―― アイツ、一体どこ行ったんだ……
日番谷は欠伸を噛み殺しながら、雛森のことを考えていた。
隊首会は、最近さらに朝が早くなった総隊長に合わせて七時半から行われている。
日番谷がシフォンケーキの入った紙袋を手に雛森の部屋を訪れたのは七時過ぎだったが、
鬼道と並ぶ寝坊の達人としてからかいの的になっている幼馴染は不在だった。
気にかけながらも、部屋の前に座って待つというわけにもいかない。袋を部屋の前に置いて、再び出て来た。

早く終われと願い続けた隊首会も、特に大きな議題もないまま、後半にさしかかろうとしていた。
おそらくみな眠いのだろう、発言もまばらだ。議題どころか、膝をカクッと折って慌てて体勢を戻した京楽が総隊長に睨まれ、
「いやあ、僕まだ若いから、朝は眠いんですよ」
と余計なことを言って睨まれるなど、雑談めいた雰囲気も流れ出している。。
その理屈で言えば俺はとっくに居眠りしていいころだ、と思った日番谷は、ふ、と雛森の霊圧を感じた。
それこそシフォンケーキのような、いつものふわりとした彼女の気配とは、明らかに違う。はっ、と急速に意識が覚醒した。

「お待ちください! 今は隊首会の最中で……」
慌てた隊士の声が聞こえると同時に、ばたばたと数人の足音が廊下に乱れた。
隊長たちは不審そうに顔を見合わせ、示し合わせたように扉を見やった。
「何事じゃ」
総隊長が眼光鋭く声を発した時、日番谷はその声に押し出されるように一歩、前に出た。それと同時に扉がいきなり開いた。
「……雛森」
きっ、とまなじりを決した雛森が、扉の向こうに立っていた。肩に力が入っているのが遠目からでも分かる。
寝ていないのか、あまり食べられていないせいか、面やつれして見えた。
怒っているのか、それとも悲しんでいるのか、その顔だけでははっきりと分からない。
強い目が日番谷に一瞬向けられ、すぐに逸らされた。そして、総隊長のところで止まる。

「誰の企みですか」
尋ねてはいなかった。断定し、断罪する口調だった。
「何の事じゃ、雛森副隊長」
平隊士ならいざしらず、雛森はあの藍染との戦いをともに潜り抜けた仲間である。
「出て行け」と一喝することもできただろうが、総隊長は雛森に向き直った。
その炯々と光る目に睨みつけられても、雛森が怯んだようには見えなかった。

「ここ数年、霊圧が高い子供の死が相次いでいます。ここ一年の間で、すでに二十三件。
死因は全て不注意による事故死。偶然とは、とても思えません」
水を打ったように、その場が静まり返る。トラックの下敷きになった元気の、真っ赤な血だまりが頭をよぎる。無意識のうちに唇を噛んでいた。
沈黙を破ったのは、涅のどす黒さを感じる笑声だった。
「だからなんだネ。その必要性が、分からないお前じゃないだろうに。死神として有望な人間を少しでも早く瀞霊廷に送り込む。
死神の力を強化しなければ、現世も含めた世界の安定はないヨ」
「あなたがやったのですか!」
雛森の声が激したように高まる。
「生命の理に反する行為です! 私たちは人間にとって『神』です。神たる誇りを、私たちは失ってしまったのですか」
神を恨む。そう言った、あの少年の伯母の悔恨に満ちた瞳を、日番谷は唐突に思い出す。

それを聞いた涅は怒りだすどころか、興味深そうに目を輝かせた。
「生命の理に反するとは、おもしろいことを言うネ。自分の命が、まさにそれに値するとは思わないのかネ?」
「あたし、は」
雛森は、急に正面から小突かれたような顔をした。
「もっとも私は、生命の理に反するなどと、躊躇する気持ちは分からんネ。私がお前を『生還』させたのは――」
「その話は関係ねぇだろ」
思いもかけない怒りに満ちた声が出た。日番谷に同時に周囲から視線が集まる。
「横槍かネ。仲がいいことだ」
急につまらなさそうに、涅が日番谷を見やる。そしてちらりと付け足した。
「まあ、私だって別に、くだらない操作をくわえて人間を死に至らしめる、そんな地味な作業を好き好んでやったわけじゃないサ」
「依頼した者がいる、ということですか」
「……依頼したのは、儂じゃ」
重々しい声が、その場に響き渡る。雛森は一瞬、あきらめたように目を閉じた。
「正確には、中央四十三室の決定じゃ。儂がその意思を受けて、涅に内密に指示をした。残念じゃが、雛森副隊長。
我々に今必要なのは、世界を安定させること。そのためには例外をも認めねばならぬ」

雛森はその時、その場に立つ隊長たち全員の顔を、見渡した。この部屋に入ってから初めて見せる、すがるような目をしていた。
しかし誰も、彼女のために異を唱えるものはいなかった。
雛森は、最後に日番谷を見た。日番谷君、と呼ばれた気がしたが、実際は彼女の唇は動いていなかった。
あと一秒経っていれば、どうするつもりだったのか自分でも分からない。雛森をいさめて居たかもしれないし、無言で目を伏せたかもしれないし、
それと同じくらいの確率で、雛森の側に立ったかもしれなかった。

