約三十分後。日番谷は一番隊舎内の一室で、山本総隊長と向き合っていた。
前回会った時は、「お任せください」と啖呵を切って現世へ赴いた。
それを考えると会うのは普段、不遜を自称する日番谷も気まずかったが、総隊長は全く当時をおくびにも出さず、いきなりやって来た彼を迎えた。
しかし、それにしても。
―― なんで茶室なんだ?
日番谷の疑念を他所に、総隊長は飄々とした表情で茶をたてている。
チュンチュン……と雀の声が窓格子の外から長閑に聞こえてくる。春の日差しが長く畳の上に差し込んでいた。
日番谷は、いつも隊首会が開かれている大広間を思い浮かべた。あの場所のほうが、雰囲気的に頭が下げやすいのだが……
「どうじゃな、この抹茶。最近変えてみたのじゃが」
日番谷の思惑など露知らずか、総隊長が湯飲みを日番谷につい、と差し出した。
最近変えたも何も、総隊長が立てた茶を口にするのは初めてだ。
これまでも茶会に声をかけられたことはあったが、何時間も狭苦しい部屋で堅苦しい思いをする気になれず、浮竹や京楽を盾に逃げていたものだ。
―― まっず……
「それで、今日は何用じゃ」
日番谷が湯飲みを放り出したい衝動に駆られていた時、総隊長から話を切り出してきたため正直ほっとした。
湯飲みを体の脇に置くと、指を畳の上について頭を下げる。
「今回の失態は、先遣隊を率いた俺の責任です。申し訳……」
「おぉ、日番谷隊長。此度のことじゃがな」
ずずっ、と自らの淹れた茶をすすりながら、総隊長は思い切り遮った。
「藍染の目的の特定から、井上織姫の保護の指示まで非常に的確、かつ迅速であった。
力量が上回る破面を相手に、連携で押し返した手際も見事である。……伝令神機を破壊したことまでは誉めてはおらんがの」
「は? しかし」
「しかしじゃ。まだまだの所もあるの」
総隊長は、日番谷の言葉を掬い上げるように続ける。
下げていた頭を上げて総隊長を見やると、そこには意外なくらい柔和な瞳があった。
「責任を自分に持って行きすぎる。京楽を見よ、いつも要領よくやっておる。
浮竹も朽木も、ああ見えてうまく責任を分散させておるのじゃ。京楽のようになれとは言わんが、あまり真面目すぎると持たぬぞ」
「はぁ……」
「何より。隊長たるもの、頭を簡単に下げてはならぬ。お主らは、三千人が所属する護廷十三隊の頂点なのじゃ。
お主らが常に迷わず道を示せればこそ、部下は迷わずついていけるのじゃ」
「……」
その言葉は、今の日番谷にはぐさりと突き刺さった。
ふむ、と総隊長は口の中で唸ると、黙り込んだ日番谷を探るような目で見つめてきた。
「……まあ、そう気負うでない。負けても良いではないか」
「……はっ?」
日番谷は言葉をそこで切り、穴が空くほど総隊長の顔をじっと見つめた。この老隊長は、今何と漏らした?
