じり、と乱菊が退くのと同時に、如月は一歩大股で前に出た。
「傭兵どもの報酬になってる、エラくいい女がいると聞いたら、お前とは因果なもんだな」
左頬から額にかけての刀傷のため、左目は潰れている。
黒髪をざんばらに上で束ねた野卑な容姿は、まったく変わっていなかった。
大柄ではないが、近づくだけで飛び掛ってきそうな獰猛な気配も、変わらない。
乱菊は大きく息をつき、背後に一歩下がった。

―― 落ち着け。
早鐘を打ち始めた鼓動を押さえつけるように、自分に言い聞かせる。
歩いてくるその姿は、まるで悪夢から抜け出したように現実味がなかった。
死神としての目から見ても、流魂街でも悪名を馳せていたこの男は、決して弱くはない。席官のレベルには達しているだろう。
しかし、今の自分と比べれば、劣るはずだ。
だが、今は任務の最中だ。自分が今暴れたら、作戦はムダになってしまう。


「逃げないのか? そうか、逃げても無駄だとお前は知っているものな」
男が笑った拍子に、唇の裏の粘膜が見えた。その赤さが、自分の体を蛭のように這い回った忌まわしい記憶を露にする。
「さっき、兄貴……葉月から聞いた。朱雀にぶつけた傭兵どもの偵察に行かせた奴が戻ってきたんだがな。
妙に腕っ節の強え男が一人混ざってるそうだぜ。お前の男か」
裸足のまま、花を踏みつける。パッ、と花弁が散った。大股で、乱菊に向かってくる。

「……何の話?」
「ごまかしても無駄だ。なんせそいつは、お前が『報酬』だって聞いた途端、激怒して全員殴りつけたらしいぜ。いい男だねぇ」
「……え?」
乱菊は思わず、聞き返す。自分たちの関係を探るために、鎌をかけられているのではないか?
そうも思ったが、この如月という男は、そんな罠をしかけてくるほど精神構造が複雑でないことは知っている。
自分たちの接点を敵側に知られれば、作戦の首尾にも関わるというのに。
それが頭に及ばないほどに、激情に駆られていたというのか。それは、あまりにも日番谷らしくない行動だった。

「たかが女一人に我を忘れるなんて、男の風上にもおけねえ奴だな」
「……あの人を、侮辱したら許さないわよ」
もう、他人の振りをしたところで始まるまい。それよりも乱菊の頭にひらめいたのは、如月に対する怒りだった。
如月はわずかに目を見開いたが、すぐにあざけるような笑みを浮かべた。

「どんな顔をするかねぇ。教えてやりてえなあ、お前の男に」
「……何をよ」
「お前はもうとっくに、幾多の男によって穢れてる。そして俺がお前を蹂躙した、初めての男だってな。どんな顔をするかねえ」
穢れ。
その言葉に、乱菊は金縛りにあったように動けなくなる。あたしは、こんなに弱かったのか。鼓動が胸を突き上げる。

伸ばされた手が、異様に大きく見える。
そんなに巨大なはずはない、と痺れる頭の中で、妙に冷静に考えている自分がいた。
そうか。これは、子供の頃に自分が見た、あの手、だ。

コワイコワイコワイ。
頭が割れるほどの音量で、幼い頃の自分の声が重なって聞こえた。


「……っ!!」
乱菊はとっさに、その手を払いのけた。そして、一歩下がった如月の肩を押しのけ、屋敷のほうへ駆け出した。
「また鬼ごっこかよ」
如月の声が追いかけてくる。何を逃げているんだ。これではまるで本当に、あの時の再現ではないか。
でも、戦えないと思った。顔を合わせて言葉を交わすだけでも、手が震えるほど動揺しているというのに。

