「乱菊」。
自分の名前が、花の名から来ているとは知っていたが、どんな花なのか見たことはなかった。
草原に咲き乱れる、数限りない花。その中に混じる、「菊」という花を想像するのを幼い乱菊は楽しんだ。
白いのか、赤いのか、黄色いのか。
花弁は丸いのか、尖っているのか。どんな香りがするのか。

どんな名前でも、呼んでくれる誰かがいなければ意味はない。
そうは思ったが、乱菊はたった一人だった。だから、自分を呼ぶ声音をあれこれと想像してみた。
まだ見ぬ誰かがいつか、星の数ほどある花の中から自分だけを見つけて、名を呼んでくれる一瞬。

しかし幼い憧憬とは裏腹に、乱菊は荒野を生きていた。



***

		
…… だれか。だれか、たすけて。
荒い息の音だけが、辺りに木霊している。
夜のどことも知れぬ夜道を、乱菊は走り続けていた。
先の尖った石を踏みつけたらしく、ズキンと足の裏が痛む。でも、そんなことに構ってはいられない。
誰でもいい、たった一人でもいい。あいつに見つかる前に、あたしをかくまってくれれば、それでいい。
外へ漏れるかすかな灯りに、息を切らせて駆け寄った。


「誰か! ねぇ、誰かいる?」
「……なんだい」
乱菊が幼い拳で叩くだけで、古ぼけた戸はきしみ音を立てる。
格子戸が少しだけ開く。部屋の中が明るいせいで、輪郭は影のように漆黒だ。
目だけがわずかに輝き、こちらの様子を窺っている。
「なんだ、如月のとこの奴隷じゃないか。面倒ごとはごめんだよ」
「お願いっ、逃げてきたの、助けて!」
「じゃ、何を出す?」
間髪入れずに返された問いに、乱菊は凍りついた。
「な、何って?」
「金かい? 食べ物かい? それとも、体でも差し出してみるかい?」
乱菊は、ぐっと唇を噛んだ。見下ろしてくる視線は、凍るほど冷たい。

「じゃ、お前を助ける理由はないね」
「そん……」
そんな、といおうとした、その時。乱菊の頭を後ろから、誰かがすごい力で掴んだ。
そのまま、後ろに引き倒される。金色の髪が、周囲にパラパラと散った。
「や、め、て」
追いつかれた。乱菊は痛む頭を押さえながら、後ずさる。

闇の塊のように巨大な人影が、ゆっくりと乱菊に迫る。
「だめだろ? 逃げるなんて。お前は俺の玩具だ。そう言ったはずだろ? 何度も何度もな」
「あたしはあんたの玩具なんかじゃないっ!」
乱菊は、力を込めてにらみつけた。恐怖よりも、屈辱。怒りが先にこみ上げてきたからだ。
自分が、奴隷だってことは知ってる。この男に買われたってことも。
だからって、あたしがこいつに何をされてもいいってことにはならないはずだ。


「まだ、分かってないのか」
その男は大股で歩いてくる。上半身を起こそうとした乱菊の胸の上を、ドン! と足が踏みつける。
骨が折れたかと思うほどの衝撃に、息ができない。乱菊は横を向いて激しく咳き込んだ。
騒動が起こってることに気づいたんだろう、あちこちの家で灯りがついた。
「あぁ。観客もいてくれることだし。ちょうどいいぜ」
「あんた、何……やめてっ!!」
大人の男の手が、乱菊にむかって、伸ばされる。
何をされるか分かった時には、乱暴に衣服が裂かれ、冷たい風が素肌を撫でた。

「助けて……誰かっ!!」
家々の中から、視線を感じる。でも、皆面白がって見ているか、巻き込まれたくないと思っているだけ。
絶望の中、痛みが乱菊を引き裂いた。

 
***


「……隊っ……!!」
暗闇の中で、乱菊は跳ね起きた。いつの間にか、寝入ってしまったらしかった。
あたりは漆黒の闇で覆われている。目が慣れてくると少しずつ、圧迫するように高い箪笥や、重々しい錠前の輪郭が分かった。
「……そか。あたし……」
花守の里への侵入に成功して、座敷牢みたいなところに閉じ込められたんだった。その状況を把握しなおすことにさえ、しばらく時間がかかった。
それくらいに、動揺していた。

「馬鹿みたい」
夢の残像を吹っ切るつもりで言い捨てた言葉は、腹が立つほど弱弱しく掠れていた。
あれは、夢ではない。はるか昔に乱菊の身に起こった、現実だ。
気づけば、胸を押さえていた。あの時乱菊を支配していた、確か如月という男に踏みつけられた場所だ。
骨にヒビでも入っていたのか、傷が完治して何年も経った後も、思い出したように痛んで乱菊を苦しめた。
もっとも、今では思い出すこともなかったのに。胸元を飾る鎖のネックレスが、指を冷たく滑った。
胸を叩いていた動機が、少しずつ収まってゆく。乱菊はほぅ、とため息をこぼした。


幼い頃から、美しいと言われてきた。
乱菊の中ではだからどうした、という位のものだったが、それが生き抜くための道具になりうるのだと、男達の視線から学んだ。
体を提供し、見返りとして生活の糧を得ることを、屈辱だと涙したのは初めの時期だけだった。
「体さえ差し出して生きていけるなら、別にそれで構わない」
それを悲しむことも、怒る人も、乱菊は持たなかったからだ。

如月という男に囲われた時も、初めこそ抵抗したが、すぐに諦めた。
しかしそのうちに、生きていることすらどうでもいい、と思う時期が来た。
完全に油断していた如月の屋敷を抜け出し、荒野の中を歩きに歩いて、一週間後に倒れた。
起き上がる力はまだ残っていたが、起き上がってどこへ行くというのだろう。考えることも億劫だった。
こうやって、塵芥のように消えてゆくのかと思った時に、出会ったのが市丸だった。

