安心しながら、部屋の中に足を踏み入れる。
「隊長、いつ目が覚めたんですか? つい一時間前、眠り姫みたいに寝てるところを激写……」
「激写ってなんだ!」
「何って、次号の瀞霊廷通信ですよぅ♪」
「……お前……」
あんな目に遭っておきながら、どれほど落ち込んでいるかと思えばこれだ。
全く気が抜けると思いながら、日番谷は部屋の中に足を踏み入れた。
乱菊はベッドの前にある椅子を、日番谷に示して見せる。
「座ってくださいよ隊長。右足、折れてるんでしょ? 歩き方変ですよ」
「使わなきゃ平気だ」
確かに右足はうまく曲げられないが、井上織姫のおかげか四番隊のおかげか、ゆっくりとなら動かせた。
さっきも、手すりを掴んで左足だけで跳ねて来ていた。
こんな場面を四番隊士に見つかれば、すぐに病室に戻されただろうが。
「雛森は? あの子をつけておけば安心って思ってましたよ。さっきも、隊長の傍から一ミリも離れないって形相で座ってました」
「十番隊舎に、俺の着物を取りに行ってくれてる」
「その隙に出てきたんですね」
「逃げて来たみたいな言い方するな。どう動こうが俺の勝手だろ」
憎まれ口を叩きながら、椅子の背に手をついて、立ち止まった。
雛森が戻ってくるまでに、他の連中の様子も見るつもりだったから、長居はできない。
その日番谷の姿を上から下まで見た乱菊が、突然笑い出した。
「何だか懐かしいですね、その恰好」
「なにがだ?」
「流魂街にある隊長ん家で、初めてまともに喋った時ですよ。隊長、今と同じ寝巻き姿だったでしょ」
「ああ……」
言われて見れば。日番谷は自分の姿を見下ろす。
松本乱菊は、日番谷が初めて出会った死神だった。
斬魂刀を腰に帯び、死覇装をまとう凛々しい姿に、全く、1%も憧れの念を抱かなかったと言えば嘘になる。
そして彼女に死神になるべきだと諭されていなければ、と思うとぞっとする。
日番谷はかけがえのない人を失い、流魂街を一人彷徨っていただろう。
憧れの念なんて今は微塵もないが、それでも恩人なのは間違いないと思っていた。
「……すまなかったな。護ってやれなくて」
松本乱菊は、日番谷にとってはただの部下の一人ではない。
乱菊はその青い瞳をわずかに見開いたが、すぐに微笑んで首を振った。
「隊長の背中を護るのは、副隊長であるあたしの役目です。あたしこそ、申し訳ありません」
隊長、か。
破面とやりあって死ねと命じられる、無力な隊長ですまねぇな。そんな考えが頭をよぎる。
―― 「どうせ……生き残る気なんてないんだろ?」
スタークが言い残した言葉が、耳に生々しくよみがえっていた。
その言葉に動揺したのは、その言葉が事実だったからだ。
「俺のことよりまず、自分が生き残ることを考えろ」
そう言って、椅子から手を離し、背を向ける。右足を引きずりながら、ドアに向おうとした時だった。
日番谷の目の前に飛んできた饅頭が、ドアに当たってベチン、と妙な音を立てた。
「あ?」
ぽかんとしてベッドを振り返ると、裸足のまま寝巻きがはだけるのも一向に構わず、大股で歩いてくる乱菊が見えた。
「松本! 食い物は大事に……」
「饅頭なんてどうだっていいんですッ!」
まともに向かい合えば、乱菊は日番谷より四十センチほど背が高い。
日番谷が心持ちのけぞって見上げると、思いがけないほどに悲しそうな顔をした乱菊の顔があった。
「何なんですか?」
「それはこっちのセリフだ!」
「『俺のことより』って、どういう意味ですか!」
「え?」
「自分はどうなってもいいって、そう聞こえましたよ」
ぎくり、とした。その言葉を口にする前に頭をよぎったものの正体を、乱菊はぼんやりとでも気づいている。
とっさに表情を作れずにいる日番谷を見て、乱菊は唇を噛み締めた。
「初めて会った時……あたし、隊長に死神になりなさいって言いましたよね。その時隊長は、頷きましたよね」
こくり、と頷く。自分があの時に戻ったかのような既視感を覚える。
「あたしもその瞬間、誓ったんです。誘った以上、絶対に死神としてこの子を死なせたりしない、と」
その声が震えたような気がした時には、乱菊はすでに日番谷から離れ、背中を向けていた。
乱菊とていきなり動ける状態ではないのだろう、肩が大きく揺れていた。
「死なないでください、隊長」
やるせなさが、その声全体ににじみ出ていた。
物分りよく諦めるのではなく、どうして足掻かないのかと、そう責められている気がした。
もしも……もしも自分がもっと強く、大人の男だったら、絶対に死なないと返してやれるのだろうか。
どうすれば今の自分でも、この背中にそう返してやれるんだろうか。
―― 「不完全な卍解しかできない者が一人」
その時頭をよぎったのは、スタークが残した一言。
「……松本」
振り返った乱菊は、自分の放った言葉に自分で傷ついた、そんな目をしていた。
「お前に頼みがあるんだ。……聞いてくれるか」