遥か昔の記憶が、頭をよぎっていく。
―― 「おーい、これでいいんじゃねぇの? ばあちゃんが言ってた、花」
日番谷は、道端に咲いていた花を見下ろし、雛森を呼んだ。

そう、確かあの時、小さな花瓶に差す花を探してきてくれと祖母に言われて、花を探していたんだった。
流魂街の住人に花を買う余裕なんてあるはずがなく、道端に咲いている雑草の花を雛森と一緒に、探していたのだ。

―― 「見つけた? でかした、シロちゃん!」
駆けてきた雛森が、日番谷の隣に走りこむように座り込む。その勢いで肩と肩がぶつかり、日番谷は眉間に皺を寄せた。
―― 「シロちゃんて言うな」
―― 「じゃ、なんて呼んで欲しいのよ」
―― 「俺には、日番谷冬獅郎ってちゃんとした名前があるんだよ。それで呼べ」
―― 「えー、言いにくいよ。毎日、何十回も呼ぶのに。簡単な方がいいじゃない」
雛森はあっさりと却下すると、ふくれっ面をした日番谷を押しのけるように、花を覗き込む。
とたんに、わぁかわいい、と声を上げた。

それは、たんぽぽの花だった。黄色や白の花弁が、風にゆらゆらと揺れている。
見下ろしていた雛森が、不意に表情を翳らせた。
―― 「なんだよ?」
―― 「なんか、かわいそうじゃない? あたし、たんぽぽの花大好きなのに……摘んじゃうなんて。死んじゃうんだよ?」
―― 「なにメルヘンなこと言ってんだ」
日番谷はうんざりした顔で言ったが、雛森の表情は変わらない。
―― 「ばあちゃんは花とってこいっつったろ。じゃあ、あっち向いてろよ。俺が摘むから」
―― 「う……うん」
雛森がためらいがちにそっぽを向いたのを確認して、日番谷は花に手を伸ばす。
むしりとろうとした時、いきなり雛森が振り返り、飛びついてきた。
―― 「なっ、なんだ??」
―― 「ダメ! やっぱりダメー!!」

何も持たずに帰り、祖母が残念そうな顔をしたこと。でも事情を聞いて、軽く雛森の頭をなでた事。
その後も、花瓶に花が生けられることは、一度もなかったこと。

そんな遠い日の記憶には、もう二度と戻られない蓋が閉められた。
日番谷が、藍染に貫かれて眠る雛森の病床に立ったその時に。


***


一番隊の庭先に、雛森の姿を見つけるのはたやすかった。
二人とも霊圧は消していなかったから、日番谷が近づく気配に雛森も気づいていたはずだ。
むしろそれを待っていたかのように雛森は立ち止まり、歩み寄ってくる日番谷を見つめていた。

漆黒の瞳とぶつかった瞬間、ドキリ、とした。
いままで、雛森に感じたことがない感情だった。
―― 雛森副隊長とは、距離を開けるべきだ。
何人もの人間に言われた言葉が、次々と頭の中に響く。

どんな危険にさいなまれても。周りを苦しめることになっても。
それでも、俺はこの女を護りたいのか?
初めて、日番谷はそれを自分に問うた。



「……強くなったね、日番谷くん。目を見たら分かるよ」
雛森はすこし微笑んでそう言うと、ふらりと背中を向けて、庭を歩き出す。
すぐに地面の一箇所に目を止め、袴の裾を足の間に挟んで、しゃがみこんだ。
「……どうした?」
「たんぽぽが咲いてる」
後ろから覗き込むと、雛森は地面から五センチくらい茎を伸ばした、たんぽぽの花を見下ろしていた。
可憐な黄色が、春の風にゆらゆらと揺れている。昨日雨が降ったせいか水が溜まり、少し重そうに頭を垂れていた。
「……大好きな花なの」
「知ってる」
雛森の視線は、たんぽぽに向けられている。

「藍染隊長がね。好きって言ってたから。君に似合う花だって」
藍染「隊長」。その名が雛森の口から出たことで、胸がぎりりと痛む。
雛森が花弁に手を伸ばすのを、言葉をなくして見下ろすことしかできなかった。
雛森の華奢な指先に力がこもり、花が怯えるかのように、震える。
「あの言葉も。嘘だったっていうの……?」
花弁を握りつぶしそうに、その掌が花を覆い隠した。

