十番隊の隊長となって百余年。
もっとも体力的にも、精神的にも消耗したのは、間違いなく百年前に勃発した藍染の反乱だ。
その中でも、末期に結成した討伐隊の記憶は今でも生々しい。

虚圏の奥まで逃げ散った破面たちを追い詰め、一体一体倒してゆく。
砂漠に慣れていない死神たちにとって、それは困難を極める作業だった。
一歩進むごとに崩れ落ちる砂、砂、砂。
破面との戦いよりも、その熱くて乾いた砂の記憶ばかりが残っている。

心の奥底にしまいこんだはずの、百年前の記憶がふと甦ったのは、
どこか砂のようにとらえどころがない、少女に会ったからかもしれない。


「……冬獅郎。大丈夫か」
「日番谷隊長だ」
岩場の日陰に身体を投げ出し、涼を取っていた日番谷に、背後からやってきた声が呼びかけた。
「お前こそ、へたばってんじゃねぇだろうな」
「どってことねぇよ」
振り返ると、黒崎一護が岩壁に手をかけ、日番谷を見下ろしていた。
その声が、掠れている。日番谷は軽く掌を宙に差し出す。すると、空中に5センチほどの氷のカケラが現れた。
「食ってろ」
背後に投げると、一護は器用にそれを口で受けた。
うっめぇ、と声を上げる一護に、日番谷は思わず、苦笑する。

「ぼろっぼろだぜ、お前」
「お前に言われたくねぇよ」
改めてそう言われて、日番谷は不機嫌そうに言い返す。
何しろ碌に風呂にも入らず着替えもせず、戦いっぱなしなのだ。
乾燥しきった気候のせいで、汗など掻いた傍から乾燥してしまうのだが、着物の消耗は早かった。
互いに着物の裾は擦り切れているし、肌も泥や砂で汚れている。

夕刻に迫り、熱風に混じって少しずつ、ひんやりとした風が吹き続けている。
これから夜になれば、今度は恐ろしく気温が下がってくるのだ。砂に加えて、体力を奪う原因になっていた。
「こっからは、泥試合になるぜ。互いに卍解や帰刃する力も、もうほとんどねぇだろ」
「殴り合いか? ガキの喧嘩みてぇだな……」
「てめぇは、得意だろ」
「まあな」
脇に転がしてあった氷輪丸を見やった。連日の戦いを経て、細かい傷があちこちに見えるが、それでもまた戦えるだろう。

「ああー風呂に入りてぇ! マックとかゲーセン行きてぇ!」
「……お前、死にそうにねぇな」
岩の向こうを仰ぎ見たが、いくつかの霊圧は全く動かない。日番谷は眉を顰めた。

「阿散井は? 斑目と綾瀬川はどうした。死んでねぇだろうな」
「あぁ。あっちのほうで伸びてるけど、平気だ」
討伐隊を率いるに当たって、死神の中でも最も、肉体的にも精神的にも屈強な者たちを選んだ。
人選は間違いではなかったらしく、にわか作りの割にはよく機能していると思う。
当初の予定では、黒崎一護はメンバーに含まれていなかった。

「ん? 何見てんだよ」
「別に」
「……本っ当に可愛げがねぇ奴だな」
隊長に可愛げを求めるほうがどうかしている。青筋を立てかけたが、フン、と鼻を鳴らして無視した。
全く認めたくはないが、誰一人死人が出ていないのは、この男の功績が大きい。


「……冬獅郎」
不意に、真面目な声で呼びかけられ、日番谷は首だけで振り返る。
「お前、自分から討伐隊の指揮を買って出たんだって? なんでだ」
その真摯な目の光は、とっさに話を逸らそうとした日番谷を逃がさない。
ややおいて、日番谷は頭を掻いた。
「……お前に言う必要が? お前こそ、何で参加した」
絶対に俺をメンバーに入れろ。入れなきゃ無理やりついて行く。
そう言われて、半ば押されるように名簿に入れたのだ。
黒崎一護は人間だ。ここまで、死神同士の戦いに首を突っ込む必要はなく、
現世に被害が及ばないと分かった時点で、手を引いてもいいはずだった。

「……乱菊さんに、頼まれたんだよ」
「なに?」
日番谷の脳裏を、四番隊で床についている副官の顔が思い浮かぶ。
決して軽傷ではなく、心に負った傷も深いはずだ。
誰にも言っていなかったが、しょっちゅう夢に現れるくらいには心配していた。
一護は、日番谷をぐっと見据えたまま言った。
「……お前が。桃さんの後を追うんじゃないかって。もし追いそうになったら止めてくれって、頼まれた」
「……馬っ鹿馬鹿しい」
とっさに言い返したが、心の底では、ギクリとしていたのは否めない。
それが、嘘だと今の自分に言い切れるだろうか?
乱菊には、自分が最もどん底だったころの姿を、見せてしまっている。
そう思われるのは、無理もなかった。

