コツ……コツ……コツ……
白い大理石の床を規則正しく叩き、近づいてくる足音。
その単調な音だけで、誰がこの部屋に向っているのか分かる。
ドアが礼儀正しいとさえ思える控えめな音でノックされる。
しかし織姫は黙っていた。その指が大事な人たちを傷つけたことを知っているからだ。
それを知りながらもあの男はドアを叩く、まるでそれが決められたルールのように。

「邪魔するよ、織姫ちゃん」
「……」
織姫は、ドアを開けて入ってきた男……スタークを見返したまま、無言だった。すぐに視線をまた、窓の外に逸らす。
「こりゃまた、ひどい傷だな。誰にやられた」
それにも、無言。織姫の顔に残るあざのことを指しているのは、明らかだった。ここに来て着替えさせられた白い服も、あちこちが汚れている。
「治さないのかい? その能力が君にはあるはずだろ」
どんな言葉も暴力も、織姫の心を乱しはしなかった。ただ、水面の上を通り過ぎる風のように、吹きぬけてゆくだけ。

ふぅ、と背後でため息が聞こえ、足音が近づいてきた。
「君がここに来て、2週間。一言も喋らないとはね。口はついてると思ってたけど」
織姫は椅子に座ったまま、微動だにしない。その長身が、目の前に近づいた。
「付け入る隙のない、心を揺らさない様は立派だ。それは……強いからか? それとも、絶望しているからか」
何のためかは分からない。でも破面たちは、織姫がここに来た直後から、あらゆる手段で織姫の心を乱そうとしてきた。
入れ替わり立ち代り脅し、時には逃げられると誘惑し、次の瞬間には殺すぞと怒鳴った。殴られることもあった。
そして、何があっても表情も変えず、声も立てない織姫に愛想を尽かし、去って行った。

織姫自身不思議だ、と思う。
平静なフリをしてるわけじゃない。本当に、気持ちが固まったみたいに動かないのだ。
きっと、現世で一護に別れを告げたその時に、自分の中の大切なものが死んでしまったんだろう、と他人事のように思う。
今では、わずか二週間前は、普通に笑ったり、しゃべったりしていたとは信じられないくらいだった。

それに……
織姫は、スタークにも分からないほどに、かすかに唇を噛んだ。
これが、織姫にできる唯一の戦い方なのだ。
織姫は強くない。それは自分自身が一番よく分かっていた。
しかし、絶望に身を任せるほど弱くもなかった。
ただ、覚悟を決めているだけだ。

スタークは、ガシガシと後頭部を掻いた。不思議なひとだ、と思う。こんな場所で、こんな出会い方をしなければ、普通に話せたかもしれないと思うほどに。
「残念だな、お嬢さん」
身をかがめて、スタークは織姫を見つめてきた。
「こんな風に出会わなければ、きっと普通に話していただろうな、俺達は」
え、と織姫は思わず顔を上げる。心を読まれたのかと思った。見上げた先で、スタークの唇が動いた。
「でも、もう遅い」

「どいてくれないか、スターク。井上織姫に話があるんだ」

織姫達以外誰もいないはずの空間に響き渡ったのは、穏やかな、とさえ言える声だった。その声の方向に目をやった瞬間、ビクリと全身が強張った。
後ろに撫でつけた、茶色い髪。白い肌。そして、瞳と云うよりも深い穴を思わせるような底のない、どこまでも暗い色の瞳。
その深淵に飲み込まれそうになり、織姫は唇を噛み締めた。
「……藍染様。来られましたか」
スタークが身を避け、藍染に道を空ける。織姫は一度、瞳を閉じる。深く深呼吸した。

「……見事な精神力だね、井上織姫。この私を前にしても全く揺れない」
スィ、と指が伸ばされ、織姫の顎を捕まえる。藍染の暗い瞳の中に、織姫が映っている。
「何をされても、従わない。しかし相手を傷つけることもしない。それが力のない君ができる、唯一の戦い……と、いうところかな?」
心に突き刺さるような、感情のない瞳。織姫はわずかに目を細めると、視線を藍染から逸らした。

