藍染反乱から100年後

 
		
		
護廷十三隊、十番隊。五百人近い隊士を抱える、磐石と名高い死神集団である。
藍染の反乱後百年間にわたり、隊員に一人の死者も出したことがない唯一の隊としても、その名は知られていた。
その名声を写し取ったかのように、その門構えは堅牢で、十メートル近い高さにそびえ立っている。
その扉が、ぎい……と重々しい音と共に引き開けられた。
「松本副隊長が戻られたぞ!」
地面を真っ白に埋める雪を気にすることなく、整然と並んだ門番全員がその場に片膝をつく。
無骨な男たちの肩が並ぶ向こうで、ふぅわり、と蜂蜜色の髪が揺れた。

ゆったりとした歩法はあくまで優雅、こぼれんばかりの豊かな胸、柳腰がたおやかな乙女。
頬はあくまで白く、わずかにつりあがった瞳は明るい蒼を宿している。
どの角度から見ても、完璧な「女性」だった。無骨な男が目立つ隊士たちの中で、ひときわ際立って見えるほどに。
この女性が一隊の副隊長の座に就いているなどとは、一目では信じられないだろう。
しかし合間見えれば、一歩ごとに波のように広がる、鮮烈な霊圧に気づかずにはいられない。
気安く近づいた瞬間に切れるような、一分の隙もない戦士のものであった。


十番隊副隊長・松本乱菊は、長い髪を片手で掻き揚げると周囲を見渡した。そして、手近にいた死神に声をかける。
「隊長は?」
蓮っ葉な言い方だが、声音は女らしく艶をたたえている。
「はっ、日番谷隊長でしたら、夜勤明けで午後から出廷されるご予定です」
「そ」
かしこまった返答に、軽く小首を曲げて頷く。そして、隊舎の中に足を踏み入れた。


***


瀞霊廷が戦場にもなりうる乱世の名残で、隊長の居室は隊舎の最も深奥に据えられている。
隊長たるもの、いかなる場合でも生き延びなければならない、とされていたからだ。
対照的に副隊長は先陣を切るため、最も手前に私室が設けられている。
最も、百年もの太平の世を謳歌する現在では、ただの形式と化していた。

したがって、乱菊が日番谷の居室に詳しいはずはないのだが、彼女の足取りには迷いがなかった。
雪のちらつく廊下を通り抜け、目指す襖の前にたどり着く。
なるべく音を立てないように襖を開けると、スルリと薄暗い部屋の中に身体を滑り込ませた。


部屋の中は、一言で言えば雑然としていた。
本や巻物が、机といわず床の間といわず乱雑に積み重ねられている。
机上に古びた煙管が放り出してあるかと思えば、削りかけのコマが床の間に転がっていたりする。
一見して、この部屋の主の、年齢や性別さえ図りがたい。
すべて、彼女の上司でもあり、十番隊の隊長でもある日番谷冬獅郎が、興味の赴くままに拾い集めて来たものだった。

よっ、と軽く声を上げながら、乱菊はアンバランスに積み重ねられた本を倒さないよう、慎重に歩みを進める。
綺麗にしようという意志が感じられない部屋だが、日番谷の中には自己流の秩序があるらしいのだ。
前に不用意に崩して、一喝されたことがあるから肝に銘じていた。

障子を透かして、朝日がゆるゆると畳の上に差し込んでいる。
日の当たる場所に敷かれた布団の中央は盛り上がり、かすかに上下していた。
布団にゆっくりと近づいた乱菊は、両方の口角を悪戯っぽく持ち上げた。


「たーいちょっ♪」
ひょい、と布団の裾を捲り上げると、中にもぐりこむ。
清潔な太陽の香りがする布団の中の、体温の主を探した。いや、実際は探すまでもなく、
「冷てぇな!」
非難の声を投げつけられる。

「やぁだ隊長、起きてたんですね」
「隊長を夜這いとは、いい度胸じゃねぇか……」
低い、くぐもった声が漏らされる。いつもの凛と張りつめた声も、布団の中には持ち込めないらしい。
「夜じゃないです、朝這いです♪」
日番谷はもぞもぞと枕に両肘を立て、頭を深く抱え込んで乱菊に背を向けた。
放っておけという無言のプレッシャーにも、乱菊は臆さない。

「ねぇ隊長!」
「くっつくな!」
「だって、寒いんですもん」
冷え切った身体を、日番谷の背中に押しつける。
必然的に、豊かな胸がその背中を圧迫するが、乱菊はそんなことを気にする性格ではない。
日番谷は垂れた銀髪の間から、じろりと三白眼で乱菊を睨みつけてきた。
薄暗がりの中の日番谷の瞳は、濃い翡翠色で凄いほど美しい。


日番谷は諦めたように肘を立てると、さりげなく乱菊を押しのけた。
「明け方まで仕事して眠ぃんだよ。まだ朝だろ?」
白い襦袢の袖から腕を伸ばして、障子を薄く開ける。
縁側の向こうに広がる庭園は雪で埋まり、黒々とした松の枝にも雪が重々しく覆いかぶさっている。
日番谷はまばゆさに目を細め、ほどなく障子を閉めた。

「いやいや、また寝る姿勢に入らないでくださいって」
やれやれ、とでも言いたげに布団に深くもぐり直した背中に声をかけるが、ピクリともしない。
「夜勤明けなのは存じてます。出廷が昼からなのも知ってます。でも、総隊長直々に仕事の依頼が来てますよ。しかも急ぎで」
乱菊はそう言うと、懐から一枚のくしゃくしゃになった紙を引っ張り出し、振り返った日番谷の眼前に突きつけた。

