―― 敵か!
反射的に、氷輪丸を引き抜く。
戦争が始まった段階で、死神と破面が立ち入ることができる全ての場所が戦場だ。
考えてみれば、今まで二週間放置されていたことのほうがおかしいのだ。

全身にしびれが来るほどの霊圧が、上空からたたきつけられる。とてつもなく重い一撃が来る。
避けるか。
迎え撃つのか。
逡巡したのは一瞬だった。


日番谷はぐっと足元を固めると、氷輪丸を下から打ち上げた。
次の瞬間、地面に足が食い込むほどの斬撃が氷輪丸を襲う。相手が振り下ろした刀が、真っ向から打ち当たったのが分かった。
何十メートルも落ちてきたのだ、その重量は半端ではない。相手の体は人体というより、まるで黒い影のように見えた。
全体重を受け止めた全身が、ぎしり、ときしむ。
しかしそれは、決して不快な感覚ではなかった。
押しつぶそうとする相手の力より先に、体の奥から突き上げてくる力を感じる。
拮抗は、一瞬。日番谷は相手の体を霊圧で吹っ飛ばしていた。

「……」
思わず日番谷は、自分の体を見下ろす。輪郭が、青白く輝いて見えた。全身を覆う霊圧が、自分が想像もつかないくらい高まっている。
顔を上げると、視界の片隅に吹き飛ばされた男の、ハリネズミのような独特の髪型が見えた。
「……あれ?」
刀を手にしたまま、思わず間抜けな声が漏れた。
自分の目がおかしくなっているのでなければ、あの髪型には見覚えがある。

「驚きましたね。この短期間でそこまで力を上げてくるなんて。若いとは素晴らしいですね」
息がかかるほどに真後ろから声が聞こえ、日番谷は思わずぅわ、と小さく声を漏らして振り返った。
そこにいたのは、二週間前と変わらず穏やかな笑みを浮かべた同僚だった。
「卯ノ花隊長! なんでここに……」
「相手が誰なのか、霊圧で把握する余裕は持つべきだがな」
スッと音もなく瞬歩で現れたのは、朽木白哉だった。
「襲い掛かってくる奴が敵じゃねぇなんて、普通はねぇだろ」
「現に、更木がいる」
「考慮する必要が?」
「ないな」
涼しげにそう返す。
「普通はあんな攻撃、避けると思うけどネ……ちょっと見ない間に、更木でも伝染ったかネ」
なんなんだこのメンツは。涅を見て、日番谷は心の中でそうこぼした。

氷輪がゆっくりと身を起こす。卯ノ花がちらりとそれを見やり、また日番谷に視線を戻した。
「……あの方は、何者ですか?」
問われて、口ごもる。何者なのか一番知りたいのは自分だと思う。
「……我、は」
口を開いた氷輪をさえぎったのは、崩れた岩山から瓦礫を吹っ飛ばして現れた更木だった。
もうもうと土煙が立ち込めているせいで、その輪郭しか分からない。
「はははは日番谷! てめぇもやっと肉弾戦の楽しさが分かったか! 続きやろうぜ!」
「てめぇ、破面と戦うために来たんじゃねぇのかよ。相手が違うぜ」
「強けりゃ、死神だろうが破面だろうが区別しねぇよ」
「つーか、区別くらいしろ」
ため息をついて肩にかかった土ぼこりを払った。この男と、まともに会話ができる気がしない。

にぎやかで何よりですねぇ、と卯ノ花がのんびりと返す。
本当に何しに来たんだ、と尋ねようとして、更木、卯ノ花、白哉、涅の四人を順番に見た。
「……なにをジロジロ見てるんだネ」
「卯ノ花隊長。こんなところに何をしに来たんですか」
一番話が通じやすそうな人物を選択した、まさにその時。

「てめぇ、氷輪!!」

怒号のような叫びが、その場を貫いた。あまりの普段の声との違いに、一瞬その男が発した声だと分からなかったほどだ。
振り返った日番谷は、足音も荒く土煙から現れたその男を、唖然として見上げることしかできなかった。
「……更、木?」
があん、と横合いから頭を張られたような衝撃があった。
氷輪と。この男は、今そう口にしたのか?