逃げなければ。逃げなければ。
幼い日、祈るように何度も何度も唱えた言葉は、今でも乱菊を突き動かす。
全身が、きしむように痛んだ。男に力づくで蹂躙された腕が足が、腹が背中が、悲鳴を上げる。
―― 誰か……
頭が、真っ白になる。幼い自分の泣き声が聞こえる。廊下を曲がり、自室に向かった時だった。
「!」
乱菊の口元を、突然伸びてきた掌が覆った。声を上げる暇も無く、その手は乱菊を廊下の隅に引きずり込んだ。

 

大きな掌に覆われて、前が見えなかった。逞しい腕が、自分の胴に回され、上に引っ張り上げる。
冷たい空気が頬を打ち、屋根の上に連れ出されたのが分かった。
―― やめて!!
悲鳴が、喉元までこみ上げる。乱菊はとっさに、簪を髪から引き抜いた。そして、それを背後の人物に向かって振り上げる。
「!!」
かすかに、手ごたえがあった。乱菊を捕らえた男が息を飲み、身を引く。

「ま……松本?」
その声の主を理解するのに、何秒もの時間がかかった。
翡翠色の美しい瞳が見開かれ、感情(いろ)をなくして乱菊を見下ろしている。そして、その頬からは一筋の血が流れ落ちていた。
「ひ……つがや、隊長」
どくん、と一回、強く鼓動が打つ。その手から、血がついた簪が零れ落ちた。
乾いた音を立て、瓦を滑り落ちた簪を、日番谷の手が素早く捕まえた。


「……大丈夫か? 松本」
日番谷の目に浮かんだ驚きの色が、ゆっくりと引いてゆく。穏やかな翡翠の色に戻ってゆく。
そして物も言えずに座り込んだ乱菊に、簪を差し出した。
頭上から乱菊の方に向けられる、大人の男の掌。それは望む望まぬに関わらず、脳裏にあの悪夢を甦らせた。
「……!」
意志に反して、体がビクリと強張った。幻のはずの全身の痛みが、うずき続けていた。
日番谷の手から、視線が逸らせない。日番谷は少し困ったような表情を浮かべ、手を引いた。

「……お前の霊圧が揺れてるのに気づいたんだ」
乱菊の動揺が収まるのを確認すると、日番谷は改めて口を開いた。
「確かめたいこともあったから来た。血相変えて逃げてるからビックリしたぜ。助けるためとはいえ、手荒なことして悪かったな」
確かめたいこと。乱菊の視線は、日番谷の手の甲に吸い寄せられた。
両方、粗末な布を巻いている。甲の部分には、布と通してうっすらと血が滲んでいる。

「……どうしたんです、その拳……」
「ああ、これか」
日番谷は、バツが悪そうに拳を見下ろした。
「傭兵の奴らと戦ったんだが、とんでもねぇこと言い出しやがったんだ。つい」
とんでもないこと。乱菊はその言葉に、身を強張らせる。

―― 「そいつは、お前が『報酬』だと聞いた途端、激怒して全員殴りつけたらしいぜ」
とすると、如月の言葉は、やはり事実だったということか。
日番谷はいつもなら、素手で相手を殴るような戦い方はしない男だ。自分で自分を傷つけるような戦い方などしない男だ。
それなのに、そこまで日番谷を怒らせたもの。
―― でも、あたしは……
ドクン、と胸が高鳴った。もう既に「穢れている」。
幼いころは日常的に陵辱を受けていたと言ったら、日番谷はなんと言うだろうか?


