冬獅郎は、障子を通して差し込むゆるやかな朝の光に、目を覚ました。
「……松本?」
上半身を起してあたりを見回した目に、一番初めに飛び込んできたのは、見慣れた部下の姿だった。ただ。冬獅郎の隣にうつぶせに倒れ、すぅすぅと寝息を立てている。その左手は、冬獅郎にかけられた布団の端を握っていた。どうやら、先に寝入ってしまった冬獅郎に布団をかけようとしている最中に寝てしまったらしい。衝立の向こうでは、おそらく恋次だろう寝息が聞こえてきた。冬獅郎は、乱菊に気づかれないよう、そっと身を起こすと彼女の体に布団をかぶせる。立ち上がろうとした視界に入った小さな硝子瓶を見て、表情を曇らせた。そっと摘み上げ、その中に入った明るい水色の粒子を、振ってみる。これを振りかけられた人間は、一種の催眠状態に陥る。そして、指示された記憶を全て無くしてしまうのだ。
「やるしか、ねーよな……」
呟いて、それを懐にしまうと立ちあがった。


 同じ頃、真由子は机の上に置かれた父親の眼鏡を、手に取っていた。それをまじまじと見つめると、ためしにかけてみる。老眼の入ったそれは、真由子の目には全然合わないのだ。昔試して、こんなの全然見えない、といったことを、思い出した。その眼鏡につきっ放しの指紋を見下ろし、真由子はかすかに微笑んだ。自分よりも一回り大きいその跡は、父のものだろうか、兄のものなのかもしれない。ぬぐうことはせず、そっと布にくるむと、段ボール箱の中に入れた。
「やっとおわった……」
段ボール箱に蓋をし、あたりを見回す。自分以外の全ての日用品を片付けた室内は、段ボール箱だけが目立ち、がらんとしていた。
「引っ越さなきゃ、ね」
この家にはもう自分しかいない。そして自分にはこのスペースは広すぎる。それが、やっと理解できた。


「……ごめんね。出て行って、なんか言って」
冬獅郎が指を置いていた部屋の柱に、そっと指を添えて真由子は呟いた。冬獅郎がいなくなってから数時間、真由子は真っ暗な部屋に座ったままでいた。頭の中では、冬獅郎の言ったことが正しいことは分かっていた。ぐるぐる、ぐるぐると同じことを考え続けて、悩んで、最期に導き出したのは、「自分以外の家族は死んだのだ」という、初めからわかっている結論だけだった。それから一睡もせずに、部屋を片付けた。もう会える保証はどこにもない冬獅郎に、自分ができることはそれだけだと思ったからだ。
「会いたいよ」
その視線が、テーブルの上に置かれたチョコレートの紙袋に向けられる。会って、一言謝るだけでもいい。もう一度言葉を交わしたかった。
「会いたい」
出て行ってと言ったのは自分なのに、柱にコツンと、頭を置いたとき。真由子は目を見開いた。


「誰?」
振り返ったが、そこにはがらんとした空間が広がっているだけだ。おかしい、と真由子は周りを見回す。今確かに、誰かの存在を感じた。圧倒的に大きくて冷たい気配を持っていて、それでも真由子には優しくしてくれた。その気配は。
「冬獅郎くん、いるの?」
この部屋ではない。でも、この街にいる。どうして、場所が分かるのか自分でも見当がつかないが、確かに彼は「あの場所」に来ている。
「……!」
気づけば真由子はチョコの入った袋を手に掴み、玄関から外に飛び出していた。




冬獅郎は三度、真由子と初めて会ったビルの屋上の風に吹かれていた。凛とした冷えきった風が頬を撫で、朝日が街を貫くのを、ただ眺めている。周囲の霊圧を感じ取ろうとして、眉をしかめた。どういうことなのか、虚も死神も、気配を感じ取れない。まるで巨大な何かが邪魔をしているようだ。何度か試みて諦めた冬獅郎は、懐を探り、「勿忘草」を取り出した。
「……チョコレート、受け取れなくてごめんな」
バレンタインデーに好きな人と過ごせるほど幸せなことは無い、と満面の笑みで言い切った真由子の顔を思い出し、冬獅郎はひとり微笑んだ。いつの間にか、その日を2人で過ごしても、いい気がしていた。自分が死神だということも、相手が人間だということも、忘れていた。
「……それでも、俺は、死神だ」
人知れず呟く。そして、その場を蹴り、真由子の家へ向かおうとした時、彼の足は中途半端に止まった。


