瀞霊廷の整然とした街並の中に、突如現れる巨大な岸壁。
流魂街からもはっきりと見える「偉容」という言葉に相応しい其れは、「双極」と呼ばれていた。
贖罪の丘、の異名を持つこの場所には、かつて死神を処刑する神具が納められていた。
まるで羽ばたこうとする鳥の頭のようにも見える。
嘴(くちばし)に当たる先端の部分は真っ直ぐに天を差し、その下は抉られたような崖となっていた。
さくさくと新雪を踏み、その場に現れた死神が、一人。
月光が、その蜂蜜色の髪を淡い金色に輝かせている。
乱菊の手に、灯りはない。しかし、月光が雪に反射しているため周囲は明るかった。
ふぅ、と吐いた息が白く染まる。消える白を追うように、彼女は宙を見上げた。
空に架かるのは半月。きっぱりと半分が欠けている。
まるで光のかけらのように、白い雪片が舞い落ちる。それは、心がしんとするほどの美しさだった。
眠れない乱菊が、夜遅くにこの場所を訪れた理由は、ひとつ。
彼女のかつての幼馴染が、双極を気に入っていたからだ。
市丸ギン。
百年前、藍染と共に瀞霊廷を裏切り、死神と戦争を繰り広げた男の名だ。
短いといえば短い戦争の間に、双方の間には、二度と埋めがたいほどに深い、血塗られた川が流れた。
しかし、これほどの時が過ぎれば、あの時の激情は影をひそめ、この丘を愛してやまなかった男の、横顔だけが思い出される。
「……ギン」
久しく読んだことのない名前を、唇に乗せてみる。
百年前に市丸が眺めた景色と、今の景色はそう変わらないはずだ。
夜空には数限りない星が、地上には街の灯が。異なる光が、まるで互いに息をしているように明滅する。
あの時、この丘に一人佇んでいたあの男は、空を見上げていたのだろうか?
それとも、眼下に広がる瀞霊廷の街並を、見下ろしていたのだろうか。
それとも、狭間で揺れていたのだろうか。
市丸がいたころ、乱菊は一度もここに来たことはなかった。
なんだか、市丸が見ているものを知るのが、怖かった。
でも、ただ一人で訪れたこの丘は、いつも優しい景色しか乱菊に見せない。
まるで、それが市丸の意志のように。
「どこへ……行っちゃったのよ」
呟きは、乱菊が空へ吐いた白い息と同じように頼りなく消えてしまう。
百年前。
混沌として勝敗が見えぬ情勢の中で、市丸は突然姿をくらましたという。
戦いの終盤から終結に向かうまで、乱菊ははっきりと覚えていない。
腹を抉られる重傷を負い、四番隊に入院していた時期と重なるためだ。
一方で日番谷は、残党狩りのための討伐隊を指揮していた。
自分も消耗しているはずなのに、瀞霊廷に戻るたびに、乱菊の見舞いに来てくれていた。
―― 「隊長。ギンは見つかりましたか?」
苦しい病床から、毎回同じ質問を投げかけていた。
ベッドの脇に置かれた椅子に腰掛けた日番谷は、その度に黙って横に首を振っていた。
その頃の記憶は朧なのに、なぜか日番谷の鋭さを増した顎の輪郭は覚えている。
隊長の背中を護るのは、副官である自分であるべきなのに。疲れた様子が隠せない日番谷を見るたび、焦燥に包まれた。
布団から半ば無意識に手を伸ばし、痩せてしまった頬に指先で触れる。
すると、思いがけないほど優しく手を取られ、布団の中に戻された。
その日番谷の掌は、刀を握り続けたために豆ができ、血がにじんでいて痛々しかった。
そんな映像ばかり、断片的に思い出す。
乱菊の傷が全快し、退院するとほぼ同時に、討伐隊も解散された。
忘れもしない、久しぶりに出廷した乱菊の元に、浮竹が回覧資料を持って現れたのだ。
日番谷は、討伐隊の残処理のため不在だったが、その回覧には討伐隊の戦果が事細かに記されていた。
最後の包囲網を潜り抜け、脱走した破面たちの名前が、ずらりと並べられていた。
討伐隊は、せいぜい十余名。それだけの人数で、よくもここまで討ち取れたものだ。
「市丸ギン 虚圏第三層で戦闘により死亡」
その記述を見つけた時の気持ちを、何と表そう?
