鮮やかな蝶の羽が、音もなくはためく。わずかな風が、桃色の花弁を揺らしてゆく。
水音が、さらさら、さらさらと絶え間なく続いている。
地面で何かを探していた一匹の栗鼠(りす)が、ピクリと鼻先を震わせると同時に、華奢な二本の前足を揃えて立ち上がった。
そして、目の高さに広がる一面の花景色に、油断のない視線を走らせる。
自分のほうに向かってくる巨大な影を目にすると、同時に顔を引っ込めて姿を消した。

花の中を、ゆったりとした足取りで歩いてきたのは、初老の男だった。
短く刈った髪は真っ白になっており、その顔に縦横無尽に皴が刻まれている。
羽織袴に身を包んだその男はゆっくりと瞳を閉じ、花景色を渡ってくる風を愉しむかのように、立ち尽くした。
「父上!」
廊下を足袋が滑る静かな音と共に、男を呼ぶ声がする。呼ばれた男は、ゆっくりと振り返った。


20メートルほど離れた場所にある荘厳な屋敷の廊下から、若い男が顔を覗かせたところだった。
一面の花景色を見やり、動きを止める。わずかに、形のいい眉を顰めた。
「葉月(ハヅキ)か」
「日を追うごとに花が増えますね。これでは、どれがあの『花』なのか見当もつかぬ」
「かまわぬさ。『花』は確かに、ここにあるのだから。来るべき時が来れば、自ずと分かる」
「それなら、良いのですが」
漆黒の髪を襟元で断ち切った、女のように肌の白い、唇の赤い男だった。
二十代か、三十代をとうに越しているようにも見えた。
感情らしい感情もなく花畑を見回した無表情は、まるで人形のように整っている。
切れ長の瞳が、父親に向けられた。

「何用だ」
「弟……如月(キサラギ)から、明日戻ると言伝が有りました」
「そうか」
その言葉に、男は息をついた。そのため息は、安堵のようにも、不安を吐き出したようにも見えた。葉月は父親を見下ろす。
「『花』が開くまで日がありません。朱雀を初めとする賊の動きが活発化しております。
弟がいれば万全かとは思いますが、こちらも傭兵を使い、迎え撃つべきでしょう」
「……分かっておる」


「……そういえば」
表情険しく、廊下に上がってきた葉月と父親が向かい合う。
「さきほどですが、街で兵衛(ひょうえ)たちが女性を捕えて来ました。
町娘とは思えぬ身なりで、とても美しい、のでしょう。兵衛たちがそう言っていましたから」
「またか、あの男どもは」
苦々しく吐き捨てた父親にも動じることなく、淡々と続ける。
「無傷で屋敷に連れ戻るよう、命じておきました」
「連れ戻った? なんのために」
「父上。希望も目的もなく、ただ本能のままに生きる者達の戦意を高める方法を、ご存知ですか?」
その艶やかな唇が、初めて微笑んだ。



「ちょっと! 手荒にしないでよね!」
2人が屋敷内に足を踏み入れた途端、聞きなれぬ女の声が、廊下を伝って聞こえてきた。
その声は強気で、屋敷内によく通った。
「芥(カイ)様! 葉月様!」
廊下の角を曲がったとき、振り返った男が2人を呼ぶ。
「兵衛。何をやっておるのだ」
芥、と呼ばれた父親が、兵衛の後ろに何人かの男達がいるのを見て、肩越しに視線を寄越す。

「大人しくしろ、女!」
筋骨逞しい男達の間にはさまれて、金色の髪が見えた。
「ふざけんじゃないわよっ、いきなりこんなとこに連れてきて、どういうつもり?」
その場にはあまりにそぐわない、艶やかな女の声だった。
女は男たちに囲まれても臆する様子もなく強気に言い放つと、肩を掴んでいる男の手を振り払おうと身をよじった。

「何を……」
女を拘束する手に力が入った拍子に、簪の先が男の体に当たって髪から抜ける。
豊かな蜂蜜色の髪が波打ち、背中に流れた。目にした芥がハッと息を飲むほど、その色彩は薄暗い廊下で鮮やかにうつった。
「手荒な真似をするでない。手を離せ」
芥がとっさに投げかけた言葉に、男達は不服そうに女から手を離す。
もみくちゃにされていた女は、簪を床から拾うと、スッと立ち上がった。
「あんたが、この屋敷の当主?」
豊かな髪をキュッとまとめなおし、慣れた手つきで簪を挿しなおす。明るい青色の瞳が、まっすぐに芥を捕えた。

花のような娘だ。芥が一番初めに思ったのは、それだった。
金色の花弁と、蒼い雌しべを持つ極上の花。
地味な紫の着物を纏っているが、華やかな女の外見をグッと引き締め、より美しく見せている。
よく見れば、その着物には精緻な文様が施され、決して安価なものではないのが見て取れた。


