制服の上着に腕を通していると、ドアが軽くノックされた。
「一護」
顔をのぞかせた一心は、いつものふざけた態度とは別人のように重く沈んだ表情だった。
「ん」
と、袱紗に包んだ香典を押しつけてくる。
「分かるな? 渡し方」
「もう高三だぞ、それくらい分かるって」
「あと、夏梨と遊子もどうしても学校休んで行くって言ってるんだ。連れてってやってくれるか」
「……分かった」
「悪いな、俺も仕事がなきゃ行くんだが」
「しょうがねぇだろ、医院閉めるわけにいかねぇんだし。……行ってくる」
開いたドアから、遊子が忍び泣く声が聞こえてくる。余計、やりきれない気分になった。


空は、沈鬱な感情の持って行き場がないくらい晴れていた。理不尽すぎる、その一人の小学生の死を、そのまま表現したような空だった。
「こんなのってないよ……」
式場を前にしてもずっと、遊子は泣いていた。
この間嬉しそうに見せていた、おろしたての中学校の制服に線香の煙が流れてきているのが痛々しかった。
遊子も夏梨も二人とも、白地が目立つ制服の上に、黒いニットのカーディガンを羽織っていた。
夏梨は涙こそ見せていないが、唇をきっと一文字に結んでさっきから一言も口にしなかった。

新谷元気。
会場の前に掲げられた名前を見て、一護の胸もぐっと締めつけられた。
幼いころの元気は、父・母との三人暮らしで、同じ町内だっためクロサキ医院をかかりつけ医にしていた。
「元気」という名は、病弱だった母が、健康に育ってほしいという願いを込めたものらしい。
名前の通り、元気な子供だった。大体、いつも微笑んでいるか、声を立てて笑っているか、ニヤリとしているか……つまり、笑顔だった。
彼が三歳の時、母は乳癌で亡くなった。
彼が十歳の時、父は筋萎縮性側索硬化症で亡くなった。
それでも彼は、笑っていた。それはもう、ただ明るい性格だとはいえないだろう。子供にして彼ほど逞しい人間を、一護はあまり知らない。
母を亡くした一護には、笑っている、それがどれほど難しいか分かるからだ。

父の時も、母の時も、町医者で診られる範囲を越えていたため、総合病院を紹介することになった。
いち早く、ただの体調不良や疲労ではなく、精密検査が必要だと見抜いた一心の診断は的確ではあった。
ただ、最先端の医療をもってしても命を落とすことがある病気に対して、対抗できるなんの力も持たなかった。
「どうしてなの……?」
元気の父親の病気を知った時、遊子は泣いた。
父親がかかった病気が、今は有効な治療法がなく、徐々に筋肉が弱り、食べることも話すことも、呼吸もできなくなると知った時のことだ。
「大丈夫だよ」
そう言ったのは、元気だった。にこっと、笑っていた。
「僕がいるよ、お父さん」
「頼りにしてるよ」
そう言って同じ笑顔で微笑んだ父親を見て、一護は両拳に力が入るのを感じていた。
とても、笑うことはできなかった。その後、どんな道を辿るか想像がついていたからだ。

しかしさすがに一護も、ここまでは予想しなかった。
親戚の間を転々としながらも、持ち前の素直さで誰からも可愛がられていた彼が、十二歳でトラックにはねられ即死するなどと。
「不運、だけじゃ、すまされねぇよ……」
苦々しくつぶやいた彼の脳裏を、かつて仲間だった死神たちの顔がよぎってゆく。
死神でも、このような理不尽な死に対して、無力なものなのだろうか?
せめて元気が辿りつくあの世で、死神たちが彼に優しければいいと思った。
「遊子、泣くな。もうすぐ焼香だぞ」
肩に手をやると、うん、と頷いた彼女の肩が、小刻みに震えているのを感じた。ますます、やりきれない気分になる。


***


「……やりきれねぇな」
その時、奇しくも日番谷は同じ言葉をつぶやいていた。葬式が行われているメモリアルパークの上空で、ひとり進行を見守っていた。
非番だったが、死覇装をまとっていた。人間も、葬式の時には黒い服を着るのが礼儀だと聞いていたからだ。
人間の死にいちいち心を痛めていては仕事にならないし、死人を見るのは平気だ。だが、死人の家族や、友人を見るのは苦手だった。

今頃雛森はちゃんと仕事に集中できているだろうか、と思いを馳せる。
昨日、交通事故の現場に駆けつけた雛森は、大破したトラックの下敷きになった小さな身体を見てしまった。
どうあっても、助かるはずがないのは一目でわかった。その身体の下に、血が湧き出す泉のように広がっていた。
それから夜、次の日の朝、昼、と雛森は三食、ろくに口にもしていない。

