どうして、「朱雀」と名づけるの?
わたしの問いに、珀(ハク)はすぐには答えなかった。返事の代わりに、わたしの砂色の髪をがしがしとかき回す。
―― 「ちょっ、何するの!」
―― 「お前みたいだからだよ、朱雀は」
―― 「……ていうか朱雀って、なに?」
―― 「火の鳥のことだよ。何度でも、何度でも炎の中から甦る。俺はこの『朱雀』を、そんな風にしたいんだ。
何度叩かれても、甦る。そしていつか必ず、落陽を花守の圧制から救い出す。お前は、俺達に勝利を呼ぶ女神役だ」

そう言ってハクは笑った。その時点ではもう、わたしたちは恋人同士だった。
リーダーに選ばれた彼は、希望に満ちた生き生きとした目をしていた。その輝きに、惹かれたのだ。
あの時彼は、何を思っていたのか。知っているようで、わたしは彼のことを何も知らなかった。
わたしを愛していたはずの彼が、最後には殺そうとするくらいにわたしを憎んだ、その理由も。



サラは、閉じていた目をゆっくりと開き、一面に広がる大地を見下ろした。
冬の神がつねに吐息を吹きかけているかのように、凍てついた地面には草一本ない。
しかし今は、空に架かる月のために、きらきらと一つ一つの氷が輝いているのが美しかった。

わたしはここで、何をしているんだろう、と思う。
リーダーとなり、朱雀を率いて花守を討つ? それを今、望まれていることは分かっていた。
ただ、そんなことをして何の意味があるのか、もうわたしには、分からないのだ。
だってその席所は、わたしではなく、ハクのために用意された場所だ。

それにわたしは、あまりに以前の自分とは変わってしまっている。
前の自分が居座っていた部分に、すっぽり穴が開いてしまっている。今の自分は、抜け殻としか思えない。
以前の自分が帰ってくることは、もうないと思えた。



「……サラ? ちょっと、いいか」
遠慮がちな声が背後の岩から聞こえて、サラは無言のまま頷いた。振り向きもしなかった。
ずっと前から、岩を登ってきた気配には気づいていたからだ。
「……何」
ずっと動かない背後の気配に、首だけ振り返る。
ジンが、唇を噛み締めて立ち、サラを見下ろしていた。
どうして追ってきたのか、どうして悲しそうな顔をしているのか、サラには分からないのだ。
ハクを失ってからは、全てが膜の向こうの出来事のように遠かった。

「……悪かったな、って思って。ハクのことを思い出させるようなこと、言ってさ」
「……気にしてないって言った」
「じゃあなんで、場を外したんだよ」
サラが沈黙を守ると、ジンも何も言わないまま、サラの隣に座った。
わざわざ冷たい風が吹き付ける側に回りこむのが、この少年らしいと思う。

「……ハクは、死んじゃいないと思う。でも、もう戻らないぜ」
「知ってる」
無意識に、サラは自分の右手を見下ろしていた。
返り討ちに遭ったなど信じられない、とでも言うように、見開かれたハクの目。
そして、零れ落ちてサラの手を染めた赤を思い出す。そうして、あの男は足を引き摺って逃げたのだ。
もう、1ヶ月も前の話だ。

ハクのことを口にして悪いと謝りながら、なぜ口にするのか。
そんなサラの疑問に気づいたわけではないだろうが、ジンはごくりと唾を飲み込んだ。
そして唐突に、サラに向き直る。
「……あのさ。俺じゃ、駄目なのか?」
真剣な目で見つめられても、一体なんのことか分からなかった。
黙っていると、ジンは全ての感情をぶつけるように、声を荒げた。
「ハクのことなんか忘れろ! あいつはリーダーだったくせに、お前を妬んで闇討ちをかけたんだぞ!
勝てねぇと分かった途端、朱雀も、落陽も捨てて逃げたんだ。あんな奴のこと、お前が気に病むことはねぇ!」

「……気に病んでなんか、いない」
「でも、お前は変わっちまったじゃねぇか」
「……ジン。あんたは、前のわたしに用があるの?」
初めて、サラはジンをまともに見返した。ぐっ、と詰まるジンをよそに、立ち上がる。
「そいつは、もういないよ」
自分を、見失った。そう言えばまとまりがいいけれど。
今の自分が抜け殻だということは、他の誰よりもよく分かっていた。


背後で、ジンが立ち上がった気配を感じた。
「サラ。お前は『名も無き花』にこだわってる。なぜだ?」
こだわっているのか? わたしは。そう言われて初めて、考える。
答えを出そうとしても言葉はすぐに、口を出る前に意味もなく霧散してしまう。
「……ハクが、その花を求めたからなのか」
「ジン。今のわたしに求めるのはもう、やめて」
リーダーになれと言われることも。問いかけられることも。愛してくれと求められることも。
本当の自分をうしなった、今の自分には答えられない。

「……でも、否定はしないんだな」
ジンは、氷の大地に視線を落とす。
「全てに関心が無いお前が、花だけは気にしてる。朱雀が花を追う理由は、それだけでいいさ」
サラはしばらく無言のまま佇んでいたが、やがて背中を返した。
サラ! 追いかけてくるジンの声を振り切るように、歩き出す。
しかし一、二歩踏み出した時、反射的にその場に身を伏せていた。
「サラ? どうし……」
「シッ!」
誰か来る。近寄ってきたジンの肩を押さえつけ、同じように伏せさせる。




なんだ? この気配は。
岩の間に身を隠し、気配を完全に殺す。
そして、朧な光に照らされた、岩場の頂点に視線を凝らした。
全くなんの前触れもなく、そこに人影が現れたのは、その刹那だった。

「……獅郎」
「黙って」
思わず声を上げたジンの口を、サラが押さえる。

その輪郭が、サラの目にはわずかに光って見えた。それは、他の者には見えないが幻覚ではない。
特異なほどに強い力を持つ者にだけ、このような光が見えるのを、サラは経験上知っていた。
「レイアツ」と言うらしいことも。それをサラに教えたのは、ハクだった。

銀髪が、キラキラと月光に輝いている。
ハクに本当に似ている、とサラは思わず息を飲んだ。
初めて見た時から気づいていたが、その髪の色、目の色