翌日の午後。松本乱菊は、十二番隊隊首室を訪れていた。
「ネムー。勿忘草の調合、できてる?」
扉にたおやかな細指を添え、隊首室の中を覗き込む。隊首席の整理をしていたネムが、その声に振り返った。
「申し訳ありません。昨夜から取り掛かったのですが、あの薬は調合から完成まで三日はかかります」
いつもの無表情だが、ほんのわずかに申し訳なさそうな色が言葉に滲む。
「あー、いいのよ。隊長のとこに今から行くから、ついでにと思っただけ」
乱菊は逆にネムを慰めるように微笑むと、ヒラリと手を振ってその場を後にした。


穿界門をくぐり、空座町へ向かう。目をつぶってもたどり着ける、行きなれた道だった。
―― ホント、こんな仕事早く終わってほしいわ。心臓に悪い。
はぁ、と乱菊はため息をついた。藍染の「カケラ」を回収する。それは現世で言えば、爆弾処理班のようなものだと乱菊は思っている。『保有者(キャリア)』止まりなら不発弾だが、いつ爆発……覚醒するか分からない分、余計タチが悪いとも言えた。キリ、と乱菊は唇をかみ締め、足を急がせた。


 穿界門を出たところで、乱菊は見慣れた赤髪の男と遭遇した。
「恋次! どう、状況は」
乱菊の霊圧を感じ取っていたのか、恋次は意外そうでもなく振り返り、頷いた。七十年前は腕白小僧のような雰囲気も多分に残していたが、今は容姿こそ変化がないが、重厚な落ち着きが加わっている。恋次は深刻な表情で頷いた。
「あんまり引っ張れないですよ。あの響真由子って人間ですが、少しずつ力が強まってます。もしかしたら『覚醒』が近いのかもしれません」
「……ホントに?」
「はい。虚が気配を感じるのか、にじり寄ってきてます。近寄り次第、こっちで排除しときます」
「了解、頼むわね。隊長は?」
「真由子って子の傍で、監視してます」
「恋次」
常に無い乱菊の張り詰めた声に、恋次は改めて視線を向ける。
「あたしは隊長の傍にいる。もし響真由子が覚醒しそうになれば、あたしが殺すわ」
「……乱菊さんらしくないッスね」
思わず、恋次は眉間に皺を寄せて、乱菊に正すような視線を向けてくる。
「隊長は優しいから。人間を殺すなんて絶対にできないわ。そして窮地におちいるのは目に見えてる。だから、あたしがやる」
死神として、人間をむやみに殺すと罪に問われる。それ以前に、彼ら彼女らをいとおしいと思う気持ちもある。ただ、乱菊にとって冬獅郎以上に優先したい存在はなかった。だから、ためらってはいけない。
「……お気をつけて、乱菊さん」
その乱菊の気持ちを読み取ったのだろう。恋次はそれだけ言うと、乱菊の肩をポンと叩いた。




乱菊がそっと近寄ると、冬獅郎はビルの屋上に立っていた。昨日風を操る虚と遭遇したのと、同じ場所だった。
「お前まで来ちまって、十番隊の業務はどうすんだよ」
乱菊の気配はとうの昔に感じ取っていたのだろう。冬獅郎は振り返りもせずに、背後に降り立った乱菊に呼びかける。
「たまにはいいじゃないですか」
「いつもだろうが」
「はいはい」
軽くあしらわれ、冬獅郎が不機嫌な視線を隣に来た乱菊に向ける。肩を並べると、ふたりの身長はほとんど変わらない。しかし、その肩幅や体つきは、圧倒的に冬獅郎のほうが逞しく、成長しているのだと乱菊に思わせた。その冬獅郎の肩に捕まるようにして、はるか下を見下ろす。


