翌朝。高く澄んだ空の下に、山々の輪郭が、青く遠くまで見渡せた。
広大な大地は氷雪に閉ざされ、何かが通った痕跡も、ほとんど見当たらない。
山々の間にへばりつくように、集落が点々と見えていた。
北流魂街四十五番区「落陽」。瀞霊廷からは何千里も離れた場所である。
雲ひとつない空に、影のような黒い点が、音もなく現れた。
それはぐんぐんと大きくなり、一頭の巨大な獣の姿になった。
通常より一回り以上大きいが、それは馬の姿をしていた。
空中を蹴るこの世ならぬ馬は、地上にもその影を残さない。
鬣(たてがみ)も鼻も蹄も全て闇色で、びろうどのような艶がある体毛が、烈しい息づかいと共に揺れていた。
その馬は、背に2人の死神を乗せていた。
ぐい、と手綱を取る逞しい腕が背後に引かれ、馬は足を止めて、いなないた。
ぶるる、と鼻を鳴らすと同時に、湯気が中空に散る。
もちろん、ただの馬ではない。技術開発局によって生み出された、一時間で一千里を駆けると言われる使い魔の一種だった。
「この辺か」
手綱を束ねて持った日番谷が、馬の背から大地を見下ろした。
「どう思う?」
その背後の横座りに腰掛け、左腕を日番谷の腹に回している乱菊に問いかけた。
乱菊はしばらく表情を無くして、眼下を一瞥する。その空色の瞳に、荒れた岩山が映っている。
「血の匂いがします。四十五番、にしては酷いわ」
そうか、と日番谷は短く答えた。
流魂街は概して、割り振られた番号が大きいほど治安が悪い。
乱菊は、八十八番区の出身だった。最も悲惨なエリアのひとつと言ってもいい。
そのために、同じ匂いがする場所は、その場に身をおくだけでなんとなく分かるのだ。
「これも『名も無き花』のせいなのかもな」
そう続けた日番谷は、馬の手綱を引いた。
「そろそろ降りるぞ。準備はいいか」
「あ、ちょっと待ってください!」
乱菊は、背中の帯から斬魂刀「灰猫」を引き抜いた。
ひゅん、と一振りすると、長脇差くらいの長さはあったその刀が、小さな針のような大きさになる。
さらに一振りすると、小さな飾りが先端についた、簪(かんざし)のような外見に変化した。
それを口に銜(くわ)えると、乱菊は蜂蜜色の髪を両手で器用に結い上げ、簪一本で頭の上にまとめた。
その格好を見た日番谷が、ため息を漏らす。
「その格好じゃ、雪原歩けって言っても無理そうだな」
「あ、分かります?」
乱菊は自分の格好を見下ろした。
一見すると地味な紫の着物だが、よく見れば精緻な紋様が施されていた。
襟元から覗く襦袢は鮮やかな赤。その裾が揺れるたび、紫の合間に赤がちらちらして艶かしい。
「適当なところに連れて行け、と?」
「隊長、推測を口に出して確認するような男は、もてませんよ」
返事の代わりに、呆れたような息をひとつ付き、日番谷は乱菊に背を向ける。
そして馬のわき腹を軽く蹴った。それだけの動きで、馬はゆっくりと宙を駆け始める。
乱菊は、日番谷に掴まりながら背後を見やった。
どこまでもどこまでも、地平線まで延々と続く荒野が広がっている。
ところどころ岩場が連なる以外は、草一本ない大地は白く凍てついている。
空も白く、一人でここにいたならば絶叫したくなるくらいの孤独が、その空間には広がっている。
無意識のうちに、ぎゅ、と日番谷の着物を掴んでいた手に力を込めていた、らしい。
「どうした?」
前を向いたまま、日番谷が声をかけてきた。
「何でも、ないです」
首を振り、日番谷の背中を見上げる。不思議だ、と思った。
これほどの空虚の中なのに、この背中ひとつあれば、孤独を全く感じない。
いったいいつの間に、乱菊の中でこれほどの存在感に育ったのだろう。思わず、思ったままを口にした。
「本当に大きくなったなぁって思って」
「親みてぇなこと言うんじゃねぇよ、雛森じゃあるまいし」
雛森。
さらりと口にした日番谷を、乱菊は思わず、凝視する。
この百年間で、日番谷が雛森の名前を口にしたのは、初めてではないだろうか?
「何だよ」
首だけで振り返った日番谷の表情は、穏やかに凪いでいる。
ああ、あの顔だ。不意に、そう思う。
百年前、日番谷が雛森にだけ見せていた、あの微笑だ。
「あーあ」
乱菊は、あっけらかんとため息をついた。
「あたし花を手に入れたら、雛森の代わりになりたいって願おうかなあ」
「? なんで」
「隊長に、大事にしてもらえるから」
「何言ってんだ」
日番谷は、苦虫を噛み潰したような顔をした。ふふ、と乱菊は笑う。
「言ってみただけです」
「当たり前だろ。下らねぇ願いで花を台無しにしやがったら、ひっぱたく」
ひどぉい、と声を上げて抗議したが、日番谷は返事もしない。
また前を向いてしまった日番谷の背中を見て、思う。
どうしてこんなに、強く在れるのだろう。あんな形で、あんなに大切にしていた女(ひと)を失ったのに。
一時期とは言え、日番谷を廃人にしたあれほどの疵と、今の日番谷がどのように折り合いをつけているのか、乱菊には分からない。
ただ、日番谷には分からないのだろうと思う。
昨日の乱菊が、市丸を思う余り一睡もできなかった気持ちを。
乱菊はまだ、市丸の名前を誰かの前で口にすることさえ、できずにいる。
木も生えていない岩肌の陰に隠れるように、小さな集落が見下ろせる。
そこまで来て、日番谷は馬の足を止めさせた。
戸数は数十レベル、百には届かないが、こんな荒野にしてはまとまった戸数だった。
日番谷は馬を操り、雪の積もっていない大地に降り立った。
先に馬の背から飛び降り、馬上の乱菊に向かって手を差し伸べる。
薄い青色の着物に、灰色の袴を纏っていた。腰に氷輪丸と脇差を帯びているのが、長身によく映えていた。
「……やっぱり、訂正します」
「あん? 何を」
「こんな時に女に手を差し伸べられる男は、もてますよ」
「バカか」
乱菊が日番谷の手を取り、ふわり、と足元に飛び降りる。
翡翠の強い瞳が、乱菊をまっすぐに見据える。
「松本、お前はこの集落に降りて、花守の里に潜入しろ。俺は対抗勢力の朱雀に加わる。
双方はじきにぶつかる。その混乱に乗じて『花』を奪うぞ。また連絡する」
「はい」
「花守は、任せたぞ」
任せた。日番谷にそう言われる度に、誇らしくなる。
死神が何千人といる中で、日番谷がそう言うのは、自分だけだと知っている。
これ以上、何を望もう?
乱菊はもう一度、大きく頷いた。