3月下旬、その空座町内の多くの学校が終業式を迎えていた。
校門のそばに植えられた桜の大木は、漆黒の太い枝を、行き交う高校生の頭上に広げている。
蕾から吹きだすように咲き乱れる桜は、八分咲き、というところだ。気の早い芽の若緑が、ピンクの隙間からちらほらと見えている。
「一護、こないだ開店したカフェが近くにあるんだけど、行かない? シフォンケーキがおいしいんだ」
黒い鞄を下げた水色が、だるそうに歩いてくる一護を振り返った。
右手の指先に取っ手を引っかけ、背中に担ぐように鞄を持った一護は、胡乱そうに眉間に皺を寄せる。
「カフェ? 女子が行くとこじゃねぇの?」
「一護が来なきゃ、ケイゴを連れていくしかないし。ケイゴみたいに騒がれたら恥ずかしいでしょ」
「……まーー、そりゃなぁ」
乗り気でなさそうに語尾を伸ばす一護を、ほらほら、と空色がせき立てる。
はいはい、と返事を吐き出した一護が、通りざまに咲きこぼれる桜を見上げる。そして、枝の向こうに広がる細切れの青空に目を細めた。
「どうしたの、一護?」
「なんもねぇよ」
鞄を担ぎなおし、一護は空色の後を追った。


***


「……今、あたし達のこと、見てなかったよね」
両手を腰の後ろでつなぎ、前のめりに一護を窺っていた雛森が、隣にたたずむ日番谷を見やった。
地上から10メートルほどのところに、ふわりと浮かんでいる。下に向けたつま先の先に、影はできていなかった。
「見えるかよ。霊圧もねぇのに」
雛森とは対照的に、反り返るように腕を組んだ日番谷が、きっぱりと首を振る。
眉間に皺を寄せたまま彼女を見返したが、不意に片眉を上げた。
「なによ」
「……お前、最近縮んだか?」
「人をおばあちゃんみたいに言わないでよ!」
声を高めながらも、そっ、と雛森は自分の体を確認するように見下ろした。
「心当たりあるだろ」
「ないわよ! ていうか、あたしが前かがみになってるからでしょ? 体勢の問題よ」
「ふうん」
「ふうんって何よ」
雰囲気の問題か、自分の見方が違っている、というだけだろうか。日番谷は両足首を右手で引き上げるように、その場で胡坐をかく。
身長が雛森よりも低かったころは、常に見上げていたからか、肩幅が狭いとか、細いとか思ったことはなかった。
が、今同じ目線か、ともすれば見下ろすようになってみると、その肩の小ささが目につく。女なんだな、と不意にあまり思わなかったことが心に浮かんだ。

雛森は、なおも不機嫌そうに日番谷を見ている。
「俺がでかくなったらまずいのかよ?」
「まずいわ」
一も二もなく言い切った雛森に、変に押される。
「なんで」
「お姉ちゃん顔できなくなるじゃない」
「そんな顔してたか?」
思わず真顔で聞き返すと、何か言い返そうとした雛森は不意に吹きだした。
「もう、いいわよ。思いたいように思えばいいわ」
突き放すような言い方に何か言い返したくなるが、清々しい笑顔を浮かべる彼女を見るとその気にもならず、口をつぐんだ。

「さっ、これで今日の見回りは終わりね、日番谷『隊長』」
あの藍染との戦いの後、長い療養生活に入った五番隊を引き取ったのは、日番谷だった。
その後死神に復帰した雛森を副隊長の座に戻し、日番谷は引き続き、仮の隊長を務めている。
あれほど「隊長と呼べ」と言い続けてきたのだ、文句などないはずだったが、いざ言われてみると妙に物足りないような気持ちになる。
そんな日番谷の気持ちに気づくはずもなく、雛森は懐から取り出した小さなメモ帳に視線を落としている。
「虚の魂葬は二件、問題なし。破面の気配はなし、霊圧が高まる兆候もない。それから……」
校門を出る生徒の波が途切れ、ぽつんと立つ桜の木を見下ろした。
「黒崎一護君にも異常なし」

空座町が正常に戻って、1年以上が過ぎた。戦場になった上、ソウル・ソサエティに町を転送すると言う荒療治をした結果、
戦いが終わった後も上空には不自然な霊圧がよどみ、虚や破面がやってくる回数も、他の街と比べけた外れに多かった。
一年前は毎日何度も見回り、死神総出で戦いの後始末に駆り出されていた。
力を完全に失い、普通の人間に戻った一護が破面から復讐される可能性もあり、必ず一日一度は、一護の様子を誰かが見守っていた。
今となれば、週に一度、月に一度……とその頻度は少なくなりつつある。
「もう、黒崎はいいんじゃねぇのか。一年も経って仲間の仇を討とうとするような孝行な破面はいねぇよ」
「でも、それをやめちゃったら。黒崎君と、死神の接点がなくなっちゃうよ」
「いいんだよ、なくなれば」
意識的に、ぶっきらぼうに言い放った自覚はあった。
「隊首会で、全員一致で決めたことだ。黒崎一護は人間だ。これ以上死神の戦いに巻き込んで、命を賭けさせるのはおかしい。
それに、俺たち死神にも誇りってもんがあるんだよ。人間に護られることなんて今後はあっちゃならねぇ」
死神には、人間にも破面にも勝てる者がいない。それは、永い間ソウル・ソサエティに君臨していた死神にとって、これ以上ない屈辱でもあった。

不意に、それを伝えられた時のルキアを思い出した。
義骸ですら会ってはならぬ、という厳しい決定に、ルキアは分かっていたというように微笑んでいた。
「これからは、私たちが一護を護ってやりましょう」
その言葉は軽やかで、今でも日番谷の耳に残っている。

「さてと、日番谷『隊長』。仕事は終わりましたが」
日番谷の前に回った雛森は、両手を後ろで組んだままにこり、と意味ありげに笑った。
「なんだよ、わざとらしい敬語使うな」
「さっき、最近オープンしたカフェがあるって一護君の友達が言ってたでしょ。あたしも、気になってるんだ、そこ」
「ああん?」
日番谷は盛大に眉間に皺を寄せた。カフェとは喫茶店のことである、くらいの知識しか持ち合わせていないが、一護は、確か。
「女が行くとこなんだろ?」
「そんな決まりはないわよ」
「お断りだな。ていうか、黒崎がいるだろ」
「違う義骸で行けばいいじゃない」
最近幹部クラスの死神は、虚圏でも顔が割れてきたこともあり、自分の顔とは全く別のダミーを準備している。
確かにそれを使えば、一護が気づくはずはない、が。
「めんどうくせえよ……」
「シフォンケーキ、大好き♪」
「……」
結局、何と言ったところで引っ張っていかれるのだ。自分が口下手なせいか、雛森が人の話を聞かないからか、多分両方だと思う。
無理やり連れていかれた一護の気持ちが分かる、と思った時だった。

空気を無理やり引き裂くようなブレーキの金属音が、空座町全体に響き渡る。続いて、粉袋がぶつかるような重い音が続いた。
「……交通事故か」
嫌なタイミングだ、と日番谷は心中舌を打つ。思った通り、雛森の血の気は失せていた。
「……行こう、日番谷君」
「ああ」
頷きながら、別のことも同時に考えていた。あのブレーキ音が響くのとほぼ同時に、異常な霊圧の上昇を感じていた。
もっとも、死神や破面と比べれば問題にならないレベルではある。
―― 気のせいか?
一瞬のことだ、勘違い、ということもあり得る。
日番谷は雛森の先に立ち、中空を蹴った。