「雛森……」
喉が詰まってしまったかのように、声が出なかった。
すぐ手を伸ばせる位置にあるはずの肩が、とても遠い。
雛森の両肩に、小刻みに震えるほどに力がこもっているのが分かった。

「……っ」
思いつめたような吐息が漏れ、右手がたんぽぽから離れた。その手を、ぎゅっと強く握り締める。
向かい合わせに日番谷が片膝を立ててしゃがみこむ。こうすると、二人の視線はほぼ平行になる。
日番谷は、左手に持っていた氷輪丸の柄尻の部分で、軽くたんぽぽの花弁に触れた。
可憐な黄色が震え、溜まっていた水がしずくとなって零れ落ちる。
重さを失って、しゃんと上を向いたその花を見て、雛森は微笑んだ。
「……思い出したわ。日番谷くんと、花を採りにいったこと」
「遅ぇよ」
「ねぇ……あの頃に、戻りたいね? 日番谷くん」
不意に、雛森がそう言った。
頷くことも、首を振ることもできず、日番谷は花に視線を落としたままでいた。

戻れるものなら、戻りたいと思ったこともあった。流魂街で過ごしていたあの頃に。
でも、同じように粗末な服を着て、同じように流魂街に戻り、あの家で三人で暮らしたとしても、
もうあんな風に笑いあうことはできない。決して、できないのだ。
藍染。
かつて日番谷自身も心を許した男のことを、思い出す。
その瞬間日番谷は、生まれて初めて誰かを殺したいと願った。


「……毎晩、毎晩。藍染隊長の夢を見るの」
雛森は小さな声で、そう言った。
「優しく笑って、こっちに来なさいって呼んでくれるの。行きますって、声を上げて。
行こうとするんだけど、日番谷くんの声がする。行くなって。あたしはいつも、真ん中に立ったまま動けなくなる」
「藍染と一緒になんて、行くな」
「そう、同じ声」
ふっ、と雛森は微笑んで、幼馴染を見下ろした。

「お願いよ、日番谷くん」
顔をあげてきた雛森の瞳が、驚くほど近い。いっぱいに溜まった涙が、黒曜石のように黒いその瞳を輝かせている。
「藍染隊長を、ここに連れ戻して。絶対に、あんな人じゃないの。あたしの、大切な人なの。助けてあげて……」
「それは……」
「できないなら。どうか、あたしを行かせて」
日番谷は思わず、右手の掌で顔を覆った。自分がその瞬間どんな顔をしていたのか、自分でも分からなかった。
頼む、雛森。
お前の中には、まだ強さが残っているはずだ。
ドス黒い感情に身を支配されながらも、ささやかに咲く花ひとつ傷つけることができない。
藍染が全て支配したつもりで、支配しきれなかった雛森の心を、俺はそんなところに見るんだ。

日番谷は覚悟を決めて、雛森の瞳をまっすぐに見返した。
「それはできねぇ」
雛森の瞳が、こぼれるように見開かれた。


「藍染は惑わされてなんかいない。自分の意思でソウル・ソサエティを裏切り、滅ぼそうとしてるんだ。
俺は死神として、あいつを止めるために戦う。それが隊長を背負った、俺の責任だ」
返してきた雛森の声は、はっきりと分かるほどに震えていた。
「殺す……の? 藍染隊長を」
「その覚悟だ」
「そんな……」
雛森が身を起こし、少し離れる。まるで、初めて見る他人に向けるような目で、日番谷を見た。

日番谷は、やるせない思いで雛森を見返した。
自分だったら、そんなことは言わないと、本当にそう思っていたんだろうか。
藍染の心を入れ替えてみせると、返せると思っていたんだろうか。
でも、誰かの心を変えることなんて、誰にもできないんだ。
俺が、雛森の心を変えられないのと同じように。


「いやだ。いやだよ……藍染隊長がいなくなったら、あたし生きていけないよ!」
吐き出すように叫んだ雛森の右手を、日番谷が取る。
きつく握り締めたままだった指をゆっくりと開かせると、掌に爪が食い込んだせいで、血が流れていた。
体を支配する激情に、掌も小刻みに震えている。
「いた……」
雛森が顔をしかめ、立ち上がろうとした。しかし日番谷は片膝をついたままその手を逆に引いた。
中腰の体制のまま動きをとめた雛森が、日番谷を見下ろす。

「俺がいる」
「もう戻れないよ……昔みたいには、」
「俺はもう、昔に戻りたいなんて思ってない」
春の陽だまりの中で微笑む雛森を、どこかまぶしく見上げていた幼い日。
先へ、先へ行こうとする彼女に、手を引かれていたあの頃。