 栗色の頭が、ショーウィンドウの前で揺れている。響真由子だ、ということは、写真でしか見たことが無い乱菊にも、すぐに分かった。まるで誰かと待ち合わせているように、きょろきょろとあたりを見回していた。しかし、来ない待ち人を察したのか、若い男達が次々と彼女に声をかけているのが分かる。真由子が手を振っているのが見えた。目を凝らすと、本当は困っているのだろうに、微笑んでいるのが分かる。
「……いい加減、あきらめりゃいいのに」
冬獅郎がため息混じりに口にした言葉に、乱菊は思わず振り返った。
「まさか。あの子が待ち合わせてるのって、隊長ですか?」
いったい、何やってるんです。乱菊のかすかな非難の声色を感じ取ったのか、冬獅郎は顔の前で手を振った。
「誤解すんな。去り際にあいつが勝手に言ったんだ。次の日もここに来るって」
勝手に、ねぇ。乱菊は心中、ため息をついた。勝手にという割には、自分だってちゃんと来ているではないか。それに、「あいつ」という呼び方は、他人だと思っていればするまい。
「……隊長。勿忘草ができたら、彼女から隊長の記憶は消すんでしょう?」
「当然だろ。死神が人間に接した場合、死神についての記憶は消す。ルール通りだ」
「それなら……」
あまり、心を移さないほうがいいですよ。そう続けようとして、乱菊は口をつぐむ。そう言った冬獅郎の横顔が、いつになく寂しそうに見えたからだ。
「……同情、ですか? 彼女の境遇に対する」
「同情なんかできねぇよ。親きょうだいを失った気持ちなんて、俺にはわからねぇ」
同情じゃないのなら、一体どうしてそんなに真由子を気に留める?


 乱菊の視線に気づいているのかいないのか、冬獅郎の視線は、路上の真由子に向けられている。やっと声をかけてきた男をかわした真由子は、ビルの壁に寄りかかった。そして、空を仰ぐ。同じビルの屋上に立つ2人からは真由子の表情が見えるが、真由子からは死神姿でいる2人は見えない。真由子の頬にわずかに残っていた笑みが、切ない表情に摩り替わったその時、冬獅郎はその場から姿を消していた。
「えっ? たい……」
乱菊が瞬きをした時には、人間の姿をした冬獅郎が、真由子とは少し離れた場所に現れていた。その場の人通りは少なくはないが、視線の間隙をついた冬獅郎の登場に、誰も気づいてはいない。
真由子が弾けるように冬獅郎のほうへ体を向け、両手で口元を覆うのが見えた。次の瞬間、その手を大きく広げて冬獅郎に飛びつく。冬獅郎はわずかに後ろに下がったが、振り払うでもなく彼女に手を回すでもなく、ただ黙って立っていた。耳を澄ませると、何を言っているのかは分からないが、穏やかな口調が風に乗って聞こえてきた。
「隊長。やっぱり、あなたは……」
だとすれば、自分はどうしたらいいのだろう。乱菊はおさえきれない当惑に、しばらくその場に立ち尽くしたままでいた。



栗色の髪がさらりと目の前で揺れるまで、冬獅郎は一瞬、何が起こったのか分からなかった。
「おい! 周りの目もちょっとは気にしろよ」
まるで懐っこい犬や猫のように、一目散に首にしがみついてきた真由子に、冬獅郎は少なからず動転する。冬獅郎の知らない柔らかな香りが鼻腔を擽った。ふふっ、と笑った真由子が目尻をそっとぬぐうのに、二度驚いた。自分の登場が、そこまで彼女を喜ばせるとは思っていなかった。ただ、真由子の切なそうな表情を見ると同時に、体が勝手に動いてしまったのだ。決してもう彼女の前には姿を見せないと、決めていたにも関わらず。
「よかった、もう会えないかと思った」
何気なく彼女が言うのを聞いて、ズキンと胸が痛んだ。
「冬獅郎くん?」
「なんでもねぇよ」
目を逸らした冬獅郎の視線の先に、昨日と同じショーウィンドウのチョコレートが目に入った。


