冬は、全てのものたちの上にそっと指を落とし、かすかな音を残してゆくかのようだった。道路を滑ってゆく枯葉、足元で砕ける霜柱、耳元を一瞬通り抜けて行く木枯し。そんな小さな囁きに耳を澄ませるのが、真由子は好きだった。
信号が青に変わり、真由子は横断歩道に足を踏み出した。アンティークな風合いの、ダークブラウンのブーツ。ヒールがアスファルトに当たり、カツンと乾いた音を立てる。黒い膝丈のコートからは、穏やかなピンク色をベースにしたワンピースの裾が、ひらひらと覗いた。首に巻きつけたグレイのストールを、歩きながら華奢な指が巻きなおす。ほぅ、と白い息が周囲に散った。彼女の横を通り過ぎたくたびれたスーツを着た男性が、彼女の顔を見て小さくハッ、と息を飲む。そして少しだけ、視線を留める。その男性だけではない、すれ違う女子高生も、子供も、真由子を見ると少しだけ、驚いたような顔をした。
「ねぇ、キミ。一人?」
横断歩道を渡りきったところで、店のショーウィンドウを覗き込んでいた真由子の後ろから、2人組の男が声をかけた。2人とも細身のジーンズを履き、パーマを当てた茶髪の男は黒いコートを、立てた黒髪の男は皮製のジャケットを羽織っている。化粧のひとつくらいしていそうな、見るからに大学生風の男達だった。
「なぁに?」
真由子は、くるりと振り返った。ストレートの栗色の髪が肩で揺れる。
「あたしに何か用ですか?」
自分を凝視してくる見知らぬ男2人を見ても、まったく警戒心すら見せない。少しだけ開かれた唇が閉じられ、口角が上がる。笑窪が木枯しのせいでピンク色に染まっているのがあどけなかった。弓形の瞳が、2人に微笑みかけた。
「あ……いや、用ってほどじゃ、ないけどさ」
まるでこの少女の周りだけ時がゆっくり流れるかのようだ。ナンパには慣れている2人の男たちを、ドキリとさせるほどに。
「……やべ、マジでタイプかもしんねー」
「取んなよ。先に声かけたの俺だ」
真由子に聞こえない小声で、茶髪と黒髪の男は同時に囁き交わす。
「あ……あのさ。チョコ見てたの?」
うん、と真由子は顎を引いた。そして、2人に見えるように、ショーウィンドウから少し体を離す。そこには、ハート型や丸型、模様もさまざまなチョコレートが、アクセサリーのような箱に入れられて並んでいた。
「彼氏に上げるの?」
「ううん。家族用」
「ひょっとして、彼氏いないの? そんなカワイイのに?」
勢いづいて前に踏み出してきた黒髪の男に、真由子は驚いたのか肩を軽く跳ね上げた。ダーク・ブラウンの瞳が、見開かれる。
「あははっ、ありがとう」
コロコロと転がすような軽い笑声が喉から漏れた。そして、その軽さそのままに、ヒールを返して背中を向ける。
「じゃあね? あたし行くね」
「え? ちょっと待……」
これほどランクの高い女の子は、そうそういるもんじゃない。そう思った男達は、慌てて手を伸ばす。そのストールの裾に、手が届きそうになった時だった。ヒュゥッ、とひときわ強い木枯しが、通りを吹きぬけた。
「きゃっ?」
真由子も足を止め、身をすくめる。ストールが風にあおられ、見る見る間に真由子の肩を離れて宙を舞った。
まるで生き物のように空中で形を変えたストールは、音も無くそこに立っていた長身の男の手の中に、吸い込まれた。
「……え」
