「……っ!!」
何か、意味の分からない言葉を叫んだらしい。一護は、自分の声で目を覚ました。
悪い夢でうなされるなんて、ガキじゃあるまいし。
―― 黒崎くん。
織姫が笑いかける顔を、夢のどこかで見た気がした。
最後に現世で見た織姫は泣いていたのに、夢の中のアイツは、まるで教室で見かけた時みたいに笑っていた。「黒崎くん、おはよ!」って言う時の、あの笑顔だ。
周りを見回すと、見飽きに見飽きた砂が広がっている。岩陰に入り込んで、敵の気配をうかがっているうちに……寝入ってしまったらしい。
こっちの世界に入り込んで二週間、さすがにいつも臨戦態勢という訳にもにはいかなかった。

一護は、高鳴っている胸を掌で押さえて、落ち着かせた。
ルキアを救出した時は、ただアイツを助けるんだとしか思わなかった。
苦しみとか迷いとか、その間にいらない感情が入り込む隙はなかったのだ。
あの時は、ルキアがどこにいるかも分かっていたし、いつ処刑されるかも知っていた。
逆に言えば、処刑されるまでは必ずルキアは生きているのだと確信を持てた。

しかし今一護が感じているのは、腹の中に毒の入った瓶を抱えていて、いつ破裂するか分からないような……いてもたってもいられない、焦燥。
今回は、なぜ織姫は浚われたのか分からない上、今どうなっているのかも全く不明だ。
あいつは今、一護と同じ空気を吸って、同じ空を見ているんだろうか。
それとも、もうとっくに……?
一護はぶんぶんと頭を振り、虚夜宮を見上げた。

この2週間の間に、随分虚夜宮は近づいてきた。今は圧し掛かってくる壁の圧力を感じるほどの距離だ。あと1時間もすればたどり着けるか。
しかし、ここに来て襲ってくる破面の数も、桁外れに増えていて中々前に進めない。


「もう、少しだ」
自分に言い聞かせるように、呟いた声は掠れていた。二週間、ロクに会話らしい会話をしていない。
ルキアたちとは、ネリエルの急襲を受けて前に進ませてから、姿も見ていない。
いまどこにいるのか、生きているのかも分からないが、考えないことにしていた。
死ぬわけない。一護には、信じることしかできないからだ。

一護は立ち上がると、垂れ下がってきていた木の枝から赤い果物らしきものをむしりとり、無造作に口に入れた。新鮮な果汁が口の中に溢れ、やっと息をつく。
砂と岩ばかりだと思っていたこの虚圏でどうやって生き物が暮らしていけるのか不思議だったが、慣れてくれば、数は少ないがオアシスらしきものがあるのが分かった。
ここもそういう場所のひとつらしく、小さいが池もあれば、生い茂る木々もある。

ここを出たら虚夜宮まで、オアシスどころか視線を遮るものもない。もう後戻りはきかない、ということだ。
上等だ、と思う。二週間というもの、ずっとこの瞬間を待ち望んでいたのだ。
斬魂刀を背中に担いだ時だった。ヒュッ、と空気を鋭く裂く音に、一護は振り返る。まばゆい光芒が目に焼きつく。
虚閃だ、と悟った時には、反射的に体が動いていた。
「いい加減やめろ!」
そういうと同時に、拳で虚閃を叩き落とした。
砂煙がもうもうと上がり、一護は素早く背後に下がると、岩に立てかけていた斬月を取る。

「覚悟っ!」
砂煙の中から現れたのは、十匹足らずの破面だった。初めに刀を突きこんできた破面の手首を払い、膝をみぞおちの辺りに叩き込む。
くぐもった悲鳴を上げて前のめりに倒れた首根っこを掴み、もう一匹の腹に叩きつけた。
「だから、やめとけって。かかってくるだけ無駄だ」
二週間戦い抜いたせいで、破面を見ただけで、どれくらいの強さなのかは分かるようになっていた。
十刃ならいざしらず、普通の破面が何十匹現れても、今は全く負ける気がしなかった。