「お前はまた、菓子巡りかよ?」
「なーに、菓子巡りなんて言わないよ?」
コロコロと真由子は笑うと、冬獅郎から離れてショーウィンドウを見やった。
「やっぱり、これがね。冬獅郎くんにピッタリだと思うんだ」
指差されて見やると、いかにも味も形も甘そうなチョコレートとは少し離れて、ワインとセットになった黒いパッケージが見えた。パッケージの中には、高級そうなチョコレートバーがいくつか入っている。それを見た冬獅郎は、とっさにリアクションに困る。確かにハート型やお花型よりかはマシだが、そもそも自分にチョコレートという菓子が合わない気がする。
「……どの辺が?」
「んー。どこかミステリアスな感じ、かな?」
「……わからねー」
「例えば」
真由子は、いたずらっぽい仕草で人差し指を冬獅郎の鼻先に突きつけた。
「今、全然べつのことを考えてるでしょ?」
その言葉は、手つきと同じく確信に満ちている。確かに、冬獅郎の頭を去来していたのは、真由子にはとても予想のつかないことだ。
「……参った」
言葉に詰まった冬獅郎は、あえなく降参する。真由子は気を悪くするでもなく、どこか労わりに満ちた視線で微笑んだ。
「ちょっと待っててね」
そう言って、真由子はタタッと走って店のドアに駆け寄った。自動ドアが開く間に、
「待っててね! ホントに!」
念を押してくるのに、冬獅郎は苦笑して頷いた。


真由子の体から発せられる霊圧が、たった一日の間に強まっているのに、正直驚いていた。決していい記憶を呼び起こさない、藍染の気配。そして、その霊圧につられてやってきた虚たちが、少しずつ街に近づきつつある。恋次たち六番隊の霊圧に、乱菊が加わるのが分かった。
―― 勿忘草は、まだなのか……
出来次第、十二番隊から手渡されることになっていたが、いつも頼んでから出来上がってくるまでには何日か差があるから、まだなのだろう。それまでに目覚めてしまったら、どうする?
―― 「もしもその少女が力を目覚めさせ襲ってきた場合は、……ためらわず、殺せ」
昨日の総隊長の言葉が思い起こされ、冬獅郎は無言で俯いた。総隊長がそう言うのは当然だ。「覚醒者」の恐ろしさは、死神の中でも自分が一番良く知っている。


「とーーしろう君?」
目の前に、小さな黒い紙袋を示され、冬獅郎は首を引いた。袋の後ろには、真由子が満面の笑みを浮かべている。
「買っちゃった、さっきの。冬獅郎くんにあげるね」
「イラネーって」
「女の子にプレゼントもらったら、男の子は黙って受け取るもんなの!」
瀞霊廷にはそんなルールはない、と思うが、現世ではそういうものなのかもしれない。冬獅郎が不承不承頷いて手を伸ばすと、真由子は今度は手を引いた。
「あげない」
「なんだよ? あげるっつったりあげないっつったり」
無意識のうちに、子供の頃のように口を尖らせていたのだろう。真由子は噴出したが、首を振った。
「2月14日! バレンタインデーにならないと、あげない」
「それかよ……」
確かにバレンタインがどうのこうのと、昨日言っていた。現世とは、なんて細々としたルールが多いところだと思う。14日といえば、2日後だ。今もらうのと2日後もらうのと、どう違うのかサッパリ分からないが、郷に入らば郷に従えだ。冬獅郎は間違いなく仏頂面をした自信があるが、真由子は紙袋を腰の後ろに回して、微笑んだ。
「バレンタインに好きな人に会うほど、幸せなことはないから」
まだ言ってんのか、と言い返すつもりだったが、言おうとした言葉が空を切る。
―― 俺は……
人間になんか、興味はない。住む世界が違うし、共存することなどできない。一瞬迷ったからだろうか。


