歴史書を紐解けば、藍染の反乱により死亡した副隊長以上の死神は四名いる。
首謀者である藍染惣右介、市丸ギン、東仙要。そして、副隊長では唯一、雛森桃である。
戦いの中盤に東仙、続いて雛森、終盤に藍染。最後の残党狩りにより、市丸が死亡したとされていた。

雛森はただ一人、味方側の死者として、その名を連ねている。
彼女の死の真相は、十一番隊の斑目一角、綾瀬川弓親を除いた三席以下は知らされていない。
さすがに、死神の共同墓地に葬ることは許されず、彼女が生前好んで散歩していた森林の一角に一人葬られた。
なぜ彼女だけ離れた場所に墓があるのか訝しみながらも、死を悼む者は今でも多い。
死した以上、敢えて名誉を汚す必要なはいとする、隊長達の唯一の餞(はなむけ)だった。


***



百年前。乱菊は、重い足取りで日番谷の私室へと向かっていた。
死覇装はもちろん、襦袢も帯も足袋も、全て黒で統一していた。

この先に日番谷がいる。毎日顔を合わせているのに、いつも楽しみにしていた。
しかし今は、足に力が入らないほどに緊張し、疲れ果てていた。
自分には、何もできなかった。これからも、何もできないのではないか。
その無力感が、歩く気力さえ奪っているようだった。


「……隊長。日番谷隊長?」
夕暮れだというのに、灯りも入れない日番谷の私室にそっと足を踏み入れる。
すぐに、壁にもたれかかって両足を畳の上に投げ出した、日番谷の姿を見とめた。
ぐっ、と息を一度飲み込んでから、そちらへ向かった。

すぐそばに片膝を付き、
「……隊長」
と呼びかけても、全く反応は返ってこなかった。
その両腕に抱かれた一振りの浅打に視線を落とし、乱菊は唇を噛んだ。
雛森が残した、飛梅の成れの果てに違いなかった。


「雛森の告別の儀、終わりましたよ」
火葬場で、夕焼け空に白く、細く天に上がっていった一筋の煙を思い出す。
煙と雲の白が同化している境目を見て、こうやって瀞霊廷を取り巻く霊子に戻ってゆくのかと思った。
仲間たちのすすり泣く声は、一生耳から離れないのではと思われた。
―― 「日番谷隊長は、来られていないのか?」
―― 「どうやら、茫然自失の状態が続いているらしい。……半ば、廃人のようだと聞いた」
―― 「お二人は仲が良かったからな。おいたわしいことだ」
死神たちが交わしていた言葉が、乱菊の心を深く抉っていた。

頼むぞ、と頭を下げた総隊長の顔が脳裏に映る。
―― 「立ち直れなどと、今の日番谷隊長には酷じゃということは分かっておる。
それでも、戦いはまだまだ、続いておるのじゃ。ここで刀を置かせるわけにはいかぬ」
総隊長の言葉の意味は、もちろん分かる。拮抗している戦いの中で、日番谷一人の力によって、勝敗が左右されるかもしれないのだ。
日番谷の右手は、力なく畳の上に放り出されたままだ。
上を向いて動かない五本の指。それはまるで、何か別の生き物の死体のように見えた。
……もう一度力を取り戻し、刀を握る日が来るとは思えなかった。


「隊長!」
声を高めて呼び、うつむいた表情を覗き込んだ瞬間、寒気が背中を駆け上がった。
死人の、顔だった。
その瞳は見開かれていても、もう何も映さない。その耳はもう何の音も拾わない。泣きも、怒りもしない。
全ての感情が、流れ出てしまったかのように。

ぎゅっ、と拳を握り締める。日番谷の苦しみは分かる。でも、このままではいけない。
この戦争に勝つためではない。そんなことは乱菊にはもう、どうでもよかった。
雛森の死を知って四日間、何も食べず、眠ろうともしない。この状態がこれ以上続けば命に関わる。

雛森。乱菊は祈るような気持ちで、かつての同僚を思う。
せめて、隊長を連れて行くのはやめて。あんたが、隊長のことを大切に思っているなら。
日番谷が胸に抱いた浅打の柄に手を伸ばし、ぐっと握る。引き離そうとした時、死んだように無反応だった日番谷が顔を上げた。
抗うように、鞘を握った左手に力が込められる。しかしそれは数秒のことで、諦めたように力が抜かれた。
たいした抵抗もなく抜き取られた刀は、寂しげに乱菊の腕に収まる。


すらり、と刀を引き抜く。「飛梅」だったころの面影はなく、くすんだ鋼の色が目に映る。日番谷は微動だにしなかった。
抜き身の刀を片手に持ったまま、乱菊は身をかがめて、日番谷に手を伸ばした。
「隊長、あたしはね」
そっ、と壊れ物を扱うように銀髪に触れる。痩せてしまった頬も。
以前なら飛んでくる怒声もない。静かすぎる静寂が、暗すぎる暗闇が、これほどに圧力を持って身に迫ることを乱菊は初めて知った。
「あたしはね。隊長を死神に誘った時点で、誓ったことがあったんです」