市丸に食べ物を与えられ、粗末な家に連れて行かれて、乱菊がすぐに服を脱いだ時の市丸の反応は、今思えば笑い話だ。
「……なに、やっとん?」
きょとんとして見返されたのと同じくらい、乱菊も驚いた。
「あたしと寝るために連れてきたんでしょ?」
「……や。別に、それはどうだってええんや」
「じゃ、何で?」
その時にさりげなく問われた「なぜ」という言葉は、その後何千回も繰り返されることになる。
どうあっても理由をのらりくらりと言わない市丸に、乱菊はやがて疲れて言った。
「じゃああんた、何が好きなのよ」
「そうやな。人間を斬った時の、血が吹き出す感じが好きやな」
「……あんた、馬鹿?」
なぜだか分からないが、その答えは市丸の気に入ったらしかった。
大いに笑った後、
「そういやお前、名前は」
と聞いてきたのだ。
「乱菊か。よろしゅうな」
誰かに名前を呼ばれるのは、その時が初めてだったのだ。


「……どうして、だったんだろう」
暗闇の中で、乱菊はひとりごちる。その相手が血を流し、命を失う瞬間しか愛せなかった彼が、乱菊と共にいたのはなぜか。
分からない。疑問の輪はずっと乱菊の中で回り続け、いつまで経っても風化することはない。

どれくらいの間、森閑と座ったままでいただろう。やがて乱菊は立ち上がり、あたりを見回した。
障子の向こうは、夜なのにわずかに明るく見えた。雪のせいか、敷地いっぱいに広がる花のせいか。
どこかから柔らかな花の香りがただよってくるのに、乱菊は顔を上げた。
―― そうだ。あたしは、「花」を……
花を、奪わなければならないのだ。花開き、願いが叶ってしまう前に。乱菊は身を起こすと、障子に手を掛けた。

―― あら?
立ち上がったとき、乱菊はふと、眉を顰めた。
目が覚める瞬間、自分は誰かに救いを求めた。誰かの名前を呼んだ。
「誰、だったかしら……」
思い出せない。
乱菊は頭を押さえながら、襖を押し開いた。
鍵がかかっているかと思ったが、この屋敷から逃げられるはずはないと高をくくられているのか、すらりと開いた。


***


障子を開けると同時に目に飛び込んできた花景色に、息を飲んだ。
花の種類にはうとい乱菊でも知っている花や、全く分からない花もたくさんある。
冬だということが信じられないくらい、他の季節に咲く花が一緒に咲き乱れている様は圧巻だった。
―― 「咲く前には、他の花と見分けはつかない」
京楽が日番谷に言っていた言葉を思い出す。それは、こういうことだったのか。
これも、「名も無き花」の力のひとつなのだろう。確かに、この中のどこに例の花があるのかなんて、分かりようがなかった。

花の香りつられるように、庭に足を踏み入れる。花を踏まないように、注意して進んだ。
花の中にうずくまるように座った初老の男の背中を見つけるには、それほど時間はかからなかった。
「……この中に、願いを叶える花があるの?」
突然問いかけた乱菊に、芥はゆっくりと振り返った。その表情に、驚きの色は見えない。
「知っていたのか」
「有名よ、けっこう」
そう肩をすくめて答えたが、傭兵を雇って大掛かりに護っているのだから、そう言っても差し支えないだろう。
「昼間、差し向けた傭兵は、敗北したようだ」
まるで他人事のように、芥は言った。

「……あんたさ。気づいてる? あんたが一番、卑怯なのよ」
不意に、強い言葉が口をついて出た。
「あんたは、あたしのことを手荒に扱うなって部下に言ったわよね。
でも報酬って意味を知ってるくせに黙認したでしょう。傭兵も、あんたの願いのために犠牲になったんでしょ?
目の前の暴力は避けるのに、自分の目に映らない暴力は容認派なのかしら」
挑発的な言葉にも、芥の視線は全く変化がない。
―― 何かが、死んでる目だ。
一目見て、そう思った。どんな場面を前にしようと、感情が全く動かない。動かせない。
どこかで、こんな瞳を見たことがあるような気がする。
「あんたが、叶えたい願いって一体、なんなのよ」
言いながら、人形にでも話しかけているような虚無感に捉われていた。
心のない相手に話したって、人間らしい反応が戻ってくるはずがない。卑怯だと思っても、腹も立たない。

「……『死んだ女を、生き返らせる』」
だから、芥がポツリと呟いた言葉に、とっさに何の反応も返せなかった。
「嘲笑(わら)うか? 数多くの人間を犠牲にしながら、それでもたった一人を追い求めることを」
自虐的な表情と共にそう言った芥は、返事をしない乱菊をいぶかしげに見る。
「それが……あんたの、願いってわけ?」
違う、と乱菊は思っていた。
こんな老人と、自分が敬愛する男に、重なるところなんて何もない。
それなのにどうして、こんな気持ちになるのかと思う。

「……人の魂とは、どこにあると思う?」
「……禅問答のつもり?」
「一部は、もちろんここだ」
芥は乱菊の挑発には乗らず、自分の心臓の上を指差した。
「しかし一部は、大切な人間の中に宿る。その者が死ねば、中にある自分の魂も死ぬ」
ゆっくりと、芥は立ち上がった。
「彼女が死んだ後ここにおるのは、儂の残り滓……芥(あくた)にすぎぬのだ」
ゆっくりと立ち去る、芥の足音が聞こえる。
「願いが叶うところを、見ていくとよい。死んだ者が生き返る奇跡を」
芥の声が耳に届いても、乱菊は何も言えずにいた。