二体折り重なって倒れた破面に、仲間が駆け寄るのを見て、一護は目を細める。仲間を助けるって気持ちは、死神も破面も、人間も変わらないらしい。
一護としても、殺したいわけではない。刀を引いた一護を見て、破面の一人がためらいがちに口を開いた。
「殺さないのか……俺達を」
「あぁ? なんでそんなことしなきゃいけねぇんだよ」
一護は斬月を担ぎ、虚夜宮を見上げた。
「怪我した奴連れて、帰れよ。藍染のことなんて忘れろ。普通に暮らせ」
普通を失ってしまった自分たちが、それを言うのも皮肉だけれど。
砂に汚れ、ところどころ擦り切れた死覇装が乾いた風に流れる。一歩踏み出した時、
「……大したものね」
穏やかな、とさえ言える女の声に、一護は反射的に身を翻した。

次の瞬間、砲弾のような勢いで飛んできた槍が、一護がいた場所を吹き飛ばした。
「てっめえ、ネリエル! まだ諦めてねぇのかよ!」
砂の中を、ゆったりとした足取りで進んでくる女を見て、怒鳴りつける。その腰から下は、馬に似た四足のままだ。
この砂漠の中じゃ歩きやすいだろうな、とこんな時に不釣合いなことを思う。

翠色の瞳が、一護を見返す。その目には、疲れの色も見えない。
「この2週間で、随分力をあげたようね。もうただの破面が何体かかっても意味がないくらいに」
「そりゃドーモ」
一護は斬月を構え、足場の悪い砂地を蹴り、岩の上に飛び移った。そして、ネリエルと対峙する。

「てめぇ、どういうつもりだ。本気で俺を殺す気あんのか?」
一護の問いに、ネリエルはスッと瞳を細める。そうだとも、違うとも言わないままに。
特に初期の頃には、この女には一護を殺すチャンスがいくらでもあったと思う。しかし、そうはしなかった。
こいつにも情があるからだ、と思うほど純粋にはなれない。何か目的があるんだ、と思うほうが自然だった。

「……私達は、死神の力を過小評価はしないわ」
「どういうことだ!」
「例えば。貴方達がたった5人で虚圏に侵入したことに意味はあるのか、とか。まさか、何の意味もなしに飛び込んできたとは思えないわ」
「……」
そのまさかだよ。一護は思わず言おうとしたが、正直すぎる言葉を飲み込んだ。
いや、待て。と思う。
一護達は闇雲に突入したつもりでも、背後にいる死神はそうじゃないかもしれない。
更に言えば、一護達だけで乗り込むと見越しながら、敢えて泳がせているのかもしれない。
死神達の、別の作戦のために。

一護は、バリバリと後頭部を掻きながら、ネリエルと向き合った。
「俺にそれを聞くのはお門違いってもんだ」
「……そのようね」
どういう意味だ。ムッとして見返した時だった。

「っ、放せ!」
鋭い女の声が響き渡り、一護は反射的に顔を上げた。
「ルキアっ、ルキアか! どこだ!」
空にせり出して見える、巨大な岩の上に人影が現れる。背後から日光が差し込んでいるため見えにくいが、その着物のような輪郭から死神だ、と思うと同時に、
「うっ!」
何者かに突き飛ばされ、その華奢な人影が、一護に向って落ちてきた。

「っ、ルキア!」
その黒髪、白い肌が視界に入ると同時に、受け止めていた。思いがけないほど軽い体が、すっぽりと一護の腕に収まる。
「一護、か……」
その頬は土に汚れ、ところどころ血が滲んでいる。でも、消耗してはいるが命に関わるほどじゃない。ほっとしてその体を地面に下ろそうとしたとき、
「どけどけぇ!」
「邪魔だ、黒崎!!」
「……ウム」
聞き間違えようもない声が、聞きたくもないタイミングで耳に飛び込む。
「っ、うおぉ!?」
とっさにルキアを抱えなおし、その場から飛びのいた。ちょうどそこに、恋次、石田、チャドがなだれ込むように落ちる。

「てめぇ、ルキアと俺達で扱い違いすぎンだろ!」
「受け止めて欲しかったのか?」
「断る。死んでもゴメンだね」
「はっきり言われるとムカつくな」
「……ウム」
「じゃれあっておる場合か!」
ルキアが大声を出し、一護達は一様に首をすくめて、黙った。

ひょう、と風音を残し、ネリエルが上空へと舞い上がる。蹄の音と共に岩の上に降り立った。
その時になってやっと一護達は、自分達の周囲の岩上に、異形の者たちが立ちはだかっているのを見た。
「……囲まれておるぞ」