記憶にないくらい近くで、日番谷の息遣いが聞こえた。
銀髪と金髪が、闇の中でひそやかに絡み合う。
耳が、右肩にぐっと押しつけられている。着物からは太陽の匂いに混じって、かすかに日番谷の香りがした。
着物の下では、ゆっくりと力強く鼓動が打っている。こんな状況なのに、何だか懐かしいと思った。
「……死神レベルの奴が、二人いるな。下手に動かねぇほうがよさそうだ」
二人? ぼんやりとした頭で、乱菊は日番谷の独り言を反芻する。
日番谷は乱菊を抱えたまま、とっさに瞬歩を使い、火見櫓の最上部まで移動していた。
花守の屋敷全体を見渡せるその場所は、一人がちょうど収まるくらいのスペースしかない。
腰の高さまで板が円形に張り巡らされているため、座り込んでいれば下からは見えないはずだ。
下からは、ざわざわと家人の声が聞こえてきている。
屋根の上には何人か上がり様子を見ているようだったが、ここには上がって来なさそうだった。
火見櫓に上がるには、地面から長い梯子を上っていかなければならない。
敵がどこに潜んでいるかも分からない状態で、狙い撃ちにされてはたまらない、と思っているのだろう。
しばらく二人は耳を澄ませていたが、話し声が遠ざかるのを耳にして、ふぅ、と同時に息をついた。
「ったく。今日は調子が狂うぜ」
「すみません」
ぼやいた日番谷に、とっさに謝る。二人の目が至近距離でぶつかった。
「……あ」
「やっと、マトモに戻ったか」
頭上から降ってきた日番谷の声は呆れているようにも、ほっとしているようにも聞こえた。ただ、いつもの日番谷の声だった。
何も覚えていない、とごまかせれば、どんなに良かっただろう。
しかしその前に、動揺は如実に乱菊の全身に現れた。
「……申し訳、ありません。日番谷隊長」
顔に血が上る。嫌でも、自分がさっき日番谷にぶつけた言葉や仕種を思い出し、その場から消えてしまいたくなる。
「構わん」
日番谷の返答は、そっけないほどに短かった。でも日番谷なりに、気を使った言葉なのが分かる。
「それよりもお前、やっぱり――」
身じろぎして乱菊に向き合った日番谷が、言葉を発すると同時に、弾かれたように目を逸らした。
「って、馬鹿! 服着ろ、服!」
「っ、すいませ……! ていうか声大きいです」
ハッと気づき、互いに声を潜める。
乱菊は慌てて着物を掻き寄せる。そして、二人同時に息をついた。
見上げると、そっぽを向いている日番谷の耳の端が、赤い。
どちらともなく、くつくつと笑いがこみ上げる。
「……部下には、見せられねぇ姿だな」
隊長副隊長揃って、なにをやっているんだろうと嘆かれても仕方ない状況だった。
敵は自分たちに気づきもしていないのに、勝手に失態をおかし、勝手に動揺している。
一度笑ってしまえば、先ほど交わした言葉の気まずさも、薄れる気がした。
「……本当に、すみません。どうかしてました」
日番谷に捨てられる。そう思った瞬間、別人格のように顔を覗かせたもう一人の自分。
「どうかしていた」、それだけの言葉でごまかせるものではなかったが、それは乱菊の問題だった。
物思いにふけっていた乱菊は、ふと日番谷の視線を感じて、顔を上げる。
「……俺のことが怖いか? 松本」
不意にそう聞かれて、ふる、と乱菊は首を振る。日番谷の瞳には、痛みの色があった。
「じゃあ、なんでずっと震えてるんだ? お前は」
え?