白刃が、闇の中でそろりと動く。
乱菊はしばらく刀身を見下ろしていたが、やがて刃の切っ先を、力ない動作で自分の喉に向けた。
「絶対に、死神として死なせたりしないと。もしも、死ぬことがあったら、あたしも責任を取って、後を追うつもりでした」
初めて会った日番谷は、同居している老女を「ばあちゃん」と慕う、ただの子供だった。
二人の間を引き裂き、日番谷を死神としての危険な生活にいざなったのは自分だ。
誘った時点で、それなりの覚悟をしたつもりだった。日番谷は、自分が護ると。

ぽろぽろと、こらえきれない涙が、日番谷の髪に落ちた。
「それなのに。死ぬより辛い目に、遭わせちゃいましたね……」
あたしのせいだ。自分の無力が、憎かった。

喉に向けた刃を握る両手に、力を込める。切っ先はその時、乱菊の喉を貫き、全てが終わるはずだった。
しかしその手は、乱菊の肌を貫くまでに止められた。


ぽた、ぽた、と真紅の血が畳を汚してゆく。
「た……」
隊長。言葉がうまく出せなかった。
刀の鍔元を、いつの間に手を伸ばしたのか、日番谷が握って止めていたのだ。
固く握り締めた右手から、鮮血がぽたぽたと落ちる。

「……馬鹿野郎」
ひさしぶりに聞いた罵声は力なく、それでも乱菊の行動を縛る力を持っていた。
そう言われて、全身からどっと力が抜けたのを覚えている。




あの後、日番谷は気を失い、担ぎ込まれた四番隊で丸三日間眠り続けた。
目が覚めた時には、霊圧の大半を失うほどに衰弱していた。
その状態の体を元の状態に戻すのは、並大抵の努力ではなかったはずだが、態度に出すことはなかった。
そして戦いの終結後は、疲弊しきった瀞霊廷を護るために、討伐隊を率いて最後まで戦った。
現在十番隊が他の隊を優に超える人数を擁する理由は、その際に日番谷が得た勇名、そして信頼によるところが大きい。

日番谷の「異変」に乱菊が気づいたのは戦争の終結後、平穏を取り戻した後のことだった。
いつも無表情だが、以前の日番谷の中に隠された感情の弦は、意外と繊細だった。
無関心なようで周りをよく観察しているし、怒ることも笑うこともある。
実は感情が豊かなのだと知っていた。

しかし戦争以後、日番谷は確かに内面が変わった。
自分にも周囲にも関心を閉ざしてしまったかのように、弦はもう鳴ることはない。
あれから乱菊は、日番谷が心から怒るところも、泣くところも、笑うところも見た記憶がないのだ。
どんな幸せも、哀しみも、雛森の生には及ばないといわんばかりに。


「一部、なんかじゃない。雛森は、隊長にとって『全部』だったのよ」
乱菊は、風に一斉にそよぐ花弁の中で、ポツリと呟いた。それを聞く者は、もういなかったけれど。
―― 「彼女が死んだ後ここにおるのは、儂の残り滓……芥(あくた)にすぎぬのだ」
芥が残した言葉が、日番谷の孤独な背中に溶け込んでゆく。
乱菊は、本当は分かっていたのだ。日番谷の願いは戻ってくることではなく、雛森の後を追うことだったと。
日番谷から、雛森を奪ったのは、自分なのかもしれない。乱菊がそう思うのは、そんな時だ。


「全ての願いを叶える、花」

ポツリ、と呟く。
日番谷が花守の里に来る前に見せた、穏やかな表情を思い出す。
もう完全に吹っ切ったのだとそれを見て思ったが、それは本当なのか?
未だに日番谷は変わってしまったまま、元には戻っていないのに。それを思った瞬間、冷やりとした。
あたしは、隊長の何も分かっていないのかもしれない。

もし、願いが叶うなら。

そんな危険な誘惑に、日番谷が雛森を思わなかったと、どうして言い切れるだろう。
それが、死神の刑法に照らし合わせれば、死罪に値する罪だと分かっていても。

乱菊はしばらくの間、そのままの体勢で動けずにいた。


 
***



その時だった。
「松本乱菊、か?」
背後から、その名を呼ばれたのは。ギクリ、と乱菊の全身が強張る。
―― 誰? あたしを知るヤツなんて、ここにいるはずない……!
そう思った瞬間胸に激痛が走り、乱菊は思わず顔をしかめて見下ろした。
……怪我なんて、していない。
乱菊は、ゆっくりと振り返った。
「ガキのころ以来か。いい女になったじゃねえか、乱菊」
「……きさら、ぎ」
一気に口の中が乾く。出てきた声が、掠れた。