更木は、日番谷の動揺に気づくことなく、大股で氷輪に詰め寄る。だらりと下げた斬魂刀を、寸分のためらいもなく氷輪に向けて振り上げた。
「氷輪っ!」
日番谷が奔る。反射的に、二人の間に飛び込んだ。
「日番谷隊長!」
卯ノ花のが鋭く叫ぶ。刀が振り下ろされるのには間に合ったが、受け止めるにはあまりに体勢が悪かった。
頭上で風が鳴り、刀が振り下ろされるのが分かる。ぞうっと背筋が粟立った。

「……」
予想した刃は、日番谷の上に降っては来なかった。代わりに、ちぃぃ……と刀が小刻みに震える音が聞こえ、顔を上げる。
氷輪が自らの刃を抜き、柄で更木の刃を止めていた。神速で腰から引き抜かれた刃は半分はまだ、鞘の中である。
刀は、日番谷の頭上数センチのところで押し合っている。双璧のように立ちはだかる二人の巨躯の男の、筋肉がきしむ音まで聞こえそうだった。
「てめえ、どの面下げて、俺の前に現れた!」
更木の激昂に、皮膚がビリビリと震える。初めて見る表情だ、と思う。怒っている……いや、苦しんでいるのか?
氷輪は、と振り返って見ると、突然ぶつけられた激情に、感情を揺らせているようには見えなかった。
もともとこうなると分かっていたシナリオを眺めているかのように。
他の隊長達は当然ながら状況が飲み込めないのだろう、その場を静観している。

「……更木。てめぇ、こいつが何者かわかるのか?」
ムダかもしれないと思いながら、日番谷は更木に呼びかける。更木は初めて、自分のすぐ下にいる日番谷に気づいたかのように視線をやった。
何か言おうとして開かれた口が、また閉じられる。この男なりに動揺しているのが伝わってきた。
「……『あいつ』は、どこにいる」
そう氷輪に再び呼びかけた更木の表情に、さきほどまで支配していた激情はない。
氷輪はその問いかけにも無言で、刀を鞘に納める。そして、背後からぽんと、間に挟まれる形になっていた日番谷の肩に手をやった。
「……氷輪?」
肩の重みが突然なくなる。ふぅっと、何の前触れもなくその姿が掻き消えた。
「……消えた?」
訝しげに白哉がつぶやいた。
「……いや」
日番谷は首を振る。自分の体が空のコップだとするなら、まるで水が一気に注がれたかのような、あるべきところにあるべきものが収まった感じがした。
氷輪は、また自分の中に戻ったのだ。


「……ン、だあ? あの野郎、どこ逃げやがった!」
「……氷輪は、俺の中に棲んでいる。戻っただけだ」
「あ?」
更木は、一瞬異様な眼をして日番谷を見やった。他の隊長たちに、氷輪は氷輪丸の本当の姿なのだと、説明する気にはなれなかった。
つまり、氷輪丸は斬魂刀ではない。その結論に隊長達が達するのは当然だったからだ。
「……更木」
日番谷は、舌打ちをひとつして、刀を鞘に納めた更木を改めて見やった。
なぜ、氷輪の名を知っていたのか。二人の間に、何があったのか。尋ねなければいけないことは山ほどあった。
しかし、つかの間落ちた静寂をさえぎったのは涅だった。
「何をごちゃごちゃとやっているんだネ、お前達は!」
苛立たしげに声を荒げ、二人に歩み寄った。
「今私たちがこんな現世まで駆り出されているのは何のためだ? 虚圏へ赴いて、藍染の奴の息の根を止めるためじゃないのかネ。
全く、これ以上余計な時間をかけて、私の研究の邪魔をされるのはごめんだヨ」
「……俺は、何も知らねぇよ」
日番谷の問いが分かっているかのように、更木が口を開いた。日番谷には背を向けているから、その表情は分からない。
「分かってんのはあいつの名前と、アイツがムカつく野郎だってことだけだ」
一体何があったというのか。聞こうと日番谷は、喉元までこみ上げてきた言葉を飲み込む。
いけ好かないが、ここは涅が正しい。藍染への対処が火急を要する今、それ以外の事柄は後回しだ。