「真由子……?」
これは偶然だろうか、という想いに目を見開く。黒い紙袋を抱えた真由子が、ぜぇぜぇと息を切らしながら、路地に駆けてきていた。
「冬獅郎くんっ!」
突然名前を呼ばれ、ビクッ、と肩が撥ねる。
人気もまばらな路地で、何人かが振り向くが、真由子は気にする素振りも無く、周りを見回した。
「どこなの? 近くにいるんでしょ? 冬獅郎くん!」
「……まさか」
自分の霊圧を感じ取ってここまで来たということか。霊圧を抑えているときの自分の気配を感じ取ることは、副隊長でも難しい。というよりも、今の自分にさえ周囲の霊圧を感じ取ることはできていないのに。冬獅郎は思わず、呼ばれるままにふわりと宙を舞った。死覇装が朝日に照らされ、裾がはためく。ゆっくりと、真由子の頭上の少し上に、舞い降りた。


―― 死神姿の俺は、見えてねぇ、よな……
めまぐるしくあたりを見回している真由子の視線は、ことごとく宙を切った。真由子は何度か冬獅郎の名を呼ぶと、前にしていたようにビルの壁に寄りかかった。俯いたその首には汗が光り、髪は頬に張り付いている。背中が大きく波打っていた。そこまでして、自宅から走ってきてくれたのか。冬獅郎はそっと手を伸ばしかけ、止めた。
「……哀しい時には、幸せになるために笑う、んじゃなかったのかよ」
その声も、真由子に届くことはない。そのままずるずると座り込み、子供のようにしゃくりあげた真由子を、冬獅郎はただ見下ろすことしかできなかった。少し迷いながらも、勿忘草を取り出す。それを手に、ゆっくりと真由子に近づいた時だった。
「こいつは、おもしれぇ。死神と人間が恋仲か」
低い男の声と共に、真由子の背後の壁から巨大な刀が現れる。そしてその切っ先は、あやまたず真由子の首元に突きつけられた。


「てめぇ……破面か!!」
冬獅郎が飛び下がると同時に、腰に差した「氷輪丸」の柄に手を掛けた。しかし、更に切っ先が真由子に迫るのを見て、柄を掴んだまま動きを止める。
―― なんで、気づかなかった……!
一時的に霊圧を感じ取りにくい状況になっていたとはいえ、ここまで近づかれて気づかないとは。どうやら思っていたよりずっと、ぼんやりしていたらしい。冬獅郎はギリ、と奥歯をかみ締めた。真由子はふ、と顔を上げた。そして涙をぬぐったが、死神と同じように破面も目には映っていないらしく、目をしばたいただけだった。


くっくっ、と陰湿な笑みを浮かべて、破面が壁から姿をゆっくりと現す。右目から後頭部にかけて、虚だったときの仮面が覆っていた。それ以外は、20代前半くらいの若者に見える。
「『カケラ』を回収するんなら、もっと早くやるべきだったな。あ? 死神」
軽薄な口調で、冬獅郎を見てせせら笑う。赤い舌が、口元から覗いた。ニヤリと笑い、ゆっくりと立ち上がった真由子のを嘗め回すように見た。
「この女を殺して『カケラ』を奪うことはたやすいんだが。だが、その前に片付けたい奴がいてな。……てめぇの前で、カケラを手に入れてヴァストローデになっても、勝てねぇかもしれねぇしな」
「……それは光栄だな」
冷たい汗が、背中を伝う。
「刀を捨てろ!」
どうする。冬獅郎は刀を握りしめる。死神として、今ここで一人の人間を救うために死ぬわけにはいかない。任務があるし、隊長として部下もいる。数メートル離れた真由子を、冬獅郎は見上げる。二人の視線は決して絡み合うことは無いが、真由子はビルの間の空を見上げていた。きっとまた会えると、信じているのだ。