真由子は、目を見開いた。こんな人が立っていたのを、どうして今まで気づかなかったんだろう、と思った。年齢は自分と同じくらい、16歳くらいに見える。ただ、逆立ったその髪は、見事な銀髪だった。そして、藍色に近い深い青色をした瞳。透き通りそうな白い肌。どこからどう見ても、日本人じゃない。びっくりするほどすらりと長いジーンズの足、そして皮のジャケットを無造作に羽織っていた。
とにかく、目出つ。50メートルくらい離れていても、目を惹きそうな外見だ。
「オイ」
ストールに視線を落としたその青年の眉間に、深い皺が寄った。そして、真由子と同じように青年を凝視していた男を、睨むように見下ろす。
「人の襟巻を盗ろうとすんな」
えっ? という表情を、男2人は作った。
「いや、別に盗もうとしたんじゃなくて……ていうか襟巻て、何」
そこの子をナンパしようとしたんです、などとはさすがに言いにくいのか、言いよどむ。明らかにズレた会話。双方を順番に見た真由子の頬に、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「お待たせ!」
会話が途切れた瞬間に、明るい声を上げる。そして、たたっ、と小走りに銀髪の青年のところへ走り寄った。そして、その腕に両腕を絡ませる。
「お願い」
眉を顰めた青年を見上げ、小声で呟く。
「な……ンだ、彼氏持ちかよ」
ま、そうだよなあ、とため息混じりに男達は頷くと、あっさり諦めたように背中を向ける。相手が普通ならいざ知らず、どこからどうみても日本人離れし、どこかズレてもいるらしい麗人と張り合う気にはならなかったのだろう。
その背中が人ごみに消えたとき、真由子はもう一度、青年の無表情を見上げた。
「ありがとう、合わせてくれて」
「……何もしてねーよ」
外見から想像するとおり、テノールの落ち着いた声だった。真由子を振り払いもしないかわりに、動揺した風にも全く見えない。真由子は、そっと青年から離れた。
「ううん、それで良かったの。あたしは、響真由子。よろしくね?」
相手に問いかけるように語尾を上げる、独特のリズムを持った口調で、真由子はニコリと笑った。
「……日番谷冬獅郎だ」
青年は、そう名乗った。
真由子は、無言で1メートルほど離れて、冬獅郎をじーっと上から下まで眺めた。そこまであからさまに見られると、無視するわけにもいかない。冬獅郎も無言で真由子を見返した。
「……モデルさん? 芸能人?」
表情に乏しいせいもあるが、彫刻のように整った顔立ちとスタイルである。しかし、冬獅郎は首を振った。
「スポーツ選手、とか」
華奢に見えるが、肩幅は広く、腕だって決して細くは無い。だが冬獅郎はそれにも首を振る。
「……一人でしょ」
「え? ……ああ」
あまりにもこれまでの二つと色の違う質問に、冬獅郎は拍子抜けした表情を浮かべながらも、頷いた。ひとつでも分かったら安心した、とでもいうように、真由子はぱぁっと笑みを浮かべる。
「素敵!」
「何が?」
「ねぇ、一緒に歩いてもいい?」
「はぁ?」
今度こそ、冬獅郎は思い切り怪訝そうに眉を顰めた。
「……お前。もう少し警戒心ってのを持ったほうがいいぞ? 俺が安全な奴とは限らないだろ」