「やぁ皆さん、そろってお越しですね!」
緊迫した空気の残滓が残るその場に、対照的なほどにのんびりと現れた男に、その場の全員が振り返る。
「……浦原喜助かネ」
涅が吐き捨てた。浦原はいつもの食えない笑みを浮かべている。
自分の家をまた壊されたというのに、文句一つ言わないのは日常茶飯事だからだろうか。
「現世に追放されてからもこそこそと、色々やっているようだネ」
「まあ、ヒマですから。お久しぶりですー、涅『隊長』」
二人の間に不穏な空気が立ち込める。というよりも、一方的に涅が不快を丸出しにしている。
日番谷は又聞きでしか知らないが、昔十二番隊隊長だった浦原に、涅は見出されたらしい。その分浦原には一日の長がある。
その上、涅が虚圏へ通じる穿界門を創っていれば、一護たちもわざわざここを使うことはなかったのだろう。
涅の不機嫌は、浦原がいまだ自分の上を行っていることに気づいているためか。

「よせよせ、くだらん。とっとと仕事を始めるぞ。時間がないのだろう?」
サバサバした口調で言いながら、夜一が浦原の背後から現れた。
「……仕事?」
「私達もその穿界門をお借りしに来たのですよ、総隊長の命令で」
日番谷の疑問を、卯ノ花が引き取る。そして、地下空間の遠くの方にぽっかりと浮かんでいる、穿界門を指差した。
「隊長格でも問題なく通れるよう、浦原元隊長が門を拡張してくださいました」
そういえば、日番谷と氷輪が真剣勝負を繰り広げている最中、浦原がひょいひょいとやってきては穿界門に何かしていた。
「虚圏へ?」
「ええ」
まるで、ちょっとそこまで、とでも言うようなのんびりした口調だった。
卯ノ花にとっては、本当にそういうつもりなのかもしれないが。


夜一に先導される形で、穿界門の元へと向かう。卯ノ花は微笑んだまま日番谷を見下ろした。
「それと、あなたには瀞霊廷の帰還命令が出ていますよ。隊長格総出で、時間差攻撃をかけるそうです。
時間がなくてすみませんが、あなたの力が必要です、日番谷隊長」
「……分かった」
すこし空けて、日番谷は頷く。休職が赦されたとはいえ、それほど猶予はないと予想はしていた。
二週間と言う時間は思ったより短かったが、今の手ごたえを考えれば、成果は予想以上だ。


穿界門の外からも、中の霊圧は強い者に限られるが、ぼんやりと感じられる。
黒崎一護の霊圧は精神を集中させれば感じ取れるが、少しずつ、少しずつ弱くなっていることは明らかだ。
向かった中で最も強い一護でさえその状態なのだから、他の者が持ちこたえられる時間は、もう残されていないだろう。

「はーい、大丈夫ですよぉ。お一人ずつ入ってってください」
「日番谷隊長」
浦原の言葉に、真っ先に入り口に向かった卯ノ花が、振り返った。
「先へ行きます。次に続くあなた方が動きやすいよう、少々準備をいたしましょう」
どんな準備なんだ、と聞こうとしたが、その目がいつになく危険な輝きを湛えていた気がして、聞くのをやめる。
「武運を」
隊長が隊長を送るのに、特別な儀式など必要ない。
「武運なんて必要ねぇよ。祭りを楽しむまでだ」
ニヤリ、と更木が笑う。そして見守る日番谷たちの目の前から、次々と虚圏に姿を消した。