「負けても良いって、何を言ってるんですか、総隊長……」
「何を意外そうな顔をしておる。お主とて気づいておるじゃろうが? 死神の劣勢を知りながら王廷が此度の戦いに組しない、その理由を」
「滅びたなら滅びたで構わない」そう言い放った日番谷に対して、総隊長が激怒したのは記憶に新しい。
しかし総隊長は、その時見せた怒りが嘘のように、こともなげに言った。
「そう。滅びたなら滅びたで構わない……更に言えば、死神亡き後、王廷自らが瀞霊廷に君臨するためじゃろうて」
「……総隊長。自分が何を言ってるか、分かってるんですか」
無意識のうちに、畳についた拳をぎゅっと握りしめていた。気づけば、上半身をわずかに浮かせていた。肩に、腕に力がこもってゆく。
「もちろんじゃ。王廷のほうが、瀞霊廷を護るには適しておる。のう、そうは思わ……」
高く鋭く、空気が悲鳴を上げる。
日番谷の拳が風切音を立て、総隊長の顔面に迫っていた。
避けるどころか意外そうな顔もせず、諦めたように瞳を閉じた総隊長の表情が、目の端に留まった。
「……」
沈黙を、いつまでも終わらないかのように長く感じた。……ふ、と総隊長が微笑んだ。
「……どうした、殴らぬのか?」
日番谷は無言で、拳を下ろす。苦々しい思いが、胸の奥からこみ上げてきていた。
「俺たち死神は、何千年もずっとこの地を護ってきた。その年月が、王廷の力に負けるって言うんですか? 総隊長のあんたが」
こんなことを、この男に言う日が来るなんて。眦を決して、総隊長を睨みつける。
「総隊長なら最後の一人になっても、瀞霊廷を護るのは自分だと言うべきだ、違うか?」
狭い茶室が揺れるような大声にも、総隊長は微動だにしない。静かな瞳で、日番谷を見返しただけだった。
「……お主は本気で、瀞霊廷を護り抜くつもりか? あれほどの力を見せ付けられても」
「当たり前だ!」
しばらくの沈黙があった。息詰まるような空白の後に、うつむいていた総隊長の肩が不意に大きく揺れた。
日番谷は怪訝そうに眉根を寄せる。
「総隊長……ひょっとして笑ってませんか?」
総隊長は無言だったが、ふっ、と息を漏らす。すぐに肩を揺らし、茶室を揺るがすような呵呵大笑を放った。
下手をすれば斬られるくらいの覚悟をしていたのだ。それを見返した日番谷は、相当マヌケな顔をしていたに違いないと自分でも思う。
「破面どころか、総隊長や王廷をも恐れぬか。正に不遜! それでこそお主じゃ。安心したぞ」
「……まさか。あんたわざと……」
「決まっておろうが。それくらいの腹も読めぬとは、やはりまだ若いの」
思わず赤面したのが自分でも分かる。無言で身を退くと、元の場所に正座をしなおした。
「で。本題に話を戻していいでしょうか、総隊長!」
「もちろんじゃ」
何事もなかったように茶をすする総隊長に殺意を覚えながら、体をまっすぐに起こす。
「総隊長は、知っているはずです。俺の卍解が、未だ不完全だということを」
総隊長は眉ひとつ動かさずに、日番谷の言葉を受けた。それを肯定と捕え、言葉を続ける。
「卍解の会得は、隊長となる必須条件。俺は歴代でただ一人、不完全な卍解でありながら、隊首試験に合格したと聞いています。
これまではそれでもよかったかもしれない。でも、今回の戦いは、完全な卍解なしに乗り切れるものじゃない」
ふむ、と総隊長は髭を捻る。
「お主が破面と戦ってそう思ったのなら、それは事実なのじゃろうて。それで? 何を望む」
「修行のため、十番隊隊長職をしばらくの間、休職させて頂きたい」
「しばらくの間」がどれほどになるのか、それは日番谷にも分からなかった。
案外すぐに会得できるものか、それとも何年も先になるのか。
総隊長はしばらく無言だった。言葉の代わりに、深く長いため息をついた。
「お主が、そこまで思い詰めておったとは。留守の間、隊長業務はどうするつもりじゃ」
「松本には、俺がいない間の仕切りを頼んであります」
三日前、それを切り出した時の乱菊の表情を思い出していた。
普段自分の業務もさぼりたがるくせに、あの時は本当に嬉しそうな顔をしていた。