初めてまともに発した言葉は、愛想などとは程遠いものだった。しかし、真由子はひるむどころか、さらに顔一杯に笑みを広げる。
「絶対に、いいひとだよ。ストール拾ってくれるし、あたしに合わせてくれたし。あたし、きっと冬獅郎くんのこと好きになると思うな」
「あのなぁ」
冬獅郎の眉が少しだけ下がった。ひらり、と真由子は踵を返す。そして、さっきまで一人でしていたのと同じように、チョコの並ぶショーウィンドウを覗き込んで歓声を上げた。冬獅郎はため息をついたが、ゆったりとした大股で真由子の後を追う。それを目の端に捉えた真由子はまた、楽しそうな笑みをこぼした。
「……なんでこんなにデカデカとチョコレートばっかり飾ってあるんだか」
「だってもう2月だよ? バレンタインデー近いし」
「ばれんたいん……って、何だ?」
えっ、という音を真由子の唇が形作る。
「バレンタイン、知らないの?」
「……まずいのか? それ」
「まずくないけど」
くしゃりと真由子が表情を崩す。
「ちょっとビックリしただけ。……分かった。冬獅郎くんって、名前は日本人だけど、育ちは違うでしょ。遠くのほうから来たとか」
「遠くか」
冬獅郎は、その言葉につられるように、建ち並ぶビルの向こうに視線を投げる。そして、頷いた。
「まぁ、そうだな」
「やっぱり!」
ぱん、と真由子は両手を鳴らした。
「バレンタインっていうのはね、2月14日。女の子が、好きな男の子にチョコレートを送って、気持ちを伝える日なんだよ」
「……わからねぇな。伝えたきゃいつでもどこでも伝えりゃいいだろ」
無造作に言い放たれた言葉に、真由子は一瞬、表情をすべり落とした。
「……俺、また変なこと言ったか?」
「ううん。その通りだなって思っただけ」
どこか心配そうに問うた冬獅郎に、手をひらひらと振って見せた。そして、ズイ、と身を冬獅郎のほうに乗り出してきた。
「冬獅郎くんって、好きな人いるの?」
「ああ?」
またも盛大に眉間に皺を寄せた瞬間、ちょん、と華奢な指先が冬獅郎の眉間を突いた。とっさに首を引いて見下ろすと、はんなりとした笑顔を向ける真由子の顔が、目の前にあった。
「そんなに眉間にシワ寄せたら、もったいないよ? カッコいいのに」
もう一度、冬獅郎がため息をつきかけた、その刹那。冬獅郎が機敏な動きで、顔を上げた。
「?」
つられて真由子も、さっき自分が渡ってきた交差点を見やる。そして、すぐに異変に気づいた。
「なっ、なんだ、この風?」
狼狽した声と悲鳴が、交差点を一気に混乱に陥れた。初めは、それはただの旋風に見えた。しかしそれはあっという間に、巨大な台風のような突風に成長し、一直線に通りを横切り、冬獅郎たちの方へと向かってきた。
「きゃああっ!」
真由子が悲鳴を上げると同時に、ショーウィンドウにつっこんだ竜巻は、あっという間にガラスを粉々に吹き散らした。すさまじい音と共に、ガラスが通りに降り注ぐ。とっさに動けず立ちすくんだ真由子の肩に、大きな掌が乗せられた。なに、と思うまもなく、引き寄せられる。皮のジャケットが頬に触れて初めて、真由子は自分が冬獅郎の懐にいるのに気づいた。冬獅郎は、突風から真由子を庇うように立つと、風に向き直った。真由子が見上げたその横顔は、全くさっきまでと変わらない無表情だ。その唇が、真由子には読み取れない声を発した。
―― 何って言ったの?