しかし日番谷が決断する前に、雛森は諦めた。後ろから近づいてきた隊士に、おとなしく腕をとられる。
最後に、誰に言うでもなく、つぶやいた。
「あたしたちって、何なんですか」
何なんですか、ともう一度、力なく続ける。
「あたし達は、機械ではありません。この世界を維持するためだけの、装置じゃないんです。
喜怒哀楽も感じるし、より良くあろうとする。祈ることだってある。人間と同じ中身で、それでも違うのは……
神だと思ってくれる者がいることです。力弱くても、信じてくれる者のために、神であろうとする。あたしは、ずっとそう思っていました」
その言葉に、返答が与えられることはなかった。


***


「バカなこと、やったわね」
一番隊牢。10畳ほどはある牢の隅で、雛森は狭いところにいるかのように、足を縮めて座っていた。
投げかけられた声に力なく笑い、雛森は鉄格子を挟んで立つ女を見返した。
同情するでもなく、さばさばと放たれた言葉は、今の雛森には逆に心地よかった。
口をへの字に曲げて、風呂敷包みを手に突っ立ったままの乱菊を雛森は見つめ、笑いだす。
「何よ? 案外元気じゃない」
「乱菊さん。前も、こんなことありましたね」
「あったわね」
そして、ずい、と風呂敷包みを前に出す。
「全く、今度は別に誰もあんたを閉じ込めようとはしないのに、勝手に入るなんて。
何日いる気かしらないけど、着替え持ってってやれって、ウチの隊長がね」
「日番谷君、が」
嬉しい気持ちには、なれなかった。というよりも、複雑だった。

「ぜーんぶ、聞いたわよ。隊長から。あの男の子のことも聞いた」
乱菊は風呂敷をぽんとその場に置くと、背中を鉄格子に持たせかけた。
「ここに閉じ込められて罰を受ければ、ちょっとでも罪悪感がなくなると思った? そう思ったなら、筋違いよ」
「入って気づきました」
苦笑いしか出ない。心の底に広がる黒い気持ちは、牢に入ったくらいでたやすく和らいだりはしなかった。
「……日番谷君なら。あの子の事故も見ているし。味方になってくれると思いました」
「そうやって、あんたはまた隊長を悩ませるのね」
責める口調でもなく、乱菊は背中を向けたまま、ぽんぽんと言葉を吐く。
「隊長はね、きっと全部分かっている。あの子の痛みも分かってたし、同時に死神たちがこのままじゃいけないってことも、痛いくらいね。
つらいわよ。両方の理屈が分かってしまうってことは。あんたが思うよりもずっとね」
「あたしは……」
雛森は自分のことを、ふと考える。
基本的に自分は、一度にひとつの側面の物事しか考えられない。そして、突き進んでしまう。
今も、自分の考えが間違っているとは寸分も思わない。でも……強い死神を少しでも早く生みださなければいけない、というのは、実は分かってはいる。

瀞霊廷の貴族から死神を育てるにしても、急に霊圧が高い子供が都合よく生まれるわけではない。
ソウル・ソサエティから求めるとしても、頭数はいても死神の訓練を受けるには、皆年がいきすぎている。
寿命が尽きたものからソウル・ソサエティに送られる時点で、年齢層が高くなるのは当然のことと言えた。
そうなれば、見込みのある子供に現世で目をつけ、不慮の事故に見せかけてソウル・ソサエティに送り、死神に育てるのが一番早いのだ。
涅以外の隊長たちは、それを知らされていたのだろうか? それはない、と雛森は結論付けていた。
もし知っていたなら、あの少年の死に立ち会った瞬間の日番谷が、あれほど悲しそうな顔ができるわけがない。

「いつまでも悩んでるんなら、コレあんたの分も食べちゃうわよ」
不意に乱菊は、手に持っていた紙袋を雛森に示してみせた。紙袋に書かれた文字を目で追った雛森は、目を丸くする。
「HAPPINESS!あたしが行きたかったところだ。どうして?」
「隊長がね。一個はあたしので、一個があんたのだからって。ブルーベリーがあたしよね、どうみても。紫だし。
はっきり言って、むっちゃくちゃおいしかったわよ!」
無造作に鉄格子をあけて、紙袋と風呂敷包みを同時に手渡してくる。
「はい、鍵」
ついでに牢の鍵まで手渡されてしまい、雛森が何か言うよりも前に、じゃあね、と姿勢よく歩み去ってしまった。
「もう。内側からじゃ、鍵あっても開けられないわよ」
そうぼやいて、紙袋を開いてみる。紙のケースに入った大きなピンク色のシフォンケーキに、わぁ、と思わず声が漏れた。
こんな状況なのに、と思ったのもつかの間。
口の中に広がったケーキは思ったよりずっと柔らかく、甘く、そして、ほろ苦かった。
こみ上げる嗚咽を、ケーキと一緒にのみ込んだ。