「……あ、れ?」
ぐらり、と真由子の体がふらついたのに気づくのが遅れた。気づいた時には、真由子は右手で頭を押さえ、地面に座り込んでかろうじて身を支えていた。
「真由子!」
思わず叫んで駆け寄ると、真由子は顔を起して来た。その顔色は明らかに悪いのに、それでも微笑んでいる。
「やっと、真由子って名前で呼んでくれた」
「ンなことどうだっていいだろ」
言いかけた冬獅郎は言葉を止め、空を仰ぐ。ビルの屋上の更に上に、死神が数人、見えた。こんな街中まで押し込まれるとは、虚の数も多いということだろう。全員斬魂刀を抜き、臨戦態勢に入っている。


「な……に?」
その時、冬獅郎は真由子の呟きに、我に返った。
「なんか、一瞬……黒い着物着た人が、空を飛んでるのが見えた」
ぎょっ、とした。どうしてそれが見えているのだ。まさか、本人に自覚が無いだけで、とっくに……
「えへへっ、ごめん。そんなワケないよね。もう見えないし」
真由子はそう言うと、頭を掻きながら立ち上がったが、冬獅郎には、軽く返すことができなかった。
「体調が悪いなら、もう帰ったほうがいい」
こんな状態で、外をうろつけば危険だ。冬獅郎はそう判断したが、真由子は寂しそうに目を細める。
「……送ってく」
パッ、と表情が明るくなるのを見て、なんて単純なんだと嘆息する。そして、送っていくのは一人で歩かせると危険だからだ、と自分を納得させた。




通りすがりに一束の花を買った真由子に、冬獅郎は何も言わず、彼女の荷物を持った。
「ありがとう」
どうして、微笑むのだろうと思う。花の理由を知っている冬獅郎は、そう思うしかない。彼女は、笑顔で薄氷の上を歩いているように見えた。氷の下の無限の哀しみに、今正に落ち込もうとしているのに、それに気づかないように、明るい表情を浮かべるのだ。
「……真由子」
んー? と、アパートの階段を上がっていた真由子が歌うように返事をする。その両手には、花束とチョコレートの入った紙袋を抱えている。そのやりとりに、まるでずっと昔からの知り合いみたいだ、と後ろをついて上がっていた冬獅郎は苦笑する。
「……お前、なんでいっつもそう、笑ってるんだ」
「え?」
きょとん、と目を見開く。
「あたし、笑ってる?」
「気づいてないのかよ」
「うん」
会話にならない、と冬獅郎は肩をすくめたが、しばらく考えた真由子は、部屋の鍵穴に鍵を突っ込みながら、ふっと思い出したように冬獅郎を振り返った。
「嬉しいときは、笑うの。哀しいときは、幸せになれるように笑うの」
なんかうまく鍵が入らないの、と鍵と悪戦苦闘している小さな肩が、いとおしく感じたのは何故なんだろう。理由を考える間もなく、冬獅郎は真由子の頭に手を伸ばす。頭を撫でられて、真由子の両肩が跳ね上がった。
「よくわからねーけど、お前の笑顔は好きだよ」
薄氷を、踏み破らぬようにいてほしい。真由子に言える真実は数少なかったが、それだけは本心だと思った。顔を上げそうになった真由子は、慌ててまた俯く。目の辺りをこすると、また顔を上げた。
「ありがとう」
笑った彼女を先導するように、部屋に足を踏み入れた。
見るとすぐに、ダイニングの向こうに、小さな和室が見え、開きっぱなしになっている仏壇が見えた。


父さんも母さんもお兄ちゃんも妹の咲も、花が好きなの。真由子はそう言いながら、仏壇に花を供えた。
「……事故、か?」
語尾を上げたが、それが事実だということを冬獅郎は既に知っている。真由子は、小さく頷いた。
「三ヶ月前に、交通事故でね。あの日は、旅行に行く予定だったんだけど。あたしはその日朝早くに学校で用事があったから、終わるころに、四人で車で迎えに来てくれて。それから出かけるつもりだったんだけど……いつまで待っても、車は来なかったの」
仏壇を見上げながら語る声音は淡々としていて、感情は伺えない。
「私、バカだから携帯忘れてて。学校に、緊急で輸血が必要だから、血液型がA型で協力できる人はすぐに職員室前に集まってくれって放送が流れて、あたしA型だって思ってそこに行くまで、知らなかったの。先生は、あたしの顔見た途端に、泣いちゃった」
冬獅郎は、真由子の後ろに立ち、無言で話に耳を傾けた。
「泣けなかったの。あたし、結局四人の顔も、見ないほうがいいって言われて、見せてもらえなかったし。死んじゃったって、分からないの」
ずっと仏壇に顔を向けていた真由子が、振り返った。その表情は声と同じように、感情が抜け落ちている。ただ、どこか遠い世界のことを語るように、不思議そうな顔をしていた。
「どうしたら、分かるのかな」