「てめ、そういう用件は早く言え」
日番谷は眉間に皺を寄せて書類を受け取った。
うつぶせの姿勢のまま枕の上に書類を置き、頬杖を付いて見下ろした。
だらしない格好だが、文字を目で追う横顔は真剣である。
「こりゃ、穏やかじゃねぇな」
やがて日番谷は呟くと、小さく溜め息をついた。
そして、重みを増した背後をふと振り返った。そこには、幸せそうな表情でいびきをかく部下の姿。
「てめえが起きろっ、松本!」
日番谷の怒声が、部屋中に響き渡った。



あたたかい布団の中で、寝るなという方がどうかしている。日番谷がいつまで経っても起きてくれないから悪いのだ。
このまま眠れたら幸せだな、と乱菊はすでに眠りながら考えた。
「てめえ俺を起こしに来ておいて、自分が寝るとはどういう了見だ!」
日番谷が怒鳴っているが、どこか遠くの出来事としか思えない。
こんな風に怒鳴るなんて、最近では珍しいのだ。
はるか昔、自分の胸あたりの背丈しかなかったころの上司が、日々大声を出していた姿を思い浮かべ、ふと頬が和らいだ。

突然、下敷きにしていた大きな温もりが離れ、乱菊は敷き布団の上に滑り落ちた。
掛け布団が撥ねのけられ、冷え切った空気が乱菊の上に容赦なく落ちてくる。
「ちょっと、さむ……」
寝ぼけ眼で見上げた瞬間、ぎょっとした。
襦袢一枚で立ち上がり、うーんと背伸びした日番谷の姿が、圧倒されるほどに大きく見えたのだ。
さらに乱菊が驚いたことに、日番谷はかがみこむと同時に乱菊の膝下と肩を捉え、軽々と抱き上げた。

「え? あ? た? たい、……」
何が起こっているのか分からない。とっさに日番谷の肩に手をついて、距離をあける。
触れた皮膚の下で、固い筋肉が動くのを直に感じ、不覚にもドキリとした。
見上げても、乱菊の位置から日番谷の表情は窺えない。
目下の状況を理解すると同時に、ゾクリと背中が粟立った。


「ま、待ってください、隊長!」
大抵のことにはたじろがない自信があるが、一気に目が覚めた。
日番谷は無言のまま、片足で障子をバーンと開け放った。
それと同時に両腕に力がこめられ、ようやく乱菊は自分が何をされようとしているかを悟った。

「きゃー!! 待って! 本当に待って! 放り出さないでくださいっ!」
「雪ン中に放り出されれば、目も覚めるだろ」
「覚めました! もう十ッ分、覚めましたから!」
凍りついた庭に落とされてはたまらない。日番谷の襟のあたりをとっさに掴む。
しかし、いつまで経っても日番谷は乱菊を放り出そうとはしなかった。
代わりに、日番谷の着物の袖のあたりが、小刻みに震えているのに乱菊は気づいた。

「ちょっと、何震えて……ていうか笑ってません隊長?」
「笑ってねぇよ」
日番谷はすぐに否定したが、その声はさっきまでの怒りが嘘のように穏やかだ。
「嘘! 今、絶対に笑ってた!」
「そこまで本気で取り乱すとは思ってなかったんだよ」
それを聞いた乱菊の頬が赤く染まる。恥ずかしさなのか、悔しさなのか自分でも分からなかった。


「ちょっと! イタズラにもホドがありますよ、隊長!」
「悪ぃ」
自分が寝たせいだというのは棚に上げて、日番谷を非難する。
やり返しもせず、日番谷は乱菊の膝裏を支えた腕を下ろし、両足を解放する。
さっきまでの手荒さとは打って変わって、その動作は丁寧だった。
すとん、と両足が地をつき、ふたりは至近距離から立ったまま見つめあう形になる。

「おい。腕離せよ、肩が凝る」
「え! あ、すいません」
両肩にまわしていた手を外すと、身をかがめていた日番谷は身体を伸ばした。
乱菊の鼻先が肩をかすめ、日番谷の肩ごしに見えていた部屋が見えなくなる。


「……どうした?」
一歩後ろに下がった日番谷が、無言の乱菊を見下ろした。
「……いいえ」
本当に大きくなりましたね、なんて言ったら、なにを今更と返されるだけだろう。
背丈が伸びなくて悩んでいたのは、もう百年も昔の話なのだ。
今では乱菊より頭ひとつ分高いのは分かっているのだが、脳裏で姿を見せる日番谷は子供のままで、時折乱菊の胸を戸惑わせる。

「今着替える。茶でも勝手に淹れて待ってろ」
見上げる乱菊に返した日番谷の声音は、ぶっきらぼうではあるが優しかった。
成長するにつれ、その顔立ちはよりくっきりと際立ち、目の光も強さが増している。
だが、大人と言い切るにはまだ成長の過程である。むしろ、今が成長のまっさかりだと言っていいだろう。
最近の日番谷は、毎日顔を合わせている乱菊の目にも、たまに別人に見えるほど日々変わって見える時があるのだ。

「……バカ」
背を向けた日番谷の背中にそう投げつけてみたが、振り返らなかったから聞こえていないのだろう。
馬鹿、だと思う。抱き上げられたとき、冗談に違いないのに、不覚にもあれほどに焦ってしまった自分自身が。