日番谷は、京楽から渡された「落陽」の最新状況を記した資料をぱらぱらと捲っていた。
「今じゃ、勢力は大きく二つなのか。花を所有する『花守』と、奪おうとする『朱雀』」
みたいだね、と京楽は頷く。
「どこの世界でも、秘密ってのは隠しておけないものらしいね。いくつもの賊が花を狙ってきたらしいが、勝ち残ってるのは一つ」
「強いのか」
「恐らくは」
ふぅん、と日番谷は軽く頷く。一筋縄ではいかなさそうだ、と四楓院家の手による流麗な字体を見下ろした。
四楓院家は文武両道に長けた一族である上、瀞霊廷を代表する貴族の一つだ。
盗まれて五十年も黙っていたのは、盗難にあったなどという醜聞は内密にしたまま、自分達で奪還したかったという理由以外に考えられない。
それなのに、今頃になって敢えて瀞霊廷に依頼する理由は、きっと何かあるはずだ。

「やり方は、もちろん君次第だけど、両者の争いに乗じて花を回収するのが無難そうだね。
正面から乗り込んで花を奪還するのもアリだけど、なるべくなら死神は、表立って流魂街には関わらない方がいい」
「分かってる。しばらく、潜入するしかなさそうだな」
ざっと、今の瀞霊廷の状況を頭に浮かべる。不穏な兆しはなく、十番隊も十分人手に余裕があるころだ。
久しぶりに松本を連れて行くか、とちらりと乱菊を見やった。


乱菊は書類には興味を示さず、酒盃に満たされた酒の表面に視線を落としていたが、ポツリと呟いた。
「なんだか、かわいそうね。誰かが幸せになるために創られた花でしょうに、不幸にするなんて言われて」
その頬は、わずかに朱を刷いている。
「あたしだったら……」
続けられた言葉は、独り言のように遠くに向けられている。
日番谷は長い腕を伸ばし、乱菊の手の中の杯をひょいと奪い取った。乱菊が文句を言う前に、一気に中身を飲み干す。
「あーっ、隊長!」
「これ以上飲んだら酔うだろうが、お前は」
「仲いいねぇ、ホントに」
京楽は穏やかに笑いながら二人のやり取りを見ていたが、おもむろに立ち上がった。

「作戦会議がてら、ゆっくりして行きなよ」
そして、羽織った女物の着物の裾を翻す。艶やかな色彩に目をやった日番谷が、呼びかけた。
「京楽」
「なんだい?」
「この仕事を俺たちに振るように仕向けたのは、お前か?」
唐突な問いだということは分かっていた。
乱菊が怪訝そうな視線を向けてくるのに気づいたが、無視して京楽の目を見つめる。睨んでいた、と言ってもいい。
京楽は、少しだけ目を見開いたが、すぐに食えない笑みを浮かべる。
「なぜそう思うんだい?」
日番谷は返事の代わりに、スッと目を細めた。
京楽はそんな日番谷を見つめ返し、二組の視線が瞬間、鋭く交錯する。
「……うまく行くことを願っているよ」
京楽はそれだけ唇に乗せると、微笑を浮かべその場を後にした。



京楽の足音が、遠のく。日番谷はその音に耳を傾けながら、軽く舌を打った。
ふわりと動いた空気に視線をやると、乱菊がその場から立ち上がったところだった。
そして、寒い寒いと言っていたくせに、障子を大きく開け放った。木枯らしが吹きすさぶ高台に、足を踏み出す。
欄干に手をかけて身を乗り出せば、髪が下からの風に煽られ、白いうなじが露になった。

不思議な女だ、とそれを眺めていた日番谷は思う。
普段はうるさいほどじゃれついてくるくせに、時折日番谷でさえ近づけないような、遠い貌(かお)をする。
「浪漫だと思います? 一度だけ誰かの夢を叶えて、ただ散っていく名も無き花」
そうやって、日番谷に背を向けたまま、真意が読めない問いを投げかけてくるのだ。

日番谷はふん、と鼻を鳴らす。
「そんな浪漫は要らねぇよ」
乱菊は、わずかに微笑んだようだった。
「……強いですね、隊長は」
「何が言いたい」
日番谷の言葉に、乱菊はくるりと振り向いた。その表情から、考えていることは読み取れない。
「ねえ隊長、お願いがあるんですけど」
「何だよ?」
「名前で呼んでくれません? 乱菊、って」

日番谷は、今度こそ本気で乱菊の意図を疑った。だから、思ったままを返した。
「意味がわからん」
乱菊は幾分いつもの調子に戻り、ぽんと放り投げるように返してきた。
「あたし、自分の苗字キライなんですよ。松より菊のほうが好きなんです」
「松竹梅で一番上等だろ。文句言うな」
「そういう問題じゃないんですっ」