もちろん、それは偶然だと思う。しかし、次の瞬間、風は吹き消された炎のように立ち消えた。
「なんだったんだ、一体……」
頭を腕で庇い、地面に座り込むことしかできなかった通行人達が、次々と立ち上がり、無残に砕け散ったガラスに顔色を変えた。
「……大丈夫か」
冬獅郎の穏やかに落ち着いた声に、真由子は顔を上げて、頷く。2人の視線が、至近距離でぶつかったとき、冬獅郎はなぜか、少し哀しそうな顔をした。その胸に頬をくっつけるようにして、真由子が冬獅郎を見上げる。
「……ねぇ。チョコ、冬獅郎くんにあげてもいいかな?」
「は?」
「好きになっちゃった」
「意味わかんねぇ……」
勘弁してくれ。そう言いたそうに、冬獅郎は不機嫌そうに視線を逸らす。
「だって! さっき、伝えたきゃいつでもどこでも伝えりゃいいって言ったじゃない!」
冬獅郎の口真似をしながら、眉間にシワを寄せてみせる。
「いきなりすぎだろ! さっき会ったばっかりの奴に何言ってんだ」
「今を逃したら、明日会えるかなんて分からないでしょ?」
「そりゃそうだが」
冬獅郎が言葉を濁したとき、2人は同時にジャケットの胸ポケットを見やった。
「……電話?」
「そうみたいだ」
胸ポケットから、冬獅郎は震え続ける電話を引っ張り出した。
「悪いが、急いでるんだ。もう行くぜ」
スッと真由子から離れると、あっけなく背中を返した。
「あ! あたし、明日もここに来るから!」
その背中に、真由子は慌てて声をかけるが、全く聞こえないようにビルの角を曲がってしまう。
「ねぇ」
その後を追って角を曲がったとき、真由子はその場に立ち竦んだ。
「あれ? ……あれ?」
つい数秒前、冬獅郎が曲がっていったのは確かなのに。その長身は、もうどこにも見当たらなかった。
ビルの谷間から吹き上げる木枯しに、煽られた銀髪が鈍く輝いた。冬獅郎は、50階はあるビルの屋上の端に一人、佇んでいた。そのつま先は宙に浮き、足の下では蟻ほどのサイズの人々が行きかっているのが見える。冬獅郎の視力は、ちょうど真下で、きょろきょろとあたりを見回している栗色の髪の少女を捕らえていた。ふぅ、とため息をつくと、鳴り続けている電話を耳に当てた。
「松本か。どうした?」
「今、風を操る虚が出ませんでした? 何度か連絡してたんですが、間に合いませんでしたか」
「あぁ、今まさに出くわしてた。それより」
冬獅郎は、諦めたように地上で足を止めたままの真由子を見下ろす。
「それより例の、響真由子って女に会った」
「どうでした? 彼女」
「アタリだな」
冬獅郎が返すと同時に、乱菊が小さく嘆息を漏らす。
「虚は、明らかに響真由子を狙ってた。近づくと、かすかに藍染の霊圧を感じる。間違いねぇ、あの女は藍染の『カケラ』の『保有者(キャリア)』だ」
「……『保有者(キャリア)』、か。藍染が滅びて七十年にもなるのに、とんだ置き土産ですね。これで何人目です?」
「35人目」
「まぁ、放っておくわけにはいかないですね」
電話の向こうの乱菊の声が、険しくなる。
「で、彼女はそのことを……『覚醒者』にはなってないワケですよね」
「あぁ、自覚は全くねぇ、『保有者(キャリア)』止まりだ。まあ、不幸中の幸いだな」
会っていた最中、ずっと微笑を絶やさなかった真由子の表情を思い出した。あれだけいろんな種類の笑顔を見せる人間を初めて見たと思う。微笑んだり、イタズラっぽい表情を浮かべたり、噴出したり、声を上げて笑ったり。幸せなんだろうと、パッと見ても分かる雰囲気は、自然と周りの人間を引き寄せる。その魅力は死神でも判るくらいに。
「……虚は、絶対にまたあの女を狙ってくる。片してから瀞霊廷に戻る」
「……珍しいですね? 隊長が人間を心配するなんて」
