日番谷はゆっくりと、布団の上に広げていた紙を元通りに畳みなおし、机の上に置いた。
春にしては強すぎる直射日光が窓から斜めに差込み、腕を伸ばしてカーテンを閉める。
途中まで布に覆われたところで、ふと手を止めた。
窓の向こうでは、ほとんど花が散り落ちた桜が枝を揺らせている。
「……ん」
かすかな声に、日番谷は振り返る。
椅子の上に座ったままの雛森が、うつらうつらと舟をこいでいた。
いくら自分の部屋に戻って寝ろと言っても、ここがいいと頑として動かないのだ。
―― 「日番谷くんが近くにいると思うとね、安心して眠くなるの」
そう言っていた雛森の目の下には、眠っていても色濃い隈のあとが見える。
日番谷はそっと、カーテンを全部閉めた。
トントン、とドアがノックされたのは、その時だった。
その堂々たるまでに開けっぴろげな霊圧の主は、この階にやって来た時から既に気づいていた。
「黒崎か。入れ」
「何で分かんだよ……」
思ったとおり、死覇装姿の一護が入口の扉から顔を見せる。
しかし雛森を見るなり、気が引けたように立ち止まった。
「雛森なら気にすんな。当分起きねぇよ」
「あぁ……お邪魔、します」
顔に似合わない律儀な挨拶と共に、一護が姿を現す。
死覇装の襟元には、分厚い包帯が巻かれている。まだ癒えていないのは、その歩き方を見ただけで分かった。
斬月は背中には負わず、片手に持っている。浮竹や京楽とそれほど変わらない深さの傷を負ったと聞いていた。
そしてあの二人は、まだ目覚めてもいないのだ。歩いているだけでも大したものだといえた。
「冬獅郎、大丈夫なのかよ? 三日くらい前に起きたって聞いたけど」
「日番谷『隊長』だ!」
「ご機嫌いかがですか、日番谷隊長殿!」
イラッ、とした視線を互いに交わしあう。ややおいて、日番谷がため息をついた。
「明日には十番隊に戻る。……俺に何か用か」
「用がなきゃ、来ちゃいけねぇのかよ」
「それほど交流もねぇだろ」
「取りつく島もねぇな」
一護はぼやくと、肩を揺らしながらまっすぐ、日番谷が半身を起こしているベッドに歩み寄って来た。
その引きずるような足取りを見ながら、日番谷は続けた。
「用がなきゃ、来るわけねぇよな。……井上織姫が浚われたんだ、呑気に俺を見舞ってる場合じゃねぇだろ」
途端。目を剥いて見下ろしてきた一護の視線に、戦慄する。
闇に光る獣の双眸のように、飢えた気配。その表情には、以前には見られなかった孤独と怒りが植えつけられていた。
抑えきれない殺気が、部屋中に充満した。
日番谷は目の端で、ベッドに立てかけられた氷輪丸の位置を確認する。
そんな日番谷に視線を据えて、一護は口を開いた。
「総隊長さんに、何度頼んでもダメだったんだ。虚圏に行く方法は教えられぬと、その一点張りだ」
「……だろうな」
日番谷は頷いた。当然だろうと思う。
一護が、NO.6十刃に最後に放ったあの力に、正直言ってぎょっとしたのだ。
日番谷にとって、その力も姿も死神より虚に近い、という事実は大したことではなかった。
問題はその力の強さが、隊長格をも凌いでいるように見えたこと。
いまや黒崎一護が、瀞霊廷にとって無駄死にさせられないほどの人物になっていることは間違いない。
一護が激怒しようが懇願しようが、頑として受け付けなかった姿が目に見えるようだった。
一護は、低い声で続ける。
「教えられぬってことは、方法はあるんだよな?」
「なぜ俺に聞く?」
「お前が隊長だからだ。お前は知ってるはずだ、違うか?」
手負いの獣のように荒々しい霊圧に、背筋が粟立つ。日番谷は氷輪丸の柄に指を走らせると、一護を睨み上げた。
「……俺を脅すつもりか? 黒崎一護」
日番谷にまっすぐに睨みつけられ、一護は一瞬、言葉を見失ったかのように黙り込んだ。
一拍あけて、不意に――
「誰っ?」
鋭い声が、その場を貫く。雛森が、冷水でも浴びせかけられたように唐突に跳ね起きたのだ。
浅打になっても常に携帯していた飛梅を、おそらく反射的に引き抜く。
日番谷の前に庇うように立つと、刀の切っ先を一護に向けた。
「日番谷くんに何するのっ!」
「飛梅」が赤く発光するのを見て、割って入ろうとした日番谷は、息を飲んだ。
飛梅が反応している―― 背後から見る、雛森の後姿は強張っている。
しかし、一歩も退かない決意が見えるようで、日番谷はとっさにかける言葉を失った。
雛森の強い瞳に睨まれた一護は、束の間ぼんやりと立ちすくんだ。
そして不意に背後に退がると片手で顔を覆い、大きく息をついた。
沈黙が落ちた病室の中で、一護の荒い息だけが響き渡る。三人ともが無言のまま、随分長い時間が経った気がした。
「……すまねぇ。俺は、そんなつもりじゃ、」
振り絞るような声が、指の間から漏れた。
「……大丈夫だ、雛森」
日番谷は雛森の肩を掴み、そっと脇へどかせる。
そしてベッドから降り、一護と至近距離で向き合った。
「黒崎……」
「頼む!」
バン、と音を立て、一護は病室の床に両手をついた。
「どうなったっていい、井上を助けてぇんだ。虚圏へ行く方法を教えてくれ!」
この男は、止まらないな。その姿を見て日番谷は思う。
「……どうやって、連れ戻すつもりだ?」
聞きながらも、答えなどないことは分かっていた。NO.1十刃の圧倒的な力の前に、一矢も報いることなく敗れたのは二人とも同じだ。