「……」
冬獅郎は無言で氷輪丸を鞘ごと抜き取ると、地面に投げた。ガシャン、と愛刀が重々しい音を立て、地面に転がる。
「……本当にやりやがった」
破面はそれを見て、ニヤリとほくそ笑む。そして、その掌の中に、力が一気に膨らんだ。
「虚閃!」
光がはじける瞬間、冬獅郎は背後を見やった。もしも交わせば、背後のビルを直撃する。無言で足を止めた冬獅郎の胸元に、光が炸裂した。
「ぐ……」
破面の虚閃を刀も無く受け止めることなど、隊長格にも出来ない。大岩がぶつかってきたような衝撃と共に足が背後に滑り、そのまま地面に叩きつけられた。


「隊長っ!!」
その時響き渡った声に、破面がハッと顔を上げた。
「仲間が来やがったか」
「松本……阿散井」
地面に膝をついた冬獅郎が顔を上げるが、それと同時に顔をしかめる。虚閃をまともに受け止めた胸が、ズキンと痛んだ。こっちへやってくる、二人の姿が霞む。そしてその更に背後に、群れを成して迫ってくる虚を見て瞠目した。その数は、百は下るまい。
「唸れ、灰猫!」
乱菊が間髪いれず始解する。それを見て、破面が手にした大刀を、真由子に更に近づける。
「この女が死んでもいいってのか?」
「……だから、何」
ごくりと一度唾を飲み込んだあと、乱菊はそう言い放った。
「乱菊さん……」
「あたしがやるわ。恋次、あんたは虚の群れをお願い!」
ほぅ、と破面が乱菊を見て、唸る。そしてニヤリとほくそ笑み、一歩踏み出した。
「副隊長格か。てめぇで俺に勝てるか?」
2人が向き合った、刹那。
「やめろ松本!」
冬獅郎の張り詰めた声が周囲に木霊し、乱菊は金色の髪を翻して上官を見た。
「でも、たい……」
「頼む」
乱菊は、何も反応できずに立ちすくむ。その間に、冬獅郎が胸を押さえ、スッと立ち上がった。そのまま、破面に向かって歩み寄る。


「……松本にも、真由子にも、手ェ出すんじゃねえ」
「……へ。真っ先に死にたいわけだ」
破面の刀の切っ先が、冬獅郎へと向けられる。次の瞬間、その場から掻き消えた破面の体が、冬獅郎にぶつかったように見えた。さぁっ、と赤いしぶきが弧を描いて宙を舞う。
「隊長っ!」
乱菊が悲鳴を上げる。赤に染まった冬獅郎の体が、地面に叩きつけられるのが見えた。人には見えない血痕が、地面に降り注ぐ。その一滴は、真由子の頬にも飛んだ。


「……」
真由子は、黙って空を眺めたままでいた。握りしめていた袋を、そっと地面に置く。そして、ふと違和感を感じたように、頬を手の甲でぬぐった。
「……あ、れ」
そこにはっきりと見える真紅の跡に、真由子は首を傾げる。ケガなんか、していない。
「怪我、なんて」
顔を上げた真由子のダークブラウンの瞳と、冬獅郎の翡翠色の瞳が、ぶつかった。目が合うと同時に、翡翠が大きく見開かれた。
「お前……『見える』のか」
「な、に。な……にが」
真由子は一度、喘ぐ。下がろうとした足がもつれ、壁にどん、と背中をついた。その視界には、肩から血を流して半身を起した冬獅郎と、その前に立ちはだかる異形の男。その背後には、冬獅郎と同じように黒い着物を着た男女が2人と、空中には黒い影が点々を見える。
破面が、ズイ、と真由子のほうを振り向いた。手にした刀が、血の色に赤く輝いた。
「や、だ。冬獅郎……くん」
殺される。頭が真っ白になる。真由子の全身に、一気に力が膨らんでゆく。湧き上がる霊圧に、周りの空気が陽炎のように揺れて見えた。