乱菊の声が、少しからかうような声音を帯びる。
「写真見ましたよ。めちゃくちゃかわいい子じゃないですか。一目惚れしちゃだめですよ?」
一目惚れ。その言葉は、さっきの真由子の言葉を思い起こさせた。「好きになっちゃった」とうアレも、ほぼ一目惚れ状態ではないだろうか。冬獅郎は意識的にため息をついた。
「あのなぁ。死神が、人間に惚れるかよ。人間がサルに惚れるくらいありえねぇ」
「なんですか、その例え」
ぷっ、と乱菊が噴出した。返そうとした冬獅郎は、不意に顔を上げた。その視線は、少しずつ近づいてくる虚の気配に、にわかに鋭さを増した。
「種類が違うってことだよ」
切るぞ、と短く言うと、乱菊の返事を待たず受話器を切った。
ふぅ、と息をついた冬獅郎が、ジャケットに包まれた腕を中空に振り上げたように見えた。次の瞬間、ばさ、と黒い袖が翻る。一瞬のうちにその姿は、漆黒の着物……死覇装に変わっていた。その切れ長の翡翠の瞳も、人間の姿よりも凄みのある光を宿している。死覇装の上には、背中に「十」と刻まれた羽織をまとい、腰には一本の長刀を帯びていた。その刀「氷輪丸」の柄を握り締め、冬獅郎は無造作に、ビルから一歩踏みだし、中空に身を翻した。
その高さは、数十メートル。蟻のようなサイズだった人々が、豆粒になり、顔がはっきり判別できる大きさにぐんぐん近づく。耳元で風が鳴り、着物が風に翻って音を立てた。その中に、風以外の音が混ざりこんだのは、一瞬。同時に、冬獅郎は一気に刀を引き抜いた。
「死神が!!」
叩きつけられた声。それと同時に、白光りのする爪が、冬獅郎の頭に向けて振り下ろされた。冬獅郎はすかさず刀を爪に叩きつける。
金属がぶつかったとしか思えない高い音と共に、火花が散る。堅い感触と共に、刀と爪が両方逆方向に弾き飛ばされた。
たん、と軽い音を立て、冬獅郎が傍にあったビルの壁に足をついた。そのまま、壁面と垂直に立つと、中空に浮いた虚と視線を合わせた。そして、真下に行きかう人々にも注意を凝らす。このまま戦っても、二対の姿が普通の人に見えることはないが、攻撃が当たればタダではすまないからだ。
その虚の外見は、蜘蛛によく似ていた。体長は3メートルほどで、毛むくじゃらで長い十本の足がそのほとんどを占めている。爪先は、刃のように研ぎ澄まされていた。凶器そのものの足に護られるように、頭の部分には人間そっくりの顔がついていて、冬獅郎を睨み付けている。
「狙いは、『カケラ』か」
冬獅郎が落ち着いた声で問うと、虚はニヤリと笑みを浮かべる。
「当然だろう。七十年前、藍染様が死の間際に飛び散らせた、無数の霊圧の『カケラ』。それを手に入れれば、ヴァストローデ級の力を手に入れられるらしいじゃねえか」
予想したとおりの答えだった。冬獅郎は、返事の代わりにその視線を険しくする。
「せっかく見つけた『保有者(キャリア)』……しかも自分の力に気づいてねぇとは好都合だ。奪わせてもらうぞ」
「そうはさせねぇ」
冬獅郎は、ギラリと輝く刀の切っ先を、虚へと向けた。
「俺が破面になるのが怖ぇのかよ」
「そうじゃねえ」
理由を、口にすることは無いけれど。冬獅郎は、花開くときを思わせるような、少女の柔らかな笑みを思い浮かべた。あの少女は、自分がそんな恐るべき力を宿しているとは知らず、幸せに生きている。殺し殺されるこんな世界に、巻き込みたくはなかった。
その体全体から放たれた霊圧の強さに、虚が一歩、退いた。
「……貴様は、誰だ」
「知らなかったのか? 虚」
冬獅郎の瞳が、スッと細くなる。
「『カケラ』の回収を担う死神はたった一人。そろそろ虚圏でも名前が知られてきたと聞いたんだが?」
