おそるおそる足を宙に踏み出しては、「落ちない!」とはしゃいだ声を上げる元気は、とても昨日死んだばかりの人間には見えなかった。
何なんだ、この明るさは? 日番谷は後ろから歩きながら、別にいいのだが釈然としない思いに駆られる。
数年前、黒崎一護が死神になってわずか数カ月で瀞霊廷に乗り込んできたことがあったが、今時の若者は適応力がありすぎるようだ。
電信柱の上に片足でちょん、と乗ってみた元気は、日番谷を振り返った。
「ねぇ、本当に落ちないんだね! 落ちて怪我するんじゃないかって初めは怖かったんだけど」
「死人が怪我するかよ……」
「そっか。もう死んでるもんね。その辺だよ、お店」
スポーツ刈りにした髪はぴんと逆立っていて、くるくる表情を変える目は死人に使うにはふさわしくないが、生き生きしていた。
「あれか……」
白い庇屋根のこじゃれたカフェで、屋外には何席かオープンスペースがある。
客は満員で、日番谷が降り立つと屋内もびっしりと人が座り談笑しているのが見えた。
客の八割が女性で、二割の男性は、無理やり引っ張ってこられたらしく、居心地が悪そうにしている。
昨日やってきたはずの一護と友人が、こんな空間でどれだけ浮いていたかは想像に難くない。
口をへの字にしながら辺りをうかがっている一護がまざまざと想像でき、日番谷はさすがにおかしくなり……そして次の瞬間、嫌な気持ちになる。
今からあの店に入るのか、俺は。
そもそも、土産にすることを当然のように思っていたが、その場で食べている客ばかりだ。

うーん、とわれ知らず唸った日番谷を、元気が覗き込んできた。
「どうしたの?」
「いや、持ち帰りにできんのかと思って」
「できるよ。ほら、レジのところにTAKE OUTって書いてあるでしょ」
「ていくあうと?」
「天使の癖に、英語知らないの?」
「なんだその理屈は……つまり、持ち帰りってことだな」
客や店員の目が一瞬、店の外から全員外れる。その間隙を縫うように、日番谷は義骸に入った。
日番谷の外見とは似てもつかない、黒髪で十代半ばくらい、ジーンズにトレーナーを来た、典型的なその辺の男子中学生の風体だ。
かつては、死神の時と全く同じ外見でないと義骸としては使えなかったが、今はどんな外見でも、性別すら変えられるようになっている。
最近では、いろんな義骸をファッションのように取り換えたりすることも流行っていたが、日番谷はバカらしいと思っている。

「え、えーと……ひつがや、君?」
すたっ、と地面に着地した日番谷を、元気がまじまじと見てくる。
「話かけんなよ。周りにおかしく思われるだろ。お前の姿は、人間には見えねぇんだから」
そう言い置くと、ちょうど開いた自動ドアから店の中に入る。元気がついてくる気配はなかった。

舌を噛みそうな名前のケーキを四苦八苦しながらもいくつか選び、金を払う。
雛森にはピーチ、乱菊にはブルーベリー、そしてふと思いついて、マカロンをいくつかやちるのために選んだ。
紙袋に包んでもらっている間、ちらりと店の外を見やると、元気の姿はなかった。
「どこ行ったんだ、あいつ……」
店の入り口から逸れ、物陰に入ったところで死神の姿に戻り、同時に上空へと舞い上がった。
上から探した方が早いと思ったからだが、彼の姿はすぐに見つかった。
ちかくのマンションの屋上に立ち、じっと道路を歩いている人々を見下ろしていた。
その横顔に笑顔はなく、肩に力が入っている。日番谷はゆっくりと彼に近寄った。