「覚醒する……!」
まずい。乱菊と恋次は、顔を見合わせる。もし覚醒し、真由子が暴走したら、とてもじゃないが2人には止めることは叶わない。
「ちっ! その力は俺のもんだ!」
破面が、刃を振り上げ真由子に駆け寄ろうとする。しかし、ガクン、とその体が沈んだ。
「てめ……死神! この死にぞこないが!」
冬獅郎がなりふり構わず、破面の足に取り付き、引き倒していた。
「逃げろ!!!」
冬獅郎の叫びが、混乱しきった真由子の鼓膜を打つ。
「てめぇから死ね!」
切っ先が、冬獅郎の翡翠の瞳の中に、吸い込まれる。そう思った時、周囲は光芒に包まれ……同時に、そばにあったビルが崩れ落ちた。


「な、んだ?」
襲ってくると覚悟していた死の痛みは、いつまでたっても冬獅郎を貫かなかった。痛む胸と肩を抑え、何とか身を起こす。あたりはもうもうとした煙に包まれ、何も見えない。
「隊長っ、大丈夫ですか?」
瞬歩で現れた乱菊が、冬獅郎を助け起こした。
「真由子はっ、破面は?」
「あたしにも、何が何だか……」
言いかけた乱菊が、急に言葉を途切らせる。冬獅郎も、凍りついたように動きを止めた。
「……藍染」
口にした冬獅郎の声は、乾いている。この、圧倒的な霊圧。滅びて七十年たっても忘れることが出来ない、畏怖を呼ぶような霊圧が、そこには降臨していた。その時になって、ようやく冬獅郎は気づいた。今日に限って周囲の霊圧が捉えられなかったのは、あまりに大きな霊圧がすぐ近くにいたからだと。


「……すまねぇ。俺の失態だ」
「いえ。最善を尽くしましょう」
乱菊が手にしていた氷輪丸を、冬獅郎に差し出す。冬獅郎は頷くと、一気に刀を抜き放った。その時、煙を捲いて黒い影が冬獅郎のほうへと突っ込んでくるのが見えた。
「てめぇは道連れだ!」
「破面!」
さっきまでとの余裕が別人のように喚くと、破面はまっすぐに冬獅郎に向けて刀を振り下ろしてきた。その仮面は割れ、全身が傷ついている。しかしその理由を考える余裕は、冬獅郎にはなかった。
―― くそ……
いつもなら、簡単に受け流せる一撃。しかし今は、氷輪丸がいつになく重く感じた。乱菊を庇うように前に立ち、刀を構えた時――
ひらりと、柔らかな栗色の髪が目の前で揺れた。


「ま……」
冬獅郎が声をかけるよりも早く、一瞬で冬獅郎の目前に姿を現した少女の全身が輝いた。
「冬獅郎くんを、傷つけたわね」
その声は、間違いもない真由子の声。背を向けた彼女に冬獅郎が声をかけようとした時、少女が放った金色の輝きに、破面は声もあげず吹き飛ばされた。
「まゆ……こ」
そこから感じるのは、明らかに藍染の力。しかし、真由子は冬獅郎の声に、くるりと振り返った。
「冬獅郎くんっ、大丈夫??」
「えっ?」
泣きそうに顔をゆがめ、飛びついてきた真由子に、冬獅郎は目を白黒させた。
「どうなってんだ? お前、『覚醒』したのに、意識が……」
覚醒すれば、その者の意識は消え、ただ暴走する機械になるのみ……少なくとも、これまでは全てそうだったのに。どういうことだ? しかしそんな冬獅郎の思惑とは裏腹に、真由子は首を振った。
「何言ってるのかわからないよ! ただ、冬獅郎くんがね、死んじゃうって思ったら。冬獅郎くんが……」
そのまま泣き伏してしまった真由子の肩を、冬獅郎はキョトンとして見下ろすことしかできなかった。乱菊は、そんな2人を微笑んで見下ろした。
「誰かを思う気持ちは、何よりも強い。そういうことじゃないですか?」
ま、それ以上言うのは野暮ですけど。そう言って立ち上がった乱菊を、冬獅郎は黙って見上げる。そして、ポン、と真由子の背中を叩いた。
「離れてろ。まだ敵は残ってるんだ」
「そんな傷で……だめ、立ち上がらないで!」
「それが俺の仕事だ」
「……」