雛森は死神になって何十年経っても、何万の死を見ても、人の死に慣れない。
病気で死んだと言われれば胸が苦しくなり、事故で死んだと言われると身体が痛む。そして、涙を流す。
死神は彼女には向いていない、と思うのは、つくづくそんな時だ。


―― 「お前は死神だろ。しかも副隊長だ。食うもんも食わねぇで、部下を危険にさらしたらどうすんだ。いいから、食べろ」
がんとして何も口にしない彼女に言葉を荒げたことを、後悔とともに思い出す。どうも自分は、うまく人を慰めることができない。
「お前は死神だろ」その言葉に、雛森の肩がわずかに揺れた。そしてしばらくの沈黙の後、だまって食膳を引き寄せた。

―― 「ねえ。日番谷君は、いつから? いつから、割り切れるようになったの?」
―― 「考えないようにしてる」
ぽつりと問われて、正直に返した。
―― 「どうして雨が降るのか、夜の後に朝が来るのか、考えたことがあるか? 死は自然なことっていう点では、同じものなんだよ。
どんな奴でも、必ず寿命で死ぬ。死因が、何であってもだ」
これは嘘だな。返しながら、自分でも苦々しくなる。目の前で命を落としているのが他人だから、「寿命」だなんて悟ったことを言えるのだ。
もしそれが親しい人間なら? かつての日番谷は、誰であってもその死を受け入れられると信じていた。なぜなら、死神だからだ。
しかし、瀕死の雛森を前にした時、生命の理に反する涅の技術に頼っても、命だけでも救ってほしいと縋った時に、自分にそんな覚悟などないのを知った。
今の雛森は、涅が作る薬で命を維持している。心臓を粉砕された女が今どうやって「生きて」いるのか、考えるだけで日番谷には恐ろしい。

―― 「今日は、俺は非番だから。あの子供が無事成仏できてるか、見てくるさ」
―― 「ありがとう」
微笑んだ雛森は、ふと視線を畳の上に落とした。
―― 「ねぇ、日番谷君は気づいてた?」
―― 「……何を」
―― 「……ううん、やっぱりいいよ」
気づいてたか、だと? 一体、何を。何度か問いただしたが雛森が首を振ったから、あきらめて出て来たのだ。



雛森が来なくてよかった、とつくづく思う。
同級生だろう小学生たちが、何人かずつ固まっては泣いていた。担任の先生だろう、泣き崩れる子の肩を抱いて、自分もハンカチで涙を押さえていた。
「もうすぐ、卒業式だったのに。どうしてこんなことに」
誰かの声が、耳に届いた。

しばらくして、喪主の挨拶が始まり、辺りはしんと静まり返る。五十代くらいに見える。女性だった。目を真っ赤に泣き腫らしている。
定型的な喪主としての挨拶を終えた後、彼女は何か挑むように、きっと前を見据えて話しだした。
「私は、元気の親ではありません。伯母です。この子の母は九年前に亡くなりました。父は二年前でした。
それでも元気は、まっすぐで明るい子供でした。つらい時さびしい時、この子がどれほどの救いになってくれたことか。それなのに……
私は、キリスト教を信仰していました。この子の両親が亡くなる時、私は神に祈りました。でも今は、恨んでいます」
ただの人間、日番谷からすれば、取るに足らない一人の人間の言葉なのに、目を離せなかった。
「父や母だけでは飽き足らず、この子の命をも奪った神を、恨みます。私はもう、二度と神には祈らない」
矢のように突き刺さる言葉だった。もし自分の姿が彼女に見えていたら、彼女はきっと食ってかかるに違いない。

霊柩車のクラクションが長く鳴り響き、最後の時だと知らしめる。一斉に嗚咽が霊柩車を追いかけた。
周りを見渡した時、日番谷は初めて一護を視界にとらえた。
「黒崎! と……」
夏梨と遊子の姿もそばに見える。遊子はハンカチを握りしめ、大粒の涙を流していた。
夏梨がそっと涙をぬぐう。そして、上空に視線を向けた。
まずい、と日番谷は慌ててその場から離れる。夏梨の霊圧では、自分の姿が見えるのはほぼ確実だった。
夏梨の視界に入るのはまだしも、一護に存在を気づかれたくはなかった。

近くのマンションの屋上に降り立つと、自然とため息が出た。その時、誰かにじっと見られている視線を感じ、日番谷は慌てて振り返る。
この距離では、夏梨ということはないだろう。
「君は誰?」
男の子が一人、突っ立っている。青白のストライプ模様のトレーナーを着て、ジーンズをはいている。
何の変哲もない小学生だった。彼が空中に突っ立っている、という事実を除けば。
「……おまえ、新谷元気か」
「僕のこと知ってるの? ていうか、僕が見えてるんだよね!」
トラックの下敷きになっている時は顔は見えなかったが、状況からして本人に間違いないだろう。
頷くと、へえええ、と感嘆の声を発しながら、まじまじと日番谷を見返して来た。死んで悲しいとか、悔しい、というようなマイナスな感情が全く漂ってこない。
ただ、自分が死んだことをよく分かっていないだけかもしれないが。