「……今は、ただ。戦っていたいだけだ」
それは、紛れもない本心だった。戦い以外のことは、頭から追い払ってしまいたかった。
「……俺は、お前と一緒に戦うぜ。最後まで」
「……あぁ」
頷いただけだが、感謝の気持ちは伝わったはずだと思う。
「心配するな、雛森のあとを追ったりしねぇよ。……そもそも、追うことなんて、もう誰にもできねぇ」
「……冬獅郎」
一護が、眉間の皺を深めた時だった。
日番谷は、不意に身を起こす。とっさに、脇に転がしてあった氷輪丸の柄を掴み取った。


「どうした?」
駆け寄ってきた一護の表情が険しい。日番谷は霊圧を探ったまま、分からない、と首を振った。
「何かいる。様子を見てくる」
「なら俺が行く! お前は大将だろ、得体の知れないもんに動くなよ」
「いや……俺が行く」
日番谷が繰り返すと、一護は怪訝そうな顔をしたが、それ以上無理に自分が、とは言ってこなかった。

この、蛇のような気配。霊圧としてはっきりとは感じ取れないが、日番谷には身に覚えがあった。
「三十分、俺にくれ。もし戻らなければ、先へ行け」
「冬獅郎っ!」
責めるように呼ばれたが、答えるより先に、日番谷は瞬歩で姿を消した。



近づくにつれ、相手の正体が少しずつ、露になる。
確信したと同時に頭をよぎったのは、紛れもない苛立ち、怒りだった。

冗談じゃねぇ。

お前の幼馴染は、深く傷ついているけど生きている。
そして、お前のことをずっと、待っているんだ。
それなのにお前は、こんなところで何をやっている?

ざっ、とわざと足音を立て、その地に降り立つ。
そこは、虚圏には珍しい、岩に囲まれた場所だった。
久しぶりに、足が固い地面を踏んだために違和感がある。

「……久しぶりやねぇ。十番隊長さん」
聞きなれた声に、日番谷は瞳をキッと険しくする。
岩場の陰から、ぬぅ、と現れた銀髪の男を、睨み据えた。
翡翠と紅蓮の瞳が、交錯する。
「……やっと見つけたぜ。市丸」


***


パチッ、と炎がはぜ、日番谷の意識は現在に引き戻された。
二日間まともに眠っていないせいで、うとうとしていたらしい。
―― 百年、か。
樹木のように長い死神の寿命の中でも、決して短くない時間。
百年もの間、会っていない男と交わした言葉が、どうしてこれほどまでに生々しく甦るのだろう。
ここが朱雀のアジトであることも忘れ、日番谷は目の前で燃える炎を見るともなしに眺めていた。

―― 「十番隊長さん。アンタに、ひとつ頼みがある」
市丸ギンは、確かにあの時、日番谷に向かってそう言った。そして、約束を交わした。
その約束が、そのまま将来の自分に跳ね返ってくることになるとは、夢にも思わなかった。
あの男の中では、全て織り込み済みだったのだろう。あの約束は無効だと蒸し返すことも、もうできない。
てめえのそういう卑怯なところが、嫌いなんだよ。日番谷は、心の中で吐き捨てた。

自然と、遠く花守の地にいるはずの、乱菊のことが思い浮かんだ。
どんな時でも凛とした姿勢を崩さず、弱さを見せないあの女を、昨夜あれほど泣かせた者の正体を知っている。
心の疵の深さを知りながらも、自分に慰める権利は無い。願いを止める権利も無い。そう思った日番谷は、嘲笑う。
乱菊から市丸を奪ったのは、他ならぬ自分なのだから。


「おーい、新入り! 飯があるぞ!」
耳元で声が聞こえても、とっさに頭に入ってこない。ぼうっと炎を見つめたままでいたらしい。
「酒もあるぞ! って、やたら静かな新入りだな」
「さっき入った新入りの癖に、口も利かねぇってどう思う? 態度でかすぎだろ」
「偉そうだから大将じゃねーの? おい大将!」
「大将じゃねえなら、閣下か?」
「隊長!」
は、と日番谷は顔を上げて、自分の周りを取り巻いた朱雀の一同を見返した。
「おい、隊長らしいぜ」
「違ぇよ、バカヤロウ……」
否定する言葉に力が入らなかった。というか、我ながらお粗末な演技力だと思う。これで素性がばれたら目も当てられない。

「ホラ、新入り。食わねぇと、力入らねえぞ」
炎に立てかけるように差してあった串を取り、リョウが手渡してきた。
受け取ってみると、なにやら分からない獣の肉が乱雑に突き刺してあった。
日番谷の視線は、リョウの腕に寄せられる。戦いの最中は気がつかなかったが、その腕といい、顔といい、縦横無尽に古傷が残っていた。
戦闘中も兄貴分のような役割を果たしていたが、歴戦を経てきた戦士らしい。

日番谷が串を受け取ると、リョウは日焼けした顔に笑顔を浮かべた。
「後で、手合わせしてくれよ。お前、剣術使いだろ?」
「そうなのか? 全員体術でぶちのめしたのに?」
身を乗り出してきたのは、ジン。戦場を一歩離れれば、あどけなさを十分に残した、無邪気な表情が似合う少年だった。
「その長いほうの刀。めちゃくちゃ使いこなしてるだろ。柄見たら分かるよ」
「……まあな」
否定しても始まらない。日番谷は、柄を見下ろしあっさりと認めた。
柄糸は、毎日握ってきたために磨り減って光って見えるし、鍔にも歴戦の傷跡が残っている。これで戦いの経験がないというほうが怪しい。