真由子は涙をぬぐうと、上空を見上げた。死神たちが応戦しているものの、少しずつ間をつめられているのが分かる。
「お前の今の力があれば一瞬だけどな」
苦笑した冬獅郎を、真剣な目が見返した。
「どうしたらいいか、教えて」
その混じりけなく強い瞳に、押される。そこにいたのは、いつも微笑んでいたか、人知れず泣いていた少女ではなかった。
「けど……」
「教えて」
冬獅郎は真由子の顔を見返し……やがて、ため息をついた。




「本当に、こいつら……やってもやっても湧いてきやがる」
恋次は、背後から襲い掛かってきた虚を切裂き、振り返りざまに鬼道を放った。二体の虚が、声もなくその場から掻き消える。
「阿散井副隊長、無事か」
恋次の数倍はあろうかという巨体が、一瞬で恋次の背後に現れる。
「狗村隊長!」
「そろそろ引き返そうとしていたのだがな。残っていて良かった」
「……本当っスね」
「それにしても、『保有者(キャリア)』は覚醒してしまったのか? 日番谷隊長は何をしている」
「……それが、これまでの『覚醒者』とは、ちょっと違うようで」
そこまで言うと恋次は、言葉を濁した。噴煙の向こうに、抱き合う冬獅郎と真由子を見た。真由子からは、すでに藍染のものとしか思えぬ霊圧が発していたにも関わらずだ。
「とりあえず、今すぐには『覚醒者』の危険はないと思います」
「そうであることを願う」
背中合わせで斬魂刀を構えた時、2人の脳裏の声が響いた。


―― 「死神に告ぐ」
聞こえてきたその声に、2人はハッと顔を上げる。周りで戦っていた死神達も、それぞれ顔を上げていた。
「天廷空羅……日番谷隊長か!」
狗村が空を仰ぐ。
―― 「今からでかい攻撃が行く。虚を残して全員退避しろ!」
「えっ、でかい攻撃って……」
恋次は顔を引きつらせ、街並を見下ろした。今正に膨らんでいるのは、藍染の霊圧ではないのか?
「退避!」
狗村が戸惑う死神達に、間髪要れず叫ぶ。とっさに死神達が瞬歩で街の上空から退避した直後……強大な霊圧が、波状に空に放たれた。


ビリビリと肌が震えるほどの力。狗村と恋次が再び街の上空を見渡したとき、そこには虚の一体すら見えなかった。あの時冬獅郎の声を聞かなければ、おそらく2人とてタダではすまなかっただろう。それを思った恋次は、二度戦慄した。
「さすが、大した霊圧だわ」
「ら、乱菊さん!」
背後に現れた霊圧に、恋次は振り返る。乱菊は、どこか哀しそうな目で、晴れ渡る空を見渡した。
「考えてみれば、反乱を起す前の藍染は、死神として現世を護っていたものね。……こんな遣い方もできたのに、どこで間違えたのかしら」
ふうっ、とため息を漏らすと、肩をぐるりとまわす。
「朝っぱらから働いて、お腹すいちゃった。ご飯食べてかない? 現世で」
「そういう場合ではないだろう。『覚醒者』がいるのだろう?」
「……隊長がなんとかしてくれます」
「どういう、ことだ?」
「それ以上聞くのは、野暮ってもんですよ」
乱菊はそう言うと、背中を返した。 


「あの、女……!」
破面が、崩れ落ちた壁の間から身を起こした。外見はただの少女だというのに、内に秘めた力は破面の比ではない。たったの一撃で、破面の体に再起不能なまでの傷を残していた。
起き上がった破面の視界に、佇む真由子の姿が映った。心ここにないかのように、空を眺めている。
「隙、だらけだぜ」
強大な霊圧を宿しているとはいえ、ほんのわずか前まではただの少女だったのだ。戦いのセンスや勘など、持ち合わせているはずがない。まだ、自分にもチャンスは残されているようだ。破面は口角をニヤリと持ち上げた。
「死ね!!」
一足飛びで近づくと、真由子に向かって一気に振り下ろした。真由子が、振り向く。その目が見開かれた……と思った時、鮮血が散った。


