その日の早朝、藤の里周辺では多くの鎹烏が慌しく空を舞っていた。
藤の里の住人たちは皆、不安そうにそれを眺めていた。経験から、鎹烏を多く見る日は、鬼殺隊に緊急事態が起こっているとを知っていたからだ。
たとえば、鬼殺隊の幹部の死亡、だとか。
「死亡! 冨岡義勇、死亡! 同行し生き残った竃門炭治郎一名が蝶屋敷に先ほど帰宅。繰り返す――」
果たして、その一報は柱たちをたたき起こすことになった。


***



前日の夕方。水柱・冨岡義勇と弟弟子の竃門炭治郎の二人は、高尾山のふもとの山中を歩いていた。
「うわぁ。紅葉、綺麗ですね」
一面に広がる紅葉の赤に、思わず声を上げる。
「そうだな」
義勇は淡々と返すと、さっさと先に立って歩いていく。
知らない人間から見れば、機嫌が悪いか自分のことが嫌いなのかと思うところだが、義勇の性格を知っている炭治郎は、ニコニコとその後を追っていく。

「村田さん、この山のどこかにいますかね……無事だといいんですが」
炭治郎の言葉に、義勇はふと足を止め、山を見渡した。
鬼の目撃情報を受け、鬼殺隊員の村田がこの場所に向ったのは、3日前のことだと聞いていた。
しかし昨日戻ったのは、彼の鎹烏だけだった。分かったことは、村田が鬼と遭遇したこと。そして翌朝の時点で行方が分からなくなっていたことの2点のみ。

必ずしも柱の出撃が必要な案件ではなかった。しかし村田の探索と鬼の掃討を申し出たのが、義勇だったのだ。
何事も受身の義勇にとっては、珍しいことだった。
「村田さんは、義勇さんの同期だったんですよね。心配ですよね……」
炭治郎の言葉には返事をせず、再び歩き出す。
匂いで相手の感情が大体分かる炭治郎でさえ、その無表情が何を示しているのか図りかねた。
―― もしかして、それほど心配でもないのかな……? いや、心配なのかな……?
炭治郎とは比べ物にならないほど強いのに、それでもなぜか危なっかしくて放っておけない。
だから、他に任務が入っていなかった炭治郎は、頼まれもしなかったのについてきたのだった。


鬼は、夜にならなければ現れない。
炭治郎が見つけてきた山小屋で、ふもとで握ってもらった握り飯を口にしながら、夜を待った。
―― 良かった。今日は満月に近いな……
夜になっても葉が色づいていることが薄ら分かるほどに、月光が明るい。
鬼殺隊は皆夜目が利くが、真っ暗闇で提灯片手に戦うわけにはいかないから、今夜の月はありがたかった。
この山は、炭治郎が生まれ育った山とは少し違う。それほど急峻ではないし、木々や動物の気配も異なる。
でもどこか故郷を思い出されて、炭治郎は山での任務が好きだった。
―― 寂しがってないといいけど……
藤の里においてきた、妹の禰豆子のことを思い出す。鬼を倒したら、何かお土産を買っていってあげよう、と考えた。

「……行くぞ、炭治郎。気を抜くな」
何の気配もなく、義勇がすっと隣を通り抜けた。腰に帯びた刀の柄に、手を携えている。
この人はやはり、鬼殺隊最強の九人のうちの一人なのだ、とその背中を見て思う。
「はい!」
自分は到底義勇にはまだ及ばないけれど、ついてきたからには役に立たなければ。
その思いとは裏腹に、鬼の行方は杳として知れなかった。気配もせず、匂いもしない。
当初の目撃情報があった場所からかなり範囲を広げて探索したが、夜明けが近い頃合になっても、鬼は見つからなかった。

いったん麓に戻って出直すことになるか、と炭治郎が思い始めた時だった。
「! 義勇さん」
炭治郎が突然、先へ行く義勇の袖を掴んで引き止めた。
「何だ? 何か匂いを感じたか?」
「……なんだろう。着物の匂い……?」
押入れから出したばかりの、樟脳交じりの着物の匂い……とでもいうのだろうか。
日常的な匂いではあったが、こんな人里はなれた山奥では、あまりにも違和感があった。

その時だった。山の風に紛れて、かすかな音が聞こえたのは。
義勇と炭治郎は顔を見合わせた。
「……女の子の声……歌ってる?」
「行くぞ。普通の人間のはずがない」
「はい!」
淡々とした義勇の声に、炭治郎は力強く頷いた。



―― 勝ってうれしい はないちもんめ。負けてかなしい はないちもんめ。
―― 鬼がいるから行かれない
―― あの子がほしい あの子じゃわからん
―― 相談しよう そうしよう……

「はないちもんめ、ですね……」
声のするほうに駆けながら、少しずつ大きくなる歌声に、炭治郎は戸惑った声を義勇に向けた。
きょうだい達とよくやっていたから、歌もルールもよく知っている。
「義勇さん、知ってます?」
「知っている。いつも最後まで残されていたから」
「……!」
思わぬトラウマに触れてしまったらしい。最後まで指名されず、ぽつんと一人で残されている義勇少年を勝手に想像して、炭治郎は胸が痛くなった。