「……まだ、分からねぇ。けど……」
その時日番谷は、一護のほどいた右の掌に、小さなヘアピンを見つける。
織姫が髪に挿していたものに違いなかった。一護は視線をそれに落とし、唇を噛み締める。
「もう決めたんだ。井上は俺が護ってみせる」
日番谷は、布団の上におきっぱなしの紙に視線をやる。そこに書かれていた言葉を口にした。
「……虚圏へ潜入する方法は一つ。虚圏への入口、黒腔を創造することだ。そして、その第一人者が浦原喜助だ。
二日前、黒腔を開通させることに成功したらしい。奴のところへ行け」
それは、隊長にしか知らされていない機密情報。
死神代行に漏らしては罪に問われかねなかったが、それでも自分の決断が間違っているとは思わなかった。
一護はしばらくそのままの体勢で固まっていたが、不意に日番谷に向かって一礼した。
「なんだよ、気持ち悪ぃな」
日番谷の悪態にも、笑顔を浮かべて見せる。
「ありがとうな。実は、隊長の中でお前だけは、教えてくれる気がしたんだ」
「……お前なんぞに見透かされる覚えはねぇ」
「分かるさ」
一護は日番谷の仏頂面を見下ろして続けた。
「お前と、俺は似てるからな」
「あ? 失礼なこと言うな」
「その言い方が失礼だろ」
そのやり取りを聞いていた雛森が、力が抜けたようにふふっ、と噴出す。二人の男は顔を見合わせた。
一護がふと言った。
「……でも、決定的な違いがあるよな。俺は奪われた。お前はまだ手元にある」
主語のない言葉に、えっ、という顔を雛森が浮かべる。
しかし、日番谷には一護が何を言いたいのか、痛いほど分かった。
確かに、似ているのかもしれない。ふと、そう思う。
「……お前は手放すなよ。何があってもだ」
「当たり前だ」
ニヤリ、と一護が笑う。そして雛森に軽く頭を下げると、ためらいない足取りで部屋を後にした。
***
一護が去って行った後もしばらく、日番谷は身動きもしなかった。
荒ぶる男が残していった余韻と、幼馴染の少女が自分を見つめる視線を感じる。
「……良かったの? 教えちゃって……機密情報なんでしょ?」
「ああ」
「どうして?」
「……分からねぇ」
降参したように日番谷が肩をすくめると、雛森はよっぽど意外だったのか目を丸くした。
「日番谷くんも、分からないことってあるんだね。しかも自分のことなのに」
「うるせえよ」
ため息混じりに言葉を吐き出した。
どうして、総隊長の意思に反しても彼を行かせたのか――明確な理由はなかった。
ただ、黒崎一護という人間が、ダイヤルがカチリと合うように「分かった」気がした、それだけだ。
思えば、朽木ルキアを救うときも、同じように敵地に真っ向から飛び込んだ男だ。
一人を救うために被害にあった人数を引き合いに出して、滅茶苦茶だと批判する死神もいる。
しかし、右往左往するしかなかった死神の中で、あの少年は確かに無茶苦茶ではあったが間違ってはいなかったと日番谷は思う。
もし、大切な人間が敵地に一人さらわれたら、日番谷だって誰が何と言おうが同じ事をするだろうから。
―― 「お前と、俺は似てるからな」
うるせぇよ、と。一護が残した言葉に、もう一度心の中で悪態をついた。
「ちょっ、ちょっと日番谷くん!」
いきなりバサッと寝巻きを脱ぎ捨てた日番谷に、雛森が顔を赤くした。
「一番隊へ行ってくる」
死覇装に腕を通しながら、雛森を見返す。
そして彼女の視線が、自分の胸に向けられているのに気づいて、動きを止めた。
巨大な十字傷が、その胸には刻まれていた。
もう癒えている、右肩から左脇へ切り下げられた傷……これは、藍染にやられたものだ。
そしてまだ真新しい、左肩から右脇への傷。測ったように、心臓の前で交差している。
まだ若いからこんな傷跡はすぐに消える、と卯ノ花は言っていたが、消えなくても構わなかった。
この傷を見るたびに、弱い自分への戒めになるはずだ。
「無茶だよ……」
雛森の声が、泣きそうに震えた。
「そんな、ひどい傷を負って……どうして、戦わなきゃいけないの」
ふっ、と日番谷は心中、息をついた。
日番谷を庇って一護と向き合ったあの一瞬、かつての雛森が戻ってきたような気がしたのだ。
でもそれは、まだ気のせいなのかもしれない。
「まだ、護るものがあるからだ」
雛森にとっては、藍染を失った風景など荒野にしかすぎないのかもしれない。
でも日番谷の目には、護るべき者の姿がはっきりと映っている。
「……あたし、」
「お前はしっかり食え! そして、ちゃんと寝ろ」
ぶっきらぼうに言うと、腰紐をキュッと腹の前で結ぶ。
「……日番谷くんは、どうするの」
「完全な卍解を会得する方法を、総隊長に聞きに行く」
「えっ? でも……」
雛森の声が、途中で小さくなる。
日番谷の卍解が不完全だということをはっきりと知っているのは、総隊長と雛森だけだった。
隊長の中には薄々気づいている者もいるだろうし、今回乱菊にも知られてしまっただろうが、直接話したのはこの二人だけだ。
「じゃな」
わざと軽く手を上げると、日番谷は雛森に背中を向けた。
「……ごめんね、日番谷くん」
氷輪丸を手に部屋を出ようとした時、雛森の声が聞こえた。
「あたしもいつか、隣にいけるようにがんばるから……」