はっ、と振り返った元気の顔が緊張している。
「……どうした?」
日番谷が声をかけると、あからさまにホッとした顔になった。
「どうしたんだよ」
「君も、僕の声が聞こえなくなったらどうしようって思った」
そう言って笑った表情は、さっきまでの明るい笑顔ではなく、感情を堪えているように見えた。
話しかけるな、とさっき店の外で言った自分を思い出し、日番谷は後悔に駆られる。
お前の姿は人間には見えない、とも言った。死神からすれば当たり前のことだが、聞いた元気はどう思っただろう。
「ここで、デッカイ声で叫んでも、誰も気づかないのかな? 本当に?」
そうだ、とは思っていても言えなかった。
「あの世に行けば、またみんなと話せるようになる」
「そう」
ホッとして見えたその横顔はやはり小学生で、日番谷はかける言葉を探す。でも、容易には見つかりそうになかった。
「きっと、この世界に残された死人が、自縛霊? っていうのになるのは。さびしいからだね」
どれほど親しい友人が目の前にいても、話しかけることができない。
声は聞けても、自分には声をかけてくれない。視線を合わせることもない。この世の全てがそうだったら、どんな気がするだろう。
……広がるのは昨日までの世界ではなく、絶対的な孤独だ。

「……おまえ、両親を早くに亡くしたんだって?」
さきほどの弔辞で、喪主である伯母の言葉を思い出して声をかける。うん、と元気は頷く。
「お父さんもお母さんも、一生懸命がんばったけど、だめだった。でも最後まで、僕に優しくしてくれたよ。
二人とも亡くなってからも、伯母さんも他の人もみんな、僕には優しかった。僕は恵まれてたんだと思う」
「……お前は、自分が死んでも、動じないんだな」
「もう聞いてたから。死ぬのが、どういうことか」
元気は何年も前に死んだ両親を思い出したのか、遠い目をする。
「途中下車する感じ、だって」
そして、眼下に広がる喧騒に視線を向けた。
「……途中下車、したことねぇな」
日番谷の感想に、元気は笑う。
「天使は電車なんて乗らないもんね。そうだね、みんなで電車に乗ってて……ぎゃあぎゃあ、騒いでるんだ。
でも僕だけ先に次の停車駅で降りなきゃいけなくて。車内にアナウンスが流れて、物足りないなって思ってる、そんな感じ」
「分かってるじゃねぇか」
日番谷は、元気の顔をまっすぐに見た。
「誰でも、自分の停車駅を持ってる。ひとりひとり違う場所に降りなきゃいけないんだ。分かるな」
「分かる、けど。卒業式には、出てみたいんだ。そしたら……」
「そしたら?」
「次の場所に行ける、と思う」


***


翌日の朝。ぽん、と肩を叩かれて、日番谷は目を覚ました。
目を開けると同時に、まばゆい朝日と金色の髪が視界に輝いた。
「……松本」
「おはようございます、隊長。朝帰りの迎えに部下を寄こすなんて、ケシカランじゃないですか♪ 相手は誰なんですか?」
朝からテンションが高い彼女は、きょろきょろと辺りを見まわし、すぐに中空にふわふわと浮かんでいる元気の姿に気づいた。
目に見えないハンモックに揺られているように空中にあおむけになり、腕を組んでいる。そして、うとうとと眠っているようだった。
「まさかと思いますが、隊長。一晩、あの男の子の霊と一緒にいたんですか?」
「悪いか?」
「いいも悪いも……」
乱菊はそこで言い淀んだ。あまり手間もかからなさそうな少年の霊ひとりに、かかり患っているのが理解できなかったのだろう。
「俺はこれから隊首会だ、瀞霊廷に戻らなきゃなんねぇ。俺が不在中、あいつから目を離すな。
あいつは霊圧が高い、ほっとけば虚の餌食になりかねないからな」
「じゃ、今すぐ魂葬しちゃえばいいじゃないですか」
「今すぐはできねぇんだよ」
「なんで?」
「なんでもだ」
頑固に言い募る日番谷を、乱菊は一瞬、じっと見る。
何か言いそうに口を開いたが、すぐにぱっと笑みを広げた。
「ま、隊長に従うのがあたしの仕事ですし。いーですよ」
日番谷がうまく説明できない何かを、いつもこうして汲み取ってくれる。
いい副官を持ったと思うのは、こういう時だ。

立ち去り際、眠ったままの元気をちらりと見る。一晩中話し相手になっていたから、若干眠気が襲ってきていた。
目が覚めた時、少年が熟女に変わっていたら彼も驚くだろうが、孤独にさいなまれはしないだろう……
穿界門をくぐった時、手にもったままのケーキを、乱菊に渡しそびれたことに気づいた。