冬獅郎は首をめぐらせると、家の中をざっと見渡した。父親のものと思われる男物の眼鏡が、まるで今にも本人が現れそうに、テーブルの上においてある。母親のエプロン、兄と妹の教科書。冬獅郎は、真由子を振り返った。
「ここから引っ越せ。家族のものは全部、置いていくんだ」
ピクリ、と真由子の肩がけいれんしたように動いた。
「この家からは、死の匂いしかしない。死を受け入れられないのは、お前もその中にいるからだ」
死神である分、死には敏感だ。部屋に入った途端、むせ返るようなその匂いに、一瞬顔をしかめたほどだ。こんなところにいる人間は、決して前には進めない。
「なんでよ」
別人かと思うような硬質な声が、真由子から発せられたのは、その時だった。
「わたしが家族を置いていったら。誰も、もう振り返ってくれなくなるじゃない」
「それが『死』だ」
どうか、届いてくれ。冬獅郎は、祈るような気持ちで真由子を見返した。もう、彼女の家族は、彼女を置いていってしまったのだ。ここにはもう、何もないということに気づいてほしかった。


「分かってるみたいに言うのね。まるで、『死神』みたい」
ふふ、と彼女が口元で笑うが、こんなのはこの少女の笑みではない。
「あなたに、何が分かるのよ!」
その瞬間、異音を立てて花束を飾っていた花瓶が、砕け散った。2人ははじけるように仏壇に視線を向け、粉々になっている瓶に言葉をなくす。音も無く、衝撃に宙を舞った花が畳の上に落ちた。
「……真由子」
「出て行って」
真由子の声は、動揺で震えている。しかし声音の中には、頑ななまでの拒絶があった。冬獅郎は言葉を探すように口を開いたが、やがてゆっくりとかみ締める。
「……冬獅郎、くん?」
しばらくして、我に返った真由子が顔を上げたとき。家から出て行った物音は全くしなかったのに、冬獅郎の姿はもうどこにもなかった。




「あー、シンドかった」
瀞霊廷にある小さな飲み屋で、乱菊は酒を満たした湯のみを唇につけたまま、ぼやいた。
「珍しいっスね、乱菊さんが虚退治で弱音吐くなんて」
隣に座った恋次が、ぐいっと酒を飲み下し、杯を机に置いた。2人が、部下を連れてやってきた狗村と入れ替わり、瀞霊廷に戻ってきたのは1時間ほど前である。乱菊に誘われるままに飲み屋にやってきたは良かったが、乱菊の調子はいつもと少し違っていた。
「虚退治でバテたんじゃないわよ。ああ、胃が痛いわ」
「てめーの胃は鉄製だろうが」
背後から、いきなり聞きなれた声が聞こえ、2人は弾かれたように立ち上がった。
「ひ! 日番谷隊長、いつからそこに?」
「さっきだよ。いいから座れ」
胃痛の原因はあなたのせいです、という訳にもいかず、乱菊は椅子を取って座った冬獅郎の頭を見下ろす。
「何でもいい、酒!」
乱暴な注文をした冬獅郎は、酒が来るなり一気に飲み干した。


