―― 「かしこまりました、日番谷隊長。今すぐ向かいますが……」
電話の向こうの第三席、久徳の言葉が途中で途切れる。久徳の当惑は、日番谷にも手に取るように分かった。
日番谷が、乱菊と共に任務に当たって、途中で乱菊を帰らせることなど前例がないからだ。
―― 「……いいえ。野分(のわき)を駆れば、あと小一時間もあれば到着は可能です」
―― 「すまねえな。とはいえ、瀞霊廷も手薄にはできねぇ。松本を今から帰らせるから、入れ違いにこっちへ来てくれ」
それ以上は尋ねない久徳に感謝しながら、正確な場所を伝えようとした時だった。
日番谷は、不意に立ち上がった乱菊の気配に振り返った。

途端に、どっ、と軽い音がして、乱菊の体が日番谷に打ち当たってきた。
日番谷の着物の裾が風でふくらみ、一回り小さな乱菊の体が、懐に吸い込まれたように見えた。
かなりの体重差があるためよろめきはしないが、とっさに何が起こったのか分からなかった。

乱菊に向き直って見下ろしても、表情は分からない。
「おい。松……」
あっけに取られている間に、伸ばされた乱菊の腕が絡みついてきた。
これまで、ことあるごとに戯れに触れてきたのとは違う。
細い指が背中を這う感触に全身が強張ったのは、男としての本能か。
日番谷の反応に気づいたのか、わずかに見えた乱菊の口元が、にんまり、と上がった。

―― 「隊長? 日番谷隊長? いかがされましたか?」
聞きなれた第三席の声に、動揺する。その隙をつくように、するりと伸びてきた乱菊の指が、伝令神機を掴み取った。
何を、と思った時には、声を高めて呼びかける久徳を無視し、ゆっくりと電源を切っていた。
カラン、と音を立て、伝令神機が屋根へと落ちる。その時、日番谷はようやく、何かがおかしいことに気づいた。


今頃、十番隊舎で戸惑っているだろう久徳のことも気にかかるが、今は様子のおかしい乱菊が先だ。
「……松本、どうした?」
声に力を込めて乱菊の右肩を掴み、引き離す。俯いていた乱菊からは、くすくす、くすくす、と低い含み笑いが聞こえる。
理由は分からないが、ゾクリ、とした。
乱菊が前に落ちていた金髪を払って顔を上げた時、思わず日番谷はわずかに身を引いた。

艶めく唇の両端が、挑発的に持ち上げられていた。
日番谷の知る乱菊は、露出度の高い格好はしていても、おいそれと男を引き寄せない凛とした気配をもっていた。
しかし今の彼女は、まるで睦みあう最中のように、淫靡な空気をはらんでいる。
乱菊とは毎日顔を合わせているはずなのに……初めて会う女のように、美しかった。

「……どうして、そんな目をするんですか?」
猫のようにくるくる表情を変える瞳は、今は真っ直ぐに日番谷に向けられている。
心中の動揺を見透かそうとでもするように、冷静に観察されているのを感じた。
「何を言ってる?」
「今の隊長の、顔。あたしを抱いた男と、よく似てる」

ふざけるなと、本来なら怒鳴るべきだったのだろうと思う。
今階下にいるはずの、かつて乱菊を陵辱した男。それと同じと暗に言われて受け流す理由はどこにもない。
それなのに。日番谷は視線を逸らした。意を得たように、乱菊がにんまり、と笑う気配を感じた。

乱菊はするりと、日番谷の手首を掴むと自分の方へ引き寄せた。
意外なほどにやわらかい、蜂蜜色のけぶるような髪。指の間を冷たくすべる。
髪を、耳を、首を。日番谷の掌を誘うように自分の肌に滑らせ、乱菊は艶やかに微笑んだ。
いつも軽口を叩き合っているのが信じられないほど、濃密な沈黙が落ちる。
朧な月光が、乱菊の輪郭を、浮かび上がらせている。
ようやく、日番谷は気づいた。これは、今まで知っている松本乱菊とは、全く別の女だ。