でも陽だまりは今、翳ってしまった。
それならこれからは、自分が手を引こうと思う。
再び彼女を、日の当たる場所に連れ出すために。
「絶対に、俺がお前を護ってみせるから。俺のそばにいろ」
血に染まった指先に、唇を寄せる。雛森の全身が目に見えて緊張した。

「あ、あたし……は」
雛森の全身の震えが、止まった。口を開こうとして、ためらう。
沈黙が落ちた、その瞬間だった。

「だ、誰?」
雛森が声を上げる。かすかな音を、日番谷も一瞬遅れて捉えた。はじけるように、同時に視線をそちらへ向ける。
「う……浮竹! あんたいつから、そこに……」
庭の門の影に、白い長髪が覗いていた。気まずそうに、浮竹が顔を出す。
「あっ、いやっ、ついさっきだよ、ついさっき! 何も見てないし、聞いてないって!」
「……」
日番谷はそっと、雛森から手を離す。雛森が腕まで赤くなっているのが視界の隅に見えた。


***


「……」
「日番谷隊長、本当に申し訳なかった! 時間がないって総隊長が言うもんだから、ちょっと様子を見に来たつもりだったんだけど……
まさか、告白タイムだなんて。出て行くタイミングを失っちゃってね」
「あれは、そういうのじゃねぇ!!」
「じゃ、どういうの?」
「どうって……」
聞かれて日番谷は思わず、口ごもる。

血の繋がった家族を持たない自分には、家族愛などというものは分からない。
友情にも縁があったわけじゃない。
男女間の愛情も理解の外だ。
名づけることができない、雛森という人間にしか感じない感情だった。
敢えて、名づける必要もないのだろう。
黙っている日番谷を見て、気分を害していると思ったらしい。浮竹は拝むように手を合わせた。
「とにかく、すまん! 本当に、申し訳ない!」
「……もういい」
ため息をつき、日番谷が廊下を歩く。
あの後、会話を続けるどころではなく、曖昧に雛森とは別れてきたのだ。


「……あれで、良かったとは思えないけどな」
藍染を殺す。そう言った時の雛森の表情を思い出していた。
「君は、間違ってないよ」
浮竹はすぐに、そう返した。
「誰かが、雛森副隊長にそれを言わなきゃいけなかったんだ。そして、それができるのは君しかいなかった。だから君は間違ってない」
二度も同じセリフを言わせるとは、よほど沈んで見えているのだろうか。

日番谷が頷くと、浮竹は若干、いつもの調子に戻って言った。
「日にちぐすりって言葉を知ってるかい? この薬に勝る治療は、そうそうないんだ」
「……あんたが言うと、妙に説得力があるな」
「そうだろ? 時が癒してくれる、っていうことさ。時間が必要なだけなんだ、彼女には」
「でも、時間はねぇ」
そう返して浮竹を見上げる。
時間は、ない。
雛森が立ち直るのを、藍染が待つはずがないのだから。

「確かに戦局は進むだろうけど、それに雛森副隊長が合わせる必要なんてないさ。
瀞霊廷には仲間の死神がいっぱいいる。傷が癒されるまで、ゆっくり休めばいいんだ」
「……」
「それができるように、藍染達を虚圏で食い止めるのが君の仕事だ、そうだろ?もちろん俺達だって一緒に戦うよ。だから、大丈夫だ。全てうまくいくさ」
……こいつは、いい男だな。日番谷はふと、そう思う。
なんで今まで、あれほど長い時間同僚として一緒にいて、それに気づかなかっただろう。
「……そうだな」
しばらくの沈黙の後、頷いた。
「その通りだ」


さっきの部屋に戻ると、穿界門は既に開いていた。京楽が、二人を振り返る。
「考えてたんだけどさ。僕ら、ずっと負け通しだよね、藍染君には。瀞霊廷を引っ掻き回され、思う様に騙されてさ。今も、織姫ちゃんをさらわれてるし」
ギラリ、と総隊長が京楽を睨む。確かに、よりによって今そんなことを言わなくてもいいだろう。
京楽は睨まれても堪える様子もなく、ニヤッと笑った。
「負け戦は、この辺で終わらせたいねぇ」
「当たり前だ」
そう返して、スッと穿界門に歩み寄る。ためらわず、足を進めた。
「ひっくり返すぞ、戦局を」