「……自分の状況、分かってるか?」
「昨日の夕方、トラックにはねられて死んだよね、僕」
気が抜けるほどあっけらかんと返す元気に、調子が狂う。
「そこまで分かってると話が早ぇが……」
「で、君は誰?」
「……日番谷冬獅郎。お前をあの世まで連れていく役割だよ」
死神、と言えば早いのだが、その名前の持つおどろおどろしい響きに、口に出すのは控えた。さっき、「恨みます」と言われたのが影響しているかもしれない。
元気は目を大きく見開いて日番谷を見ていたが、不意に指をさして一声、叫んだ。
「ていうことは……天使だ!」
「て……天使?」
「だってほら、髪もおめでたい感じに白いしさ」
「その下の真っ黒い服には気づかねぇのかよ……」
「でもほら、天使って子供が多いし。他の神様はみんな、大人じゃない?」
聞かれても困る。そもそも、日番谷は外見こそ子供だが、年齢だけみると決して幼くはない。
死んだ人間に、天使だと言われたのは初めてだ。死神の仲間が聞けば、爆笑するだろうと思う。
それにしても、「まっすぐで明るい子供」だと伯母は涙ながらに言っていたが、明るいのは確からしい。

「なんでもいい! とにかく、このままここでボンヤリしてたら、自縛霊になっちまうぞ。俺と一緒に来い」
普通なら自然とあの世に辿りついているから、ここにとどまっている時点ですでに危ない。
自縛霊になれば、特に子供の霊は虚の餌食になる可能性が高い。
―― それに、コイツ……
事故の瞬間、霊圧が高まったと感じたのは誤っていなかった。かつての一護や夏梨に比べれば弱いが、それでも霊圧は常人に比べてもけた外れに大きい。
虚にとってみれば、無力で霊圧が高い子供は、涎が出るほど食いたい獲物だろう。

その調子だと、すぐに「うん」と頷きそうだった元気は、表情を曇らせた。
「あのさ。三日、待てない?」
「なんで?」
「三日後、小学校の卒業式だったんだ。練習してたしさ」
「……言っとくが、お前の姿は誰にも見えねえんだぞ。参加できないんだ、分かってるか?」
「分かってるけど。やっぱりみんなと一緒に卒業したいんだ」
だから一緒に卒業なんてできないんだ、と思ったが、それを口にする気はなかった。
この少年も、それは分かっている。「一緒に」というのは物理的な意味ではないのだろう。

「……まあ、三日ぐらいなら」
空座町に虚が現れれば気づく。もちろん他の仕事もあるが、三日ぐらい護ってやれないことはないと、計算する。
「ありがとう! 優しいんだね。あっ、天使だもんね!」
「……ドウイタシマシテ。あんまりふらふらすんなよ」
思わぬ展開だ、と心中でぼやきながら、元気に背を向ける。

人間は死ねば、まずその事実にショックを受ける。そして、もう死ななくてもいい、ということに気づき一瞬嬉しくなった後、
じんわりと淋しくなる。この三つ目が一番、死んだ人間を虚にはしらせるのだとかつて学んだ。
しかしこの少年には、三つの過程のどれも当てはまっていない。
日常の延長のように、「死」を生と同じくらい普通に受け入れている。大した奴かもしれない、とふと思う。

今すぐ魂葬しないなら、ここにこれ以上とどまる意味もない。
昨日事故が起きたせいで行けなかった、カフェとやらに顔を出してみるつもりだった。
しふぉんケーキ、とやらを雛森は楽しみにしていた。買って帰ってやれば、当分食が細そうな雛森も口にするだろうか。

背中を返して、ふと考え込む。
―― 店、どこにあるんだ……?
雛森は知っていたようだが、仕事中の彼女に電話して聞くようなことではない。
一護も知っているが、だからといって姿を現して尋ねる、というわけにもいかない。
近所にできたカフェ、と言っていたから、高校の近くを見てみればいいか、と考えたところで、後ろからトンと肩を叩かれた。
「なんだ、まだいたのか?」
振り返ると元気がにこにこと笑っていた。
「そりゃ、十秒も経ってないし、いるよ。どうかした?」
「……お前。最近この辺でオープンした『かふぇ』って知ってるか?」
「シフォンケーキがおいしいとこだね。大人気のチェーン店が、やっとここにも来るって、みんな言ってた」
声を弾ませた元気は、
「連れて行ってあげようか?」
当然のように口にした。