その時だった。絶対に聞きたくなかった声が、屋根の下から響いた。
「乱菊! どこ行きやがった!」
如月。乱菊は慌てて階下を見下ろす。
「……誰なんだ、今のヤツは」
日番谷は不快そうに眉をひそめた。
―― 嫌だ。
「た、隊長……」
「何だ?」

この次に如月が何を言うか、乱菊には分かる。日番谷が怪訝そうな顔をしたのは、乱菊の表情に浮かぶ必死さを感じ取ったからだろう。
「聞かないで……」
「は? お前、何を」

生きるために自分の体をも利用してきたことを、恥ずかしいとは思っていない、はずだった。でも、聞かれたくなかった。
全てを投げ出してきた代償を今払わされようとしているのだとしても、この綺麗な目をした男にだけは知られたくなかったのだ。
だが、無慈悲な声がその場を貫いた。

「平気で体を売る女だって有名だったろ? 何度も抱かれておいて、今更どうして逃げる」
「……」
乱菊は思わず口を掌で覆った。吐き気がこみ上げてくる。
平気ではなかったことを、その体の変調が物語っている。それでも、そう思われても仕方がないこともまた、事実だった。


日番谷はそれを耳にした瞬間、体を強張らせた。その手が、ガッと刀の柄を握り締める。
「待って……!」
乱菊は必死で、屋根から下りようとした日番谷の背にしがみついた。
「お願いです、待ってください」
「……何、言ってんだ。お前」
日番谷の硬質な声が、乱菊の耳に届いた。冷たいといっていいほどに、感情が篭らぬ声だった。
「あんな侮辱されて、平気なのかよ?」
「本当、なんです」
消え入るような声が、食いしばった唇から漏れた。体を売って生きていたのは、隠しようもない事実なのだ。
日番谷を、如月に会わせたくはなかった。事実を確かめようとする日番谷に、如月が何を返すか、考えるだけで恐ろしい。

 
日番谷は、食い入るように如月のいる方向を睨みつけている。
しかし、背後からしがみついた乱菊の手は、振り払われはしなかった。
如月の足音が、少しずつ遠ざかってゆく。完全に消えてから、日番谷はそっと、しがみついていた乱菊を自分から引き離した。
「た、隊長……」
名を呼んで、手を伸ばす。
―― どうした、松本。
いつものように、乱菊を落ち着かせてくれるその声で返してくれることを期待した。
しかし日番谷は、そんな乱菊に探るような見慣れない視線を向けると、スッ、と身を引いた。
乱菊の手は宙ぶらりんのまま、中途半端なところで放り出された。



日番谷は横を向くと懐に手を入れ、伝令神機を取り出した。
どこかに電話をかけようとしているのに気づき、乱菊は嫌な予感に囚われた。
「た、隊長?」
「お前は動揺してる。今の状態で任務を続けるのは危険だ。第三席を代打に寄越すから、お前は瀞霊廷に戻れ」
日番谷には珍しい、有無を言わせぬ強い口調だった。
「……え?」
見つめ返した乱菊から、日番谷は視線を逸らすと立ち上がった。夜風に吹かれるその背中があまりに遠く、乱菊は言葉を飲み込む。

―― 嫌だ。
「城崎か? 日番谷だ。久徳三席を呼んでくれ」
「あ、あたし……」
日番谷は、呼びかけた乱菊の小さな声に気づかずに顔を背け、電話の向こうの隊員と話している。
見慣れた背中が他人のように冷たく見え、乱菊の胸に恐怖が膨れ上がった。

長年、どれだけの任務を二人でこなしたか覚えていないほどだが、途中で外されたことは一度もない。
日番谷のすぐ後ろ、乱菊の指定席が、他の者に譲られたことは一度も無かった。それが、二人の信頼の証だったはず。
それほどにか。
それほどに、この事実は日番谷にとって受け入れがたいものなのか?

隊長と副隊長。日番谷と乱菊が、共にある理由。
強固だったはずのその関係の土台が、がらがらと崩れていくような気がした。

「隊長……」
何か、何か言わなければ。陵辱の事実などないと嘘をつくか? でも言葉にすればするほど、軽蔑されたらどうしよう。
いや、この様子では、嘘をついたところで無駄だ。既に日番谷は自分のことを、
「い、や」
どうしたら引き止められる。
どうしたら、手を離さずにいてくれるのだ。
どうしたら、どうしたら。同じ言葉が頭をぐるぐると回った。