脇息にもたれかかったまま、日番谷は面倒くさそうに乱菊を見やった。
「……あたしを乱菊、って呼んでくれる人は、もう誰もいません」
欄干に背中をもたせ掛けた乱菊の細い身体を、下から吹き上げた風が嬲る。
隊長は、想像力が足りなさすぎます。そう、何度か乱菊になじられたことを思い出した。

日番谷の視線は強い。真っ向からその翡翠に見つめられると、射抜かれたように大抵のものは動きを止めるか、目を逸らしてしまう。
しかし乱菊は大きく目を見開き、まるで挑むように日番谷を見つめ返してきた。

「……酔いすぎだ」
やがて、日番谷はそう言うと立ち上がった。そして、その場から踵を返す。
「……隊長」
乱菊の声が追いかけてくる。
「俺は、お前の中に踏み込む気はねぇ。『アイツ』を追い出す気もねぇ」
乱菊が息を飲んだ気配があった。わざと事務的な口調で続ける。
「花は取り戻す。明日からしばらく隊を空けるぞ。ついてこい、松本」


***


「なっなおちゃーん!」
八番隊執務室の扉を開け、京楽はひょいと中に顔だけもぐりこませた。
「なんですか、京楽隊長」
律儀に体ごと振り返ったのは、副隊長の伊勢七緒だった。
「お茶あるかな?」
「ありますよ。ただし、仕事の後の一服用のお茶だけです。お酒の口直しのためじゃありません」
かすかに漂う酒の香りを、瞬時に気づかれてしまったのだろう。
「かなわないね、七緒ちゃんには」
京楽は頭をかきながらのっそりと執務室に足を踏み入れると、隊首席にどさりと腰を下ろした。

「……願いを叶える花、ですか。馬鹿馬鹿しいですね」
ぴしゃりと七緒は切り捨てると、丁寧に淹れられた茶を一服、京楽の前に置いた。
その温度のない声音に、くしゃりと顔をゆがめて京楽は笑う。
「厳しいなあ。ま、そこが七緒ちゃんの素敵な……」
ごほん、と七緒は咳払いして京楽の言葉をさえぎった。
「願いは、自分で叶えるもの。大体、自分で叶えられる範囲の願いしか、人は抱かないものです」
「普通はね」
京楽は、うまそうに玉露を口に運びながら続ける。
「あの花の恐ろしいのはね、人が無意識に持っている願いの『箍(タガ)』をあっさり外してしまうことにある。
どれだけ度外れた願いだとしても、思ってるだけなら無害さ。でも、実現するなら、それはただの感情ではなくなる」

願いの「箍」……と口の中で呟いて俯いた七緒の表情が、複雑に沈んだ。
「……例えば。死んだ者を生き返らせることは?」
「できるね」
顔を上げた七緒の眉間には、くっきりと皺が刻まれている。
「輪廻の理を逆に廻す行為じゃないですか。死神の刑法に照らし合わせれば、間違いなく死罪です!」
「できるかできないか。その質問には、YESと答える他ないさ」
七緒は、言葉を失ったままため息をつく。そして、窓の下を行く人影に、ふと視線を止めた。


「帰られるみたいですね、日番谷隊長と松本副隊長」
「ああ」
頭の後ろで腕を組んで、京楽も七緒の後ろから、外を見下ろす。
点々と雪の上に新しい足跡を残しながら、日番谷と乱菊が歩いてゆくのが見えた。それを見つめる七緒の表情は、浮かない。
「大丈夫なんですか? あの二人に、『名も無き花』の奪還を依頼するなんて。その……酷、じゃないですか?」
「あの二人には、それぞれ願いがある」
京楽は、歌うように口にした。
「間違っていても、何かを犠牲にしても、叶えたい願いが」
「だから」
七緒の言葉には、今ははっきりと切なさが込められている。

「だから、酷じゃないかと言うんです。……それでも、黙って花を持ち帰るんでしょうか」
「自分達の願いを叶えたっていいんだよ、別に。僕はそう思ってる」
「本気で言っているんですか!!」
めったに感情を表さぬ七緒の声が、上ずっている。すぐに、感情を露にしたのを恥じるように、俯く。
「……やっぱり、酷すぎます。それに、叶えられる願いはたった一つじゃないですか」
「優しいね、七緒ちゃんは」
京楽はそれだけ言うと、ぽんと七緒の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ。あの二人は、きっと見つけられるから」
「……え?」
「二人で分かち合える『願い』を」