「理由が欲しいんです」
乱菊は、日番谷の目をじっと見ながら、そう言った。
彼女の次の行動は、あまりに日番谷にとっては、意表をつくものだった。
唐突に、自分の着物の右襟を乱暴に掴んだ。そして、一気に押し開いたのだ。
夜目にも白い肩が露になり、豊かな乳房がこぼれた。そして左襟をも掴んだ時、日番谷は乱菊の両手首を掴み、動きを止めた。
乱菊はとっさに振り払おうとしたが、日番谷の力がそれを許さない。
「やめろ! 自分が何をしているか分かってるのか!」
思わず、叱責するように声を高めていた。
「分かってますよ、もちろん」
「……松本『副隊長』。正気に戻れ」
そんな呼び方をしたのは、記憶の限り一度もない。
乱菊は少し目を見開いたが、すぐにあの正体の見えない笑みを唇に乗せた。

「何を言うんですか? 貴方は今、あたしを瀞霊廷に返すと言った。隊長の背中を護るのが副隊長の役割なのに。
じゃあ、あたしと貴方はどうして、これから一緒にいられるんですか」
ああ。日番谷は心の中でひとつ、頷いた。
「……だから、理由が欲しいのか」
「はい」
「こんなことが、理由になると本気で思っているのか?」
深く、自分の声が沈んでいたことは、否めない。乱菊は、着崩れた自分の姿を見下ろしてひとつ、頷いた。
「だってあたしは、ずぅっとこうやって、生きてきましたから」
「知ってた」
ぴたりと、乱菊が動きを止めた。まじまじと、食い入るように日番谷を見やる。
「……嘘」
「嘘じゃねえ」

夜のひそやかな空気が、二人の間に沈黙を積み上げてゆく。
「……理由なんかねぇよ」
くしゃりと、乱菊の顔が歪んだ。まるで糸が切れた操り人形のようなぎこちない動きで、何歩か背後に下がった。
「松本」
追いかけた日番谷に対して、切羽詰ったようなささやきが漏れた。
「『また』、置いていくの?」
子供のような大きく見開かれた目に、涙がたまってゆく。

「また」。乱菊はそう言ったが、一度目は自分ではなく、あの市丸だということを日番谷は知っている。
態度だけは平静を保っていた、危うい一線が涙で壊れる。かすかに乱菊の全身が震えだすのを、日番谷は目の端に捉えた。
―― 「十番隊長さん。アンタに、ひとつ頼みがある」
百年前の言葉が、ふわりと頭に浮かんでは消える。

きっと、乱菊が体を売った理由は、生き抜くことですらなかったのかもしれない。不意にそう思う。
乱菊は、たまに心配になるくらい、自分というものに執着が無い女だった。
たった一人で生きるしかなかった彼女は、ただ、誰かが恋しかったのだろう。
「……『もう』、置いていったりはしねぇよ」
後ずさり続ける乱菊の前で足を止め、その青い瞳の中を覗きこむ。
冷静に沈んでいるのか、狂気におかされているのか、それともただ悲しいのか。全てが混ざった瞳だ。


唐突に日番谷の思考を断ち切ったのは、階下から聞こえてきた野卑な声だった。
「おい! こっちだ!」
「今確かに、屋根の上で声が聞こえたぞ」
しまった、と日番谷は舌を打つ。すっかり周囲に注意を払うのを忘れていた。
立ちすくんだ乱菊を、視界の隅に捉えた。

「来い!」
ぴたりと止めた乱菊の手を、日番谷は力を込めて掴む。
その手は、普段から刀を握っているとは思えないほどにやわらかかった。
衝動のままに、日番谷は乱菊の体を引き寄せていた。





前話で日番谷君の電話に出た「城崎」と、今回の話に出てきてる「久徳」は
ともに当サイトの捏造キャラですmm

[2010年 4月 11日]