「何……だと」
真由子は、怯えた目で下がったが、その体には傷ひとつない。とすれば、この血は一体なんなのだ?
「……逃げてればよかったものを」
冷静な声は、破面の下から聞こえた。見下ろそうとした破面の口から、ごぼりと血の塊が吹き上げる。氷輪丸が、破面の胸から背中に向けて、一直線に貫いていた。極限まで集中して打ち出された一撃は、貫かれても気づかないほどに研ぎ澄まされていたのだ。
「じゃあな。通常の輪廻に戻れ」
冬獅郎の声が遠く聞こえる。立ち上がった彼と入れ違いに、破面は地面に崩れ落ちた。


ふう、と冬獅郎は息をついて、刀の血を懐紙でぬぐうと、鞘に納めた。真っ赤に染まった懐紙が、後ろに立っていた少女の足元に、落ちた。
「モデルさんでも、芸能人でも、スポーツ選手でもない」
真由子の歌うような声が、背後から響いた。振り返ると、どこか寂しそうな笑みを浮かべた真由子と視線がぶつかった。
「……死神、さん?」
「どうしてわかった」
「ううん。昨日、死神みたいって言ったときあなたが、悲しそうな顔をしたから。適当に言ってみただけ」
引っかかりやすいね、といって笑った真由子が、どこまで現実を把握しているのか、冬獅郎には見当もつかなかった。


真由子が、冬獅郎の手を取った。冬獅郎も握られたまま、微動だにしない。
どこか春めいた風が、2人の間を吹きぬけていく。
「どうするの? これから」
「お前には、そんな力は不要だ。お前から力を抜かせてもらう」
「……それだけ?」
「今見た死神たちの記憶は全部、お前からはなくなる」
「……それ。冬獅郎くんのことも忘れるってこと?」
「それがルールだ」
冬獅郎の手首を握りしめた真由子の手に、力が篭る。かすかに、震えた。冬獅郎が何か言い募ろうとした時、真由子が後ろ手に持っていたものを、彼の前に突きつけた。


「本当は、バレンタインの日にあげたかったんだよ? でも、バレンタインイブだから、まあいいよね」
手にした黒い紙袋が邪魔になって、真由子の顔は見えない。でも、その声は震えていた。
「大好きだよ?」
疑問系のように、語尾を上げる癖。まるで問われているようだ、と冬獅郎は思う。そっと紙袋を受け取り、肩に腕を回して引き寄せる。真由子は、瞳に涙をいっぱいにたたえていた。
「泣くな」
「泣いてないもん」
真由子は目尻の涙をぐっと抑え、至近距離で冬獅郎を見返した。ダークブラウンの瞳の奥がきらきらと輝き、それを美しいと思った。
「冬獅郎くん、言ってくれたよね。あたしの笑顔は好きだって」
その瞳が、ゆっくりと弓形に変わる。まるで花開くときのように、真由子はゆっくりと微笑んだ。
「だからあたし、泣かないわ」
「笑顔、だけじゃねえよ」
冬獅郎は、真由子をぎゅっと抱きしめる。ほぅ、と真由子の口から声が漏れた。


真由子の後頭部に添えられた冬獅郎の掌が、まるで蛍のような朧な光に包まれる。その手をゆっくりと離したとき、まるで水晶の欠片のように透明に輝く5センチほどのものが、真由子の頭からゆっくりと現れ、そして冬獅郎の掌の中に吸い込まれた。それと同時に、ガックリと真由子の体から力が抜ける。藍染の力が、消えてゆく。覚えのある花の香りが、真由子の周りを覆ってゆく。おぼろげな記憶を、ゆっくりと辿る。
「あ。勿忘草の、香りがする。……」
その言葉を最期に、真由子の体から全ての力が失われた。


冬獅郎は、気を失った真由子を無事だったビルの壁にもたれかからせた。
「おい! 何事だ! いったい……」
警察と思われる制服姿の男が数人、駆けて来るのを横目で見る。すぐに真由子を保護してくれるだろう。
ぐったりと力を失った真由子の口元には、未だにあるかなしかの笑みが浮かんでいる。しかしもう、目覚めた真由子には何故自分が笑っていたのか覚えていない。それを見下ろした冬獅郎の表情が、一瞬泣きそうに歪んだ。
「ありがとう、な」
手にした、チョコレートを見やり、冬獅郎はわずかな笑みを浮かべる。そして、その額の髪を避け、そっと口付けた。
「さよなら」
その言葉を残して、その姿は掻き消えた。