ジンが、手に持っていた金串の一本を地面に突き刺し、今にも立ち上がりそうに刀を手に取った。
「おい頼むよ、俺も手合わせしてくれ」
「かまわねえけど。なんでお前ら、こんな荒れた場所で賊なんてやってんだ。お前らなら、もっとマシな生活できそうだけどな」
それは、瀞霊廷で書類を読んだ時から、気になっていたことだった。この連中は強い。瀞霊廷にやってくれば死神にだってなれるだろう。
改めて見直してみれば、30人近くいる彼らは、全員まだ十代の若者だ。こんなところで一生を終える気などないだろうに。

こういう時の説明役は、リョウなのだろう。その場の全員の視線が、彼に集まった。リョウはかすかに息をつくと、日番谷を見つめながら口を開いた。
「俺達はこの『落陽』の出身だ。二年前に、各村落から一人ずつ腕っ節の立つ奴が選ばれて、村を出された」
「……なんで」
「花守を倒すためだ。……あの屋敷を見たことは?」
「ある」
「この荒れた地で、なんであの屋敷だけあんなに発展できると思う?」
「周辺から、搾取してるのか」
「搾取なんてもんじゃねぇよ」
座りなおしたジンが、悔しそうに唇を噛んだ。
「こんな痩せた土地で、かろうじて出来た作物のほとんどを持ってっちまうんだ、花守は。
抵抗しようにも、村長の身内が人質に出されてるから、逆らえねぇ。逆らったり逃げたりすれば、人質の命はねぇ」
「烏合の衆でもなさそうだな、花守も」
「貢物を納められなきゃ、平気で村一つ潰す命令を出すのが、葉月。実行するのが傭兵頭の兵衛だ。あの二人だけは許さねぇ。
それに……葉月の弟の如月って奴が戻ってくるって噂もある。奴は他の区でも散々やらかしてるって有名な男だ」

葉月。兵衛。そして如月か。日番谷は頭の中に、その名を刻み込む。
「……だから、村から関係を断ち切ったお前らが『朱雀』となったのか。花守を討つために」
「お前も状況は少し似てるよな。女が花守にいるんだろ?」
「え? ああ、まあ、そうだな」
急にジンに話を振られて、日番谷は眉を顰める。
「惚れた弱味か?」
「……そういうんじゃねえって」
日番谷が嫌そうな顔をしたのが面白いのか、少年達はどっと笑った。
「本当にマトモすぎて珍しいよな。女を裏切る奴もいるっていうのに」
空気が固まったのは、ジンが何気なく言った、その瞬間だった。
理由が分からない日番谷でも、何か言ってはいけないことをジンが口走ったことは分かった。

カタン、と音がした。
その音に振り返ると、無言で日番谷の向かいに腰を下ろしていたサラが、スッと立ち上がったのが見えた。
そのまま立ち去る背中に、慌ててジンが声をかける。
「サラ! 悪かったよ」
「別に気にしてない」
湿度のない返事が戻ってきたが、それはやはり、砂のようにとらえどころがなかった。

「……言っとくが、説明は要らねぇぞ」
日番谷は肩をすくめて、ジンとリョウを見返した。二人が、何か言いたそうに日番谷を見たからだ。
二人は顔を見合わせたが、やがてリョウが口を開いた。
「朱雀にしばらく留まるつもりなら、知っといたほうがいいかもな。……お前、姿がよく似てんだよ。
サラの幸せを奪った、朱雀の元リーダー……珀(ハク)って奴に」



十五分後。日番谷は朱雀から離れ、近くの岩の上で、寒風に吹かれていた。
周囲を見渡しても、サラの姿はどこにも見えない。気配も感じない。
あの影のような印象の少女のことだ。近くにいたとしても、分からないのかもしれない。

風に乗って、朱雀の連中の笑い声が聞こえてくる。
花守を倒すために朱雀が生まれたのなら、敵対する理由は明白すぎるほどに明白だ。
自分達の刀でそれを成し遂げてみせる、と心に決めているのは良く分かった。
しかしそれならなぜ……「名も無き花」のことを傭兵から聞いた時、少年達は顔色を変えたのだろう。
サラという少女といい、朱雀にはきっとまだ秘密がある。
ただし、それに必要以上に関わるのは自分の本分ではなかった。

周りに誰もいないのを確認して、懐から伝令神機を取り出した。
乱菊も潜入には成功しているらしいが、進め方について連絡しておく必要があるだろう。
しかし、いつまで経っても呼び出し音が続いたままなのに、眉を顰める。
出られる状態ではないのか? 乱菊の気配を、遠く花守の里の方角に探った時だった。
遠くにいてもはっきりと分かるほど、乱菊の霊圧が大きく乱れたのが分かった。
「……松本?」
何事だ、と思うよりも早く、日番谷は身を起こしていた。