……眠れない。
何度か寝返りを打った後、日番谷は諦めて目を開けた。
昨日は徹夜だった上、今日も乱菊にたたき起こされた後は通常の任務をこなしたから、一日分の睡眠が足らないはずなのだ。
それでも、布団の中に入っても、睡魔は襲ってきそうになかった。
どう、と音がする。庭の松から、雪が落ちた音だろう。
障子の向こうは夜とは思えないほど明るく、障子にはぼんやりと松の影が映し出されている。
そういえば満月に近かったな、と思い出す。月光が雪に撥ね返り、周囲を明るく見せているのだろう。
行灯に光を灯さなくても、家具や書物の輪郭ははっきりと分かる。
日番谷は腕を伸ばし、煙草盆を引き寄せた。上に放り出してあった煙管を手に取る。
軽く指を鳴らすと、煙管の中に残っていた刻み煙草にぼう……と火がともった。
薄暗い部屋に、蛍のような光が強くなり弱くなり、ゆらゆらと揺れる。
煙草をたしなむ習慣はないが、それでも大きく息を吸い込んで吐き出すと、ざわついていた気持ちが少しは治まる気がした。
ちらりと、昼間煙草を喫っていた京楽の姿が思い浮かぶ。
「……くそ。あの野郎」
気づけば、毒づいていた。
あの男は、一体なんのつもりで、よりにもよって俺と松本にあの依頼を持ちかけてきたんだ?
自分の気持ちを毛羽立たせるのは、あの男の言葉以外の何物でもない。
もうとっくに炎が消え果てたと思っていた何かを、再び燻らせるような言葉だ。
―― 「うまくいくことを願ってるよ」
うまくいく、とは一体どうなることだろう、と日番谷は思う。
もう百年も前に最悪の結末を迎えてしまったのに、今更それを塗り替えられる何があるというのだろうか。
いや。
塗り替えられる……のか。
どんな願いさえも叶えてしまう、禁断の花があれば。
とん、と音を立て、日番谷は刻み煙草の残りを煙草盆の灰の上に落とした。
自分にも、乱菊にも、「願い」がある。
叶わない、叶えるべきではないと知りながらも捨てきれず、心の奥底に秘めてきた「願い」が。
「百年、経ったんだぞ」
今更願って何になる。きつく、目を閉じる。頭の中に何度でもよみがえる景色を、振り払った。
どう、と再び雪が落ちる。日番谷はしばらく瞑目したままでいたが、不意に立ち上がった。
***
素足に草履を引っ掛けただけの姿で、日番谷は森の中を歩いていた。
雪が振ってからまだ誰も歩いていないと見える。新雪に足を踏み入れるたび、さく、と足元が鳴った。
確かにこんな場所、滅多に人が立ち入ることはないだろう。
―― 「もう! そんな格好で歩いてたら、風邪引いちゃうよ!」
不意に声が聞こえた気がして、足を止める。
澄ませた耳に返したのは、ほう、とどこかで鳴くふくろうの声だけ。
ひっそりと日番谷は微笑うと、再び足を踏み出した。
何度も、何度も通った道だ。目を閉じてもそこにたどり着くことはたやすい。
こんな夜中に、と聞く者は眉をひそめるだろうが、今はどうしても、「彼女」に逢いたかった。
そうすれば、この胸の中にくすぶる行き場のない葛藤も、少しはやわらぐのかもしれない。
「……久しぶりだな、雛森」
その姿を見とめると、日番谷は足を止めて微笑んだ。
日番谷を知るものなら驚くほどに、その表情も声音も、やわらかい。
幼い頃、決して短くはない時間、流魂街のひとつ屋根の下で暮らしたことは、日番谷の中で最も平和な記憶として残っている。
年齢から言えば姉だったが、どこか放っておけない妹のようにも思っていた。
春の陽だまりのような笑顔に、何度心をさらわれたことかと思う。
冬の暗闇の中から見上げた彼女は目がくらむほどにまぶしく、それを恋だと思った日もあった。
もう、遠い日の話だ。
「ちょっと、お前のことがうらやましくなったんだ」
あの笑顔の裏に隠されていた激情を見抜けなかった自分は、やはりまだ幼かったのだろう。
全て分かった気がして、分かろうとしながら、それでもやっぱり、何も分かってはいなかった。
藍染からこの上なく残酷に裏切られて尚、彼女は藍染に従うことを選んだ。
その選択が、彼女を何一つ幸せにしないと分からなかったはずはないのに、ただ一つの願いのために、全てを犠牲にした。
……そう、自分自身さえも。
「あの時、俺はお前と、約束したよな」
その声が、かすかに震えを帯びた。
「また必ず輪廻の先で、お前を見つける。そしていつか『再会』した時は、必ずお前を幸せにすると」
その手が、ゆっくりと伸ばされる。
羽のように柔らかく、死のように冷たい雪を払う。
雪がハラハラと舞い落ちた後に、四面体の形をした漆黒の墓標が現れた。
「雛森 桃」
そうはっきりと刻まれた名前に、指を滑らせる。
「もうお前は、どこにもいないのに」