「見事な上玉でしょう? 近くの町でフラフラしてるのを拾ったんですよ」
兵衛が、下卑た笑みを顔中に広げながら、女の胸元を親指で差して見せた。
着物の上からでもはっきりと分かるほどの質量を湛え、着物の合わせ目から豊かな白い乳房が覗いている。
「今からやってくる傭兵どもへの、餌にいいかと思いまして。士気を上げるくらいには使えるでしょう」
チラリ、と女が刺すような視線を背後の男に向ける。

「……私は芥、という者だ。おぬしは何者だ。なぜ、そんな格好でこんな場所にいる」
熱しかけた空気に水を差すように、穏やかと言っていい口調で、芥が娘を見返した。
「……あたしは、菊(キク)」
娘の艶やかな唇が、言葉を紡ぐ。
「普通、おぬしのような娘が一人でふらふらできる場所ではないのだ、ここは。どうやってこの街に来たのだ」
それは、当然といえば当然の問いだった。この周辺は常に戦場といっていいほど治安が悪い地域なのだ。
男は戦いに明け暮れ、女は男に身をやつして生きるか、男の庇護を受けるか玩具となって生きながらえるしかない、過酷な地。


娘はしばらく無言だったが、やがて蓮っ葉に言い捨てた。
「長い間、お仕えしてる旦那はいたわよ。年下だったけど、アンタ達に比べれば月とスッポンくらいにいい男だったわよ。でもね」
わずかに瞳を細め、さばさばとした口調で続ける。
「ずーっと、もうどこにもいない女(ひと)ばかり見てるんだもの。逃げてきちゃった」
芥は、その答えにしばし無言だった。葉月が、ちらりと視線を父親に投げる。

「愚かな娘だ。その男の庇護下におれば無事に済んだものを。一歩出れば虎の巣だということを、誰もおぬしには教えなかったのか」
その頃には、廊下の向こうから野卑な足音が聞こえてきていた。娘も、そちらのほうに視線をそらせる。
十人や二十人のものではない、おそらく五十人に近い人数だ。
「……どういうことよ」
「すぐに分かるさ。来い、女!」
ぐい、と娘の腕を捻りあげ、兵衛が娘を引きずるようにして背を向けた。
曲がりくねった廊下を抜け、母屋のほうへと向かう。

縁側の向こうに広がる庭園に目をやった娘は、両目を見開く。
その場にはあまりにもそぐわない、血の匂いが漂っていた。
そこにいたのは、何十人もの武装した男達……一目で、盗賊や傭兵の類だということが分かった。


***


「……こりゃ、けっこう厄介ですよ。隊長」
「なにか言ったか?」
兵衛が顔を向けてくる。その息の生臭さに、娘……乱菊はツンと顎を逸らした。

こういう時、男ほど無邪気な生き物はいない、と乱菊は思う。
女を見つければ、自分より弱いと疑いなく思い込んでかかる。
流魂街において「自分より弱い」ということは、何をしてもかまわない、ということと同義だ。
まるでモノを扱うように拾われ、連れ込まれたのはむかっ腹が立つが、結論として潜入を果たしたのだから文句は言うまい。

入ってきた男達の数は、合わせて50名を少し越える程度。
全員が武装し、腰に刀だの鎌だの斧だのをいくつも差している。
どれも大した業物ではないが、どれも実戦に使い込まれているのは間違いなかった。
血と、汗と、その他なんだか分からぬものが入り混じった、なんともいえない悪臭がその場に漂った。


「おい、なんだこの場違いな女は?」
男達の視線が、立たされた乱菊に向けられる。
顔を、首を、腰を這い回る男達の視線に、乱菊はツバをはきかけてやりたくなった。
とんでもない下種な男たちだということだけは十分に分かった。
「街で拾ったから、連れてきたのですよ。女の使い道など、ひとつです」
―― なんて嫌な奴。
初めて乱菊の前で発言した葉月に、乱菊は顔を向ける。その途端に、そう思った。
何がどう嫌悪感を呼ぶのかは分からない。
端正なその顔立ちは美しくはあるし、その硬質な空気は日番谷と似通うところがないでもない。
ただ、生理的な理由としかいえない感情に、乱菊の二の腕が粟立つのが分かった。

「話は聞いておるな!」
乱菊は、兵衛の声に我に返った。
「花守家に牙を向く賊、『朱雀』を討ち取って来い。報酬は金と、この女だ」
「やっぱりそう来ねぇとな!!」
「この女好きにできるのか、楽しみだぜ」
どいつもこいつも。流魂街ってところは、全然変わっていないと乱菊は熱狂する男達を見下ろして、思う。
流魂街に住む男が求めるのは金ではない。そんなものは、奪えば手に入るからだ。
名声や権益などでもない。そんなものは生きていく上でモノの役にも立たないと思っているからだ。
本能で生きる彼らが求めているのは、女。それも、そう簡単には手に入らない、極上の女。
そして、そんな男の手に落ちた女の行く末は、判を押したかのように一緒だ。


「もう飽き飽きだわ、この空気」
乱菊はひとりごちた。
舌なめずりするような視線を向けられて、恐怖するほど初心ではない。
乱菊も死神になる前は、この空気の中で生きるのを余儀なくされてきたのだから。
そんな乱菊を、上座に座った芥だけが、冷静な目線で見つめていた。