決して失敗は許されぬ。万が一「カケラ」が虚に奪われてしまえば、隊長格の実力をも上回る破面を生み出しかねないからだ。それゆえに自分に託された任務で、過ちを犯すわけには行かない。
「……日番谷冬獅郎か!」
虚の瞳が、恐怖と憎悪に歪む。次の瞬間、冬獅郎の姿が、ふっとビルの壁から立ち消えた。虚が爪を構えようとした時には、その懐に飛び込んでいた。
「貴様ッ……!」
「ついでにコレも知っとくべきだったな」
白銀のきらめきが、宙を奔った。それを視界の端に捉えたと思った時には、虚の胴体は真っ二つに両断されていた。
「これまで『カケラ』を狙って生きのびた虚はいねえ」
白刃を鞘に納め、冬獅郎はしばし瞑目した。そしてスッと目を開けると、俊敏な動きで身を返す。純白の隊首羽織が、風に翻った。
「開門!」
冬獅郎の凛とした声と共に、瀞霊廷・一番隊の重厚な門が開かれる。
「お帰りなさいませ、日番谷十番隊隊長殿!」
「お疲れ様です!」
「ああ」
短く返事を返し、冬獅郎は敬礼する一番隊員の間を抜け、まっすぐに隊首室へと向かった。
「失礼します。日番谷、帰廷しました」
肩で風を切るように、隊首会が行われているその場に足を踏み入れた。扉が閉まると同時に起こった風が、その場に佇む十人の隊長の隊首羽織を翻らせる。
「戻ったか。任務ご苦労であった」
隊長たちの前に設えられた椅子に深く腰掛けていた山本総隊長が、鋭い視線を冬獅郎に向ける。冬獅郎は目礼で返した。
「どうだった? 日番谷隊長。その女の子は『保有者(キャリア)』だったのか?」
長い白髪を揺らせながら、浮竹が声をかける。冬獅郎が頷くのを見て、「そうか」と沈痛な顔をした。
「もう、あらかた片付いたと思ったんだけどねぇ。まだいたのか」
編笠の陰で小さくため息をついた京楽の横で、更木が関心なさそうにくぁ、と大欠伸をした。
「で? どう裁くつもりだ?」
性急な口調で正したのは砕蜂、その背後で狗村は泰然と構えている。冬獅郎は軽く頷き、朽木白哉を振り返った。
「朽木隊長。阿散井を借りられるか。虚が例の女を狙って殺到する危険がある、警備に回したい」
「随意に」
白哉はあくまで静謐な空気を乱さずに返した。冬獅郎は次に涅を一瞥する。
「『勿忘草(わすれなぐさ)』を切らしてる。準備できるか」
涅はそれにはすぐに答えず、飄然と肩をすくめた。
「『勿忘草』を使って、『カケラ』に関する記憶を『保有者(キャリア)』から削除するつもりかネ? 全く、相変わらず無駄なことをするものだ」
冬獅郎が涅に向き直る。二対の瞳が真っ向から交錯した。
「最も安全に『カケラ』を回収する方法はただひとつ、『保有者(キャリア)』を殺すしかない。私達だって慈善事業をやってるわけじゃないんだ、わざわざカケラを抜き取った後、対象のアフターケアまでしてやる必要がどこにあるのか理解に苦しむヨ」
ハッ、と笑いを漏らしたのは、京楽だった。その編笠を指先で持ち上げ、眼光鋭く涅を見やる。
「君の口から慈善事業、なんて言葉が聞けるとはねぇ。『カケラ』の回収については日番谷隊長に任せる。その任務においては、日番谷隊長は全隊に指示を出すことが出来る。満場一致で決めたことを、覆すつもりかい?」
そこまで言うなら、自分でやるくらいの気持ちはあるんだろうね。京楽はそこまでは言わなかったが、察した涅の唇が歪む。
「よさんか、みっともない」
そこで口を挟んだ山本総隊長に、その場の隊長全員が向き直った。
「七十年前、追い詰められた藍染は命と引き換えに、自分の霊圧を無数の『カケラ』に変え、世界中に飛び散らせた。誰が『カケラ』を宿しているかも分からぬし、宿した者はいつ莫大な霊圧を目覚めさせ、『覚醒者』にならぬとも限らぬ。それが人間ならまだしも、虚は破面に手に入れられたらヴァストローデ級をも生み出しかねんのじゃ。それがどれほど危険なことか、藍染の力を知るおぬしらが、一番よく分かっておろうに」