「……と! ここです! ここから匂いがします!」
炭治郎は立ち止まった。木々が途切れ、小さな広場のようになっている。
歌は、その場所から聞こえているようだった。義勇が機敏な動きで顔を上げ、同時に刀の鯉口を斬った。
「―― 鬼か」
その声は冷静で、さきほどまでと変わらない。炭治郎も慌てて、樹上を見上げた。
「…… 女の子?」
紅葉の枝の上にちょこんと腰掛けていたのは、まだ4歳くらいの女の子だった。黒髪を肩の上でばっさりと切り揃えていて目が大きく、、産屋敷家の4人の女の子たちにどことなく似ていた。
小さな声で、はないちもんめの歌を口ずさんでいる。義勇と炭治郎の二人を見下ろして、にっこりと笑った。
鬼どころか普通の女の子にしか見えない。しかし女の子が夜にこんな人里はなれた山の中で歌っているはずがない。
月光にその顔が照らし出された時、炭治郎はぞっと鳥肌が立った。その目には、下弦の伍、の文字が刻まれていた。

―― そんな馬鹿な。こんな女の子が……?
炭治郎の当惑をよそに、女の子はあどけない笑みを浮かべたまま言った。
「はないちもんめ、やろうよ」
「断る」
一言のもとに義勇は断った。そして淡々と問うた。
「ここに鬼殺隊員が一人、来なかったか?」
女の子……下弦の伍の目に、見る見る涙がたまった。そして、声をかける間もなく、エーンと声を出して泣き始めた。
―― え? エーンってそんな……
「一緒にやろうよ。ずっと、誰かが来るのを待ってたのに……このおじさん怖いよ」
「おじ……」
義勇が固まった。
「分かった、分かった! 一度だけだよ」
亡くなった妹と顔が重なり、とっさに炭治郎はそう言っていた。義勇が何を言っているんだという目でこちらを見たが、振り返らなかった。
鬼とはいえ、元々は人間。しかもこれほど小さい頃に何らかの事情で鬼にされてしまったのだろうから、不憫だという気持ちが憎しみよりも先についた。
鬼になった妹を持ち、鬼の気持ちを理解したい、救いたいと思っている炭治郎には、
「鬼だから」というそれだけの理由で斬り捨てる気にはなれなかった。

「……分かっていると思うが」
一歩引いて義勇が言った。
「ええ、義勇さん。一回だけです」
「俺は入らない」
「そっちですか! 俺がやりますから見ててください」
「本当?」
女の子は声を弾ませ、3メートルはある樹上からひょいと飛び降りた。その動きは到底、子供のものではない。
しかし、今まで炭治郎たちが戦ってきた鬼とは、全く違う。手足は華奢で、戦闘力は全くなさそうに見える。

二人で向かい合って、はないちもんめをやるのは妙な具合だった。
歌っていると、まるで小さな子供の頃に戻ったような気持ちになってくる。
「下弦の伍さんが欲しい」
そんなことを歌う日が来るとは人生は分からない、と妙に達観して思う。一方で下弦の伍はにこりと笑い、義勇を指差した。
「義勇が欲しい」
「良かったですね義勇さん! 指名されましたよ!」
というよりも、義勇の名前しか分からなかったためだろうが。戸惑う義勇をよそに、炭治郎は前に出た。下弦の伍が
「ジャンケンしよう。そうしよう」
と歌いながら手を出してきたからだ。特に何も考えず、炭治郎も応じた。下弦の伍がパー、炭治郎がグーだった。
「ああ、負けちゃった」
炭治郎が何気なく口にした時だった。背後で、ばたん、と音がした。

「義勇さん!?」
振り返ると、義勇が仰向けに倒れていた。炭治郎が慌てて駆け寄り、上半身を助け起こしたが、ぐったりとしていて力が入っていない。
「えっ、なっ、どういうこと? 義勇さん!」
いきなりの事態に頭が追いつかない。炭治郎が混乱していると、
「ここだ」
背後から、義勇の声が聞こえた。
「ぎ……」
そちらを見やり、炭治郎は絶句する。女の子の後ろの地面で、義勇が座っている。その姿は、わずかに透明がかり、背後が透けて見える。
倒れた義勇と、三角座りをしている義勇を、炭治郎は交互に見た。
「まさか。まさかとは思いますが義勇さん……」
「どうやら、死んでしまったようだ」
「えええ!!!」
炭治郎は絶叫した。悲しむべきところなのだが、状況がシュールすぎて精神的についていけない。
「すまん冨岡、巻き込んで……」
かすかに声が聞こえた。そちらのほうに目をやってみると、コナラの木に隠れるように、村田がこちらを見ていた。
同じように背後が透けているのを見て、炭治郎は頭がくらりとした。
「はないちもんめに負けると、命を彼岸にもっていかれるみたいなんだ……」
「早く言ってください村田さん……」
今まで見ていたならそれを言う時間も余裕もあったろうに。でもそれを言っても始まらない。

下弦の参はにこにこと笑っている。
義勇は三角座りをしている。
村田は青い顔をしている。
炭治郎は混乱している。

義勇は無表情のままだったが、さすがにこのままではいけないと思ったのだろう。炭治郎を指差した。
「その鬼を斬れ」
はっ、と炭治郎は我に返った。
確かにその通りだ。この下弦の伍を斬れば二人が戻ってくる保障はどこにもないが、だからと言ってここに突っ立っていても埒が明かないのは村田を見ても明らかだ。
炭治郎は刀に手をかけ、一気に引き抜こうとした。しかし、
「あれ?」
刀が、抜けない。炭治郎は焦って全力をこめたが、鞘と刀が中でくっついてしまったかのように動かない。

「炭治郎! 斬れ! 斬ってくれ!」
村田が懇願する。下弦の伍はそんな炭治郎を眺めていたが、口を開いた。
「あたしが見ているところでは、はないちもんめのルールにないことはできないよ」
その時。朝一番の光が、山の中に差し込んだ。次の瞬間、下弦の伍と義勇、村田の姿は、ふっ……と霞のように掻き消えた。
後には、ぽかんとした炭治郎ひとりが残された。

……それが、今朝がたの話だった。