「そうか、困ったな。君がこちらに意識を向けない限り、私の力は使えないのだがね」
全然困っていなさそうな声だった。織姫は、藍染が腰に帯びた刀にチラリと目をやる。この刀の力を、織姫は知らない。
死神達も、この刀の力を使わせることなく負けてしまったからだ。
ただ織姫は、「鏡花水月」という名前だということだけ、浮竹から聞いて知っていた。鏡花水月……目に見えながら、手に触れることができないものの例えだ。
「しかたないな」
笑みを含んだ言葉が口から漏れた。

「黒崎一護達が、君を助けにここへ来た。そう言っても無視するのかい? 君は」
「!」
織姫は、気づいた時には振り返り、藍染を正面から見返していた。藍染の口角が、わずかに持ち上がっている。

織姫の脳裏に浮かんだのは、最後に見た……倒れ伏した一護達の姿だった。
命を賭けてまで、織姫を虚圏に行かせまいとしたのに結局、自分の意思で織姫は破面に従った。
怒っているだろう、と思っていた。
裏切ったのか、と疑われても仕方ないと思っていた。
だからもう、オシマイなんだと。元には戻れないんだと思っていた。
―― 帰れるの……?
あの日常に、また帰れるの?
ぐらりと揺れた織姫を、藍染の視線が見下ろしている。
織姫はぎゅっと唇を噛んだ。

「……嘘」
織姫の声に、スタークが振り向いた。
「嘘をつかないでください」
その声は、二週間も黙っていたせいで別人のように掠れていたが、震えはしなかった。
「嘘じゃないさ。黒崎一護はこちらへ向っている。君を救うためにね」
藍染の瞳の中に、はっきりと愉悦が浮かぶ。
「信じないなら……ここに、彼の死体を持ってこさせようか?」
じぃん、と頭の奥が、しびれたように熱くなる。
織姫がにらみつける視線を受けながらも、くるりと藍染が背を向ける。カツ、カツ、と靴音が響き、少しずつ背中が遠くなる。
織姫は気づけば、その後を追うように立ち上がっていた。

「黒崎くんは、殺させないわ」
ぴたり、と藍染の足が止まる。振り返った時、その頬は微笑をたたえていた。
「哀れだな。愛する男のために、自分の身を投げ出す。自己犠牲でしか幸せを感じられぬほど、支配されているのか? 黒崎一護に」
そういえば、そういう女を私も一人は知っている。呟くように、彼は続けた。

織姫は、両手に力をこめる。持っているだけのありったけの力を集めるよう念じる。
「あなたは……何もわかってない」
あなたのものさしでしか、物事を測れていない。織姫はそう思う。
支配するとか、されるとか。犠牲になるとか、ならないとか。
そんなことはどうだっていい。
一護に笑っていて欲しい。それだけで織姫も、どんな時でも笑顔になれた。

ピクリ、と藍染が眉を動かした。
「たった一人で、この私に戦いを挑むと?」

両手を、ゆっくりと前に差し伸べる。藍染が、ゆっくりと歩み寄ってくる。その唇に、今にもあふれ出しそうな狂気が笑みとなって浮かんでいる。
「……鏡花水月」
その言葉とほとんど同時に、織姫は叫んでいた。
「私は拒絶するっ!!」
途端に、ぐにゃり、と空間がおかしな風に歪んだ。平然と立っているスタークを見て、おかしいのは織姫の視界だと気がつく。

あの男は!?
そう思って見た向うに、藍染の姿が見えた。ただし、その左腕がなくなっている……ように見えるのは、目がおかしくなっているからだろうか。
「藍染様っ、その左腕は……」
「ああ。右腕だったら、危なかったかな。刀ごと持っていかれる所だ」
スタークと藍染の声が、遠くに聞こえる。ぐらり、とよろめいたとき、二人のうちのどちらかの腕が、織姫を支えた。

「人というのは、弱いものだ。一人では生きれぬゆえに、他人の命に心を砕く」
藍染の声が、どんどん遠くなる。今意識を失っちゃ、いけない。血が滲むほどに唇を噛んだけれど、何の役にも立たなかった。
「休むがいい、織姫」
最後に聞こえたのは、甘いとすら言える悪魔の声音だった。
「目が覚めたら……そのような苦しみは、もはや君とは無縁になるから」