それに頷き、冬獅郎が言葉を引き継いだ。
「響真由子から『カケラ』を回収し、カケラに関する記憶を抜き取ります。……今のまま目覚めなければ、抜き取るのは俺の記憶くらいですが」
うむ、と総隊長は何度か軽く頷いたが、冬獅郎を見返した眼光は鋭かった。
「やり方はおぬしに任せよう。ただ、もしもその少女が力を目覚めさせ襲ってきた場合は、……ためらわず、殺せ」
冬獅郎はそれには答えず、ただ唇をかみ締めた。
「……写真で見たよ、響真由子って子。かわいい子じゃないか」
隊首会散会後、足早に隊首室を後にした冬獅郎に、京楽が声をかけた。こいつ、まさか見た目がいいから響真由子を庇ったんじゃないだろうな、と一瞬冬獅郎は疑いの目を向ける。
「僕はかわいい子の味方だからね♪」
冬獅郎の視線の意味を知りながらも、ぬけぬけと言ってのける京楽も、中々図太い。
京楽の後ろを歩いている浮竹は、対照的に浮かない表情で、手にした書類を見下ろしていた。
「どうした、浮竹。その資料は?」
冬獅郎がそれを見とめて声をかけると、浮竹はうーん、と眉間に皺を寄せて唸った。
「『勿忘草』っていうのは、自在に記憶を消せる薬だったよね? 確か」
「ああ、それがどうかしたか」
「できれば、この記憶も消してあげたいところだね。まぁ、過去が消えない以上意味がないか」
「……なんのことだ?」
冬獅郎は、怪訝そうに眉を顰めながら、浮竹が差し出した資料を受け取った。「響真由子資料」と書かれた表紙を捲る。あの幸せそうな笑顔を絶やさない真由子に、消したくなるような過去があるとは、想像がつかなかった。
だから、その分。
「なんだ、こりゃ……」
字面に視線を落とした冬獅郎は、思わず声を上げていた。
……夕焼けに照らし出される、現世の街。響真由子は、足早にアパートの階段を上がっていた。一足ごとに、ヒールがカンカンと音を立てている。冬獅郎と会った2時間前と違うのはただひとつ、手に小さな紙袋を持っていることだった。
「ただいまー!」
カギを空け、玄関のドアを開けると同時に、真由子は元気な声を張り上げる。部屋の中から返事は無いが、真由子はかまわずブーツを丁寧に脱ぎ、玄関に並んだ埃のたまった男物や子供の靴を避けて、立てかける。そして、紙袋を持ったまま部屋の中に足を踏み入れた。五人分の食器がきちんとしまわれた戸棚、大きなダイニングテーブルのあるリビングを抜けると、そこは小さな和室になっていた。
「今日、すっごいカッコイイ男の子と会ったんだよ? 一目惚れしちゃった」
畳の部屋に入るなり、真由子は袋の中のものを取り出した。それは、小さなチョコレートが4つ。
「ダメかなぁ? ね、パパ、ママ、お兄ちゃん、咲」
小さなチョコレートの箱を、捧げるように持つ。そして、丁寧な手で重ねるように置いたその場所は、小さな仏壇だった。
遺影が四つ、仏壇を見下ろすような場所に掲げられている。仏壇にはまだ真新しい位牌と、パステルカラーの花弁が揺れていた。
「はい、これ、お土産」
真由子は、両膝を揃えて畳の上につくと、その膝の上に手をおき、仏壇を覗き込んだ。微笑んでいた頬から、ゆっくりと笑みがすべりおちる。伸ばされた指先が、仏壇の奥まったところに置かれた、写真立てに伸ばされた。中には三ヶ月前の真由子と、父親、母親、兄、妹の写真。指先が、つぃ、と満面の笑みで笑う自分の顔に触れた。
「いいなぁ……」
唇を、かみ締める。
「あたしも、そこに行きたいな」
そう呟いた真由子の上に、夜の闇が落ちてくる。それでも電気を点してくれるただ一人の家族も、もう彼女は持たなかった。