「あーあー隊長、何も食べずにそんなグイグイ飲んだら体壊しますよ」
「……るせーよ。お前は俺の親か」
そうぼやいている声は、既に酔っている。
「……響真由子の『カケラ』は?」
隣に腰を下ろした恋次が、乱菊が聞きたかったことを遠慮がちに訊ねた。
「なんもしてねーよ。勿忘草もねーのに」
そっと乱菊はその横顔を伺ったが、明らかに平常心ではない。酔っているためだけとは言い切れなかった。恋次は、そんな冬獅郎を見下ろして言い募る。
「今日倒した虚、三十体以上いましたよ。もう、時間の問題です。早くしないと空座町の他の人間にも被害が出る」
「……二日、待てねーか」
「二日?」
恋次と乱菊は顔を見合わせる。2日後といえば2月14日だが、その日に何の意味があるのか分からなかった。しかし冬獅郎は、そんな2人の様子にも気づかず続ける。
「ああ、でももう会うことねぇから、いいのか……」
「隊長―。らしくないですよ、しっかりしてください」
乱菊が、机の上に両肘をついた冬獅郎の肩に、背後から手を置く。
「確かにらしくねぇな。人間に口を出すなんて」
冬獅郎は、自嘲するように声を漏らした。
「……あの、響真由子って子と、何かありました?」
「別に」
嘘だ。そう乱菊は思う。ただし、冬獅郎は一旦言わないと決めたことは、何があっても口にするタイプではない。乱菊は黙り込んだ冬獅郎の後頭部を見下ろし、ふぅ、とため息をついた。
「ホントーーーに、勿忘草を使っていいんですね。使ったら最期、二度とあの子の中で、隊長の記憶は戻らなくなるんですよ?」
「……当然だろ。そうあるべきなんだから」
返事はすぐに返されたが、まるで棒読みのように感情が篭っていない。
「たいちょ……」
「阿散井、松本」
冬獅郎は、突然体を起こして、乱菊と恋次を見た。
「勿忘草が出来たら、すぐに寄越してくれ。二日ってのは無しだ。出来次第、響真由子に死神の姿で近づいて、本人が気づかねぇうちに『カケラ』の回収と記憶の消去を行う」
なんだ。独り言のように続けた冬獅郎の言葉に、乱菊は何も言えなくなる。
いつもやってきたのと、全く変わらないじゃねぇか。
「……隊長って、たまにバカ、ですよね」
「ああ?」
面と向かって悪口を言われ、眉間にシワを寄せた冬獅郎の鼻先に、小さな硝子(ガラス)瓶を突きつける。中に入った柔らかな青色の粉に、冬獅郎の視線が吸い寄せられる。
「……これ、勿忘草じゃねぇか」
「ネムを急かして、作ってもらったんです」
「でもお前、なんで……」
「細かいことは言いっこなしですよ。ま、今晩くらい酔いつぶれてくださいな」
バン、と湯呑みを置くと、自分が飲んでいた酒を注ぐ。冬獅郎はその瓶を懐に入れると、進められるままに酒を飲み……そしてほどなく、乱菊が思ったとおり酔いつぶれた。


「……どう思います? 乱菊さん」
突っ伏して眠っている冬獅郎の横顔を見下ろしながら、恋次が乱菊に声をかけた。
「俺、こんな日番谷隊長見るの初めてなんスけど」
「あたしだってそーよ」
乱菊は、酒を口に含みながら、冬獅郎を同じように見下ろす。そう、何もかも変なのだ。「キャリア」から「カケラ」を抜き取る、何十回もやってきたはずの任務にここまで心を乱すことも、勿忘草を手に入れたのに、そのまま酔いつぶれてしまうことも。
「ホントーーーは、やりたくなんてないんでしょ?」
ちょん、と冬獅郎のわずかに赤くなった頬を突っつく。冬獅郎は、誰よりも相手の幸せを考えられる男だ。だからそれが真由子にとって最善だと思うからこそ、カケラを回収し、彼に関する記憶を抜き取るだろう。ただ、それを平然と行えるほど、心が無いわけでもないのだ。なぜなら、冬獅郎はあの真由子という少女を……
「……無理、しちゃって」
乱菊は、ほろ苦く微笑んだ。