昼食を終えた日番谷は、氷輪丸を手に地下空間へと向かった。
この二週間、あちこち破壊しまくったおかげで、空間内の岩という岩は崩れ落ち、岩場というより更地に近い状態になっている。
さっき浦原に謝ったら、
―― 「なあに、気にしてませんよ。十番隊にあとで請求しますから」
と、シレッと返された。要は、大いに気にしていたということだろう。
―― 「いいじゃん、このままで。野球とかサッカーし放題だし」
―― 「かくれんぼはできないよ、ジン太君」
二人の子供の会話を聞き流しながら、日番谷は立ち上がった。

トン、と軽い足音を立て、地下空間の地面に舞い降りる。
岩場がほとんどなくなった、荒涼と広がる地面。はるか遠くに、穿界門がぽかんと浮かんでいるのが見える。
十番隊に請求されても困る、と思う。先だっての旅禍騒動の修繕費を全隊で分担したせいで、どこの隊も火の車なのだ。
私費で出すことになるだろうが、一体どれくらいかかるのか想像もつかなかった。
―― 戦いが終わったら、児丹坊にでも手伝わせて、岩を運び込むか……?
そこまで考えて、ふっと気づく。どうやら、藍染との戦いを越えても自分は、生きるつもりでいるらしい。
変わった―― と思う。
スタークに敗北した衝撃が収まっていなかった二週間前とは、明らかに。

手にした氷輪丸を、見下ろす。
一時はずっしりと重みを感じたそれは、同じものを扱っているとは思えないほど、今は軽々と扱えた。
ほとんどの敵に体格で劣る自分が、いままで無意識のうちに鬼道に頼り、白打や斬術を避けていたこと。
鬼道を扱いつつも、四方三里を氷に沈めるこの刀を、持て余してきたこと。
全てをぶつけることができる相手を得て初めて、自分自身から逃げていた未熟さを思う。
そして―― 自分が持っている可能性にも気づいた。


わずかに残る岩場。そこに氷輪の霊圧を感じ、日番谷は足を向けた。
今は、氷輪と自分のわずかな霊圧の違いを、感じ取れるようになっている。
タッ、と軽い足音を立てて、氷輪の背後にある岩に降り立った。
日番谷に背を向け、岩の上で座禅を組んでいる姿は、やはり修行僧以外の何者でもないと思う。

死神や、死神崩れ、という線は消えた。
―― まさか、死神代行か……?
あの黒崎一護も、瀞霊廷に攻め込んでくるまでその存在は明るみに出てこなかったのだ。
ルキアのような死神が、人間に力を与え、死神に類する力を得たとすれば―― 
「人間だ、なんてことになったら、死神は形無しだな……」
思わず苦笑いする。おそれおおくも「神」の端くれである自分達が、人間にも破面にも勝てない、など笑い話にもならないではないか。

「……氷輪?」
かつてないほど無反応な背中に、歩み寄る。前に回っても身動きもしなかった理由が、顔を覗きこんだ時分かった。
「寝てんのか」
着物の上からでも分かる分厚い胸の筋肉が、ゆっくりと上下している。炯炯とした光を放っていた両眼も、今は閉じられていた。
その腕といわず、胸元といわず、古傷が刻まれている。
胸に見える、一文字の裂傷。これは、刀により斬り付けられたものだろう。引き攣れたような傷もあるが、これは火傷かもしれない。

死神だろうが、人間だろうが、他の何者だろうが。
この男にも、この姿で生きてきた長い時間があったに違いないのだ。

「……ひとつ、聞きたいことがある」
声を高めて呼びかけると、氷輪は薄く片目を開けた。
「死神だか何だか知らねぇが、元に戻ることができるなら。戻りたいと願うか?」
氷輪は、その問いにすぐには答えなかった。訝しげに、その眉のあたりが顰められる。
「……なぜそのように問う。我を失うことはお前にとって、力を失うも同じことだ」
「それでもだ」
この男が自分とは別の固体で、別の人生を歩み、別のことを考えていると知った今、思うことはひとつだけだった。
「お前には、自分の人生を生きる権利がある。だろ?」

氷輪は、しばらく無言だったが、やがて頬に苦笑いにも似た、微笑を浮かべた。
「……お前は、変わらぬな」
「いつの話をしてんだ」
「我はお前のことを知っている。お前の記憶が始まるより、ずっと前から」
そして、生成色の着物の前を開いて、日番谷に自分の胸を示した。……それは、ちょうど心臓のあたり。
思わず日番谷は眉間に皺を寄せる。そこには、槍のような大きな刃物で一突きされたに違いない、と思われる、巨大な古傷があった。
こんな傷を受ければ即死か、永らえても数分も持つまい、ということが分かった。
「……それ、誰にやられた傷だ?」
「上には上がいる、ということだ」
「冗談じゃねぇよ……」
氷輪は自分より圧倒的に強い。そして、その氷輪にこんな致命傷を負わせる者が一体どこにいるというのか、考えたくもない。

「我は、一個の魂として、人の形を取ることはもう出来ぬ。お前を離れては、我は消滅するのみだ」
「……お前は、もう死んでいるはずの魂なのか?」
「そう取っても構わぬ」
「……死神に、それを言うかよ」
日番谷は、思わず天を仰いだ。
「初めの問いに戻ろう。我は自分の意思でここにいる。別の固体として生きる選択肢はない。あったとしても望まぬ」
「……俺は」
「力が必要なのだろう? 冬獅郎」


―― 「死なないでください、隊長」
その瞬間、随分と会っていないような気がする副官の声が、聞こえた気がした。
日番谷から目を背けた瞬間、いつもは勝気な両目に浮かんでいた涙のかすかな光まで、まざまざと浮かんだ。
日番谷が頷こうとしたとき。いきなり何の前触れもなく、天井が爆発した。