乱菊は、自分の体を見下ろす。そして、その着物の裾がかすかに震えているのを見とめて、戸惑った。
「……あたし」
「自分で気づいてなかったのかよ」
日番谷は、きっとわざとなのだろうが、ぶっきらぼうな口調で続けた。
「自分からは抱きついてくる癖に、俺が近づくとお前は震えだすんだ。俺の背丈がお前を越えた辺りから、ずっとだ。
……昨日の朝、俺がお前を布団から引きずり出した時、お前は何って言った?」
「肩が震えるほど笑うなって、あたしは……」
「震えてたのはお前の方だ」
乱菊は、とっさに黙り込んだ。指摘されるまで、夢にも考えたことがなかった。でも。
昨日の朝を、乱菊は思い出す。突然日番谷に抱き上げられたとき、自分が感じた感情は……紛れもない「恐怖」ではなかったか。
その時、さりげなく乱菊をおろしたときの手の優しさを、思い出した。
「そんな有様で、俺を挑発しようなんて百年早ぇ」
そんな、彼らしくない言葉と共に、日番谷はそっぽを向いてしまう。そっぽを向いたままで、続けた。
「理由」
「え?」
「理由がねぇ、なんて言って悪かったな。本当に思いつかなかったんだ」
「……はい」
なんて不器用な言葉だろう。でも、一生懸命何かを伝えようとしているのは、分かる。
「力じゃねぇ、お前が仮に今より弱くなってもかまわねぇよ。外見が変わっても俺には関係ねぇ。
でも……性格でもねぇし、長い付き合いだからってこともねぇ。だから理由なんて本当にねぇんだ」
「性格も記憶も、外見も力も変わったらあたしじゃないですよ、それ。誰でもいいって言ってるようなもんじゃ……」
「違う」
思わず乱菊は笑いだそうとしたが、自分に視線を戻した日番谷の視線がおもいがけなく真剣なのに、視線を奪われる。
「それは違う。……つーか、お前にいなくなられたら困るんだよ」
日番谷らしくないな、と乱菊は思う。
彼は口数少ないが、口下手ではない。同じ言葉を何度も繰り返したりしないし、口調が乱れることもない。
他人の言葉に耳を傾ける懐の深さを持っていても、自分の感情を口にしたりはしない。
そんな男が今、口ごもりながらも乱菊に気持ちを伝えようとしている。
「……。あたし、ここにいてもいいんですか?」
「当たり前だろ」
だからこそ、乱菊は少しだけ泣いた。
今なら。恐れていたことも聞けるかも。そう思う。
「……ねえ、隊長」
「何だ」
「あたしの過去を、隊長に言ったのはギンですね?」
「……ああ」
疑うまでもないことだった。乱菊の過去を知るのは、市丸以外にはいない。
「いつ?」
「百年前。討伐に向かった虚圏でのことだ」
びく、と乱菊は身を起こす。まじまじと日番谷を見つめた。
百年前、討伐隊を解散させるとき、日番谷は市丸は見つけられなかった、と隊首会で報告したと聞いている。
ということは、日番谷は嘘をついたのか? 何のために。
ためらっていた日番谷の口が、ゆっくりと開く。
「……松本。俺は――」
その瞬間、乱菊の表情に浮かんだ恐怖を見たのだろう。日番谷が途中で口を閉ざした。
続きをうながすべきか、迷う。日番谷が、市丸を殺していたら。いや、殺していなかったら。
どちらも同じくらい、聞くのが恐ろしかった。
御免な。
沈黙の後、日番谷から発せられた言葉は、奇しくも市丸が、最後に発した言葉と同じだった。
***
夜空から降りてくるかすかな光が、規則正しい寝息を立てる乱菊の横顔を照らし出している。
日番谷は、ずっと、それを見下ろしていた。
固く強張り震えが止まらない状態から、少しずつ日番谷に身を預けるのを、文字通り体で感じていた。
完全に全身の力を抜いた後、安心したように眠ってしまったのだ。
その目の下に、涙の跡を見つけた日番谷は、とっさに手を伸ばそうとする。
しかし、その指は途中で握り締められた。ふぅ、と長いため息が漏れる。
「……日番谷隊長。こちらにおられましたが」
見上げると、火の見櫓の手すりに身軽に飛び乗った男と目が合った。
十番隊の第三席、久徳玲一郎である。隊長と副隊長が抱き合うように座っているのを見て、僅かに目を見開いた。
「久徳三席、悪かったな。結局呼びつけて」
「天廷空羅でお声がかかった時には驚きましたが……伝令神機、屋根の上に落ちていましたよ」
「悪い」
手渡された伝令神機を懐に入れながら、日番谷は身を起こす。
その時、はるか下の廊下から、ばたばたと足音が聞こえた。
「ったくあの女、どこ消えやがった!」
この声、間違いない。乱菊を侮辱した、あの男だ。
―― 「待って!」
必死に乱菊が止めなければ、一刀の元に斬り捨てていたに違いない。
「……」
日番谷は無言のまま、階下の気配を探った。
大股で歩いているに違いない足音。襖を開ける音。刀の柄が金属質な音を立てる。
野生の獣のように、獰猛な気配。乱菊を傷つけた、あの男だ。
日番谷は、頭にその気配を刻みつけようとする。
―― 「『また』、置いていくの?」
子供のような目で、自分を見つめてきた乱菊を思い出す。
寄る辺なく、孤独に負けて手を差し伸べるしかなかったあの女に、あの男は昔、一体、何を、
「……殺してやる」
口の中でかみ殺したその言葉は、久徳には聞こえなかっただろう。
「……隊長」
不意に呼びかけられ、日番谷は我に返った。
久徳は、相手が語らない限り、自分から詮索をするような男ではない。
「そんなに殺気を込めては、副隊長がお目覚めになられますよ」
しかし。だからと言って、鈍い男ではない。日番谷は軽く頷くと、乱菊をそっと抱き上げた。
「……連れて帰ってくれ。三席まで誰も隊にいねぇのはまずい。そのまま瀞霊廷で、待機してくれ」
「隊長は?」
乱菊を抱き取った久徳が、日番谷を見下ろす。
「少々、暴れる。一人でいい」
「……承知致しました」
視線を交わしたのは、一瞬。
「……隊長」
乱菊を横抱きにしたまま、背中を向けた久徳は日番谷に呼びかけた。
「隊長が、本気でお怒りになることはもうないと思っていました」
一瞬、久徳の言葉の意味を図りかねる。返事を探した日番谷に、三席は微笑みかけた。
「ご武運を」
ふっ、と音もなく姿が掻き消える。日番谷は、しばらく沈黙したままでいた。