棒立ちになった乱菊の肩に、浮竹はそっと手を置いた。
「これは、ここだけの話だけど」
浮竹の表情は、近すぎてよく見えなかった。
「日番谷隊長は、市丸元隊長を討ち取ってないんだ。本人が隊首会で謝罪したから、間違いない。
虚圏の最奥部まで探したけれど、発見することはできなかったと。まあ、あの男のことだから無理もないさ。
ただ、行方不明のままにしておくにはあまりにも、市丸の名前は死神に恐れられている。だから、敢えて『死亡』と公表したんだ」
無言のままの乱菊に、浮竹は力づけるように頷いて見せた。
その「嘘」が明るみに出なかった理由はただ一つ。その後百年間、市丸が発見されていないためだ。
その後、乱菊は一度も日番谷に、直接そのことを聞いていない。日番谷も忘れたかのように話さない。
しかし、どうして日番谷は市丸を討つ前に、討伐隊の解散を許したのだろう。その疑問はずっと残っていた。
疲弊した部下は解散させても、一人でも残党を追うほうが、彼女の知る上官らしく思えた。
もしかすると、自分のためかもしれない。そうとも乱菊は思ってきた。
精神的にも肉体的にも弱っていた当時の乱菊にとって、市丸ギンの死はあまりに重過ぎる。
それが分かっていたからこそ、市丸を追いつめずに手を引いたのではないか?
でもその一方で、乱菊の心を侵す、考えるのも恐ろしいもう一つの推測があった。
「日番谷は本当は、百年前に市丸を発見し、既に討ち取っているのではないか?」
だからこそ、日番谷は全ての任務を追え、討伐隊を解散させたのではないか。
「市丸を討ち取れなかった」と敢えて泥を被ったのが、乱菊に対する優しい嘘だったとしたら?
導き出される結論は真逆でありながらも、どちらの選択も日番谷という男が選びそうに思える。
―― 「隊長。ギンは見つかりましたか?」
あの問いに日番谷がどんな顔をしていたのか、乱菊にはどうしても、思い出せないのだ。
真実はひとつしかない。その真実は、いつも隣にいる日番谷が持っている。
分かっているのに、乱菊には尋ねられないのだった。
***
無意識のうちに、息を止めていたらしい。乱菊はふぅ、と長く重いため息を吐き出した。
「どこへ……」
この百年、市丸のことを思い出さなかった日はなかった。
ふと廊下を曲がった時、突き当たりの角を同時に曲がって消えた誰かの影とか、
酒を飲んでいる時、ふと廊下を通り過ぎた誰かの足音とかに、市丸の気配を感じることがある。
どれだけ市丸が日常に染みついていたにしろ、百年も経てば消えてしまってもいいはずなのに。
市丸の幻は、今でも不意に現れては乱菊の心臓を轟かせる。
―― 「乱菊」。
―― 「ねぇ、ギン。名前を呼ぶんなら、ちゃんとあたしの顔見なさいよ」
名前を呼ばれるほど、不安になった。ああ、うん。曖昧に頷いた市丸は乱菊に視線を戻したがそれでも、いつも別のことを考えているように見えた。
風のように生きた男は、やはり風のように乱菊の人生を通り過ぎていった。
何かに心をとどめるのを嫌ったあの男が、自分のことを思い出すことはもう、ないだろう。
「……っ」
思いを押し込めるように、もう一度息を詰める。
ただ立っているのが耐えられなくて、足を前へと進ませた。
天に突き出した岸壁の嘴(くちばし)の先は、深い、深い闇である。このまま進めば、落ちる。
あと数歩のところで、足を止めた。
きらきらと星が瞬く夜空を仰ぐ。
どこかで、同じように雪を受け、月を見上げているのか?
それとも、もうどこにもいないのか。
市丸の立ち姿を、遠く遠く想像する。吐いた息が震えた。
こんなに心が揺れるのは、昼間聞いたあの「名も無き花」のせいだと分かっていた。
もう一度あの男の隣に立つことを、その花は許してくれるのだろうか?
ああ、でもそんなことをしても、何の意味があるだろう?
次の瞬間、膝がゆっくりと雪の上に崩れ落ちる。
地面から身を起こす気力も、その瞬間には沸いてこなかった。
押し殺した慟哭が、その場に低く響いた。
その姿を遠くから見守る人影が、ひとつ。
日番谷は、祈りを捧げるように地面に突っ伏した乱菊を、じっと見つめている。
やがて、重く長いため息を漏らす。ゆっくりと、瞳を閉じる。