―― 「隊長の力になれるなら、あたしは何だってやりますよ」
そう言った彼女の明るい表情を、思い出す。
決意した以上、日番谷が完全な卍解を会得すると百%信じきった声だった。
総隊長はしばらく沈黙した後、重い口を開いた。
「休職については、認めよう。しかし一つ言わねばならんが……お主が望んでいる結果は難しいかもしれんの」
「……完全な卍解は難しいということですか?」
「そう結論を急ぐでない。急ぐのは若者の悪い癖じゃ……氷輪丸を見せてくれぬか」
日番谷は頷き、茶室の外に立てかけてあった氷輪丸を持ち込むと、総隊長に手渡した。
総隊長は皺だらけの手で静かに鯉口を切り、静かに刃を抜き放つ。薄暗い茶室の中で、刀身が鈍く輝いた。
「……やはり、な」
そう呟く。その低い声音の意味が分からなかったが、不吉な予感が胸の中に広がった。
「お主の卍解が未完成じゃということは、隊首試験の際、大きな議論を巻き起こしたのじゃよ。
単純に実力のみで言えば隊長格レベル。しかし未熟な卍解のまま隊長職に就かせるべきではない、という意見も多くての。
今は修行に専念させ、完全な卍解を会得した後でも遅くはないという意見が大勢じゃった。それでもその時点でお主を隊長にと推したのは、儂じゃ」
「……それは、何故」
「お主、おかしいと思ったことはないか?」
不意に総隊長は日番谷に問い返した。
「斬魂刀の原点である『浅打』の時代を氷輪丸は経ておらぬ。お主が物心ついた時にはすでに対話していた点で、『始解』がいつなのかも不明確じゃ」
「なんでそれを……」
「知っているのか、と? 隊首試験の前には、斬魂刀の審査もあるのを知っておろう?
氷輪丸についての審査結果は『疑いあり』。理由の一つは、お主と氷輪丸の霊圧に、完全な一致が見られないこと。
二つは、『浅打』、『始解』、『卍解』。この三つの段階の全てを、氷輪丸が満たしていないこと。どちらも斬魂刀としては致命的じゃ」
その言葉は、日番谷にとってはまさに晴天の霹靂だった。一瞬言葉を失った日番谷は、言葉に詰まりながらも問い返す。
「……氷輪丸が不完全な斬魂刀だってことですか? 当時、そんなことは一切……」
「不完全とは言わぬ。従来の斬魂刀の型におさまらぬ、ということじゃ」
総隊長は、思わず片膝を立てた日番谷の前に手をかざしていさめた。
「……すまぬの」
総隊長が頭を下げるのを、日番谷は絶句して見返すことしかできなかった。
「死神全体の秩序を揺るがすが故に、斬魂刀の『亜種』の存在は禁忌なのじゃよ。
卍解を会得した後に隊長に据えるという条件をつけては、お主が卍解に至れなかった時に、
なぜできないのかという議論が巻き起ころう。その際に、氷輪丸の正体が明るみにでるかもしれぬ」
「……議論を終わらせるために、隊首試験に合格させた、と?」
「誤解するでない。お主の実力が隊長レベルでなければ、そんな決断はせぬ」
沈黙のあと、日番谷は力なく問うた。
「そこまでして隠そうとした、氷輪丸の正体とは何なんですか」
「分からぬ。亜種だということ、当時はそれだけ分かれば十分じゃった。
それに情報とは漏れるものじゃ……儂はそれ以上の調査をあの時、命じなかった。じゃが、お主なら直接、氷輪丸に聞けるであろう?」
総隊長が差し出した氷輪丸を受け取る。心なしか、それはいつもより重く、冷たく感じた。
その時、、茶室の外に気配が現れた。
「雀部か。どうしたのじゃ」
総隊長が茶室の向うに声をかけると、は、とすぐに落ち着き払った声が返した。
「人間と死神数名が浦原喜助の手引きにより、虚圏へと潜入したようです。
侵入者の名は、阿散井恋次、朽木ルキア、黒崎一護。そして、石田雨竜、茶渡泰虎の合計五名です」
日番谷はチラリと総隊長の顔を見やったが、意外そうな表情は浮かべていなかった。
「ふむ。まぁ、思ったよりは早かったな。しょうがあるまい。更木、卯ノ花、涅、朽木。以上四名の隊長に出陣の準備を指示しておけ」
雀部の立ち去る気配を聞きながら、総隊長は日番谷に向き直った。
「お主は、現世へゆけ。斬魂刀の本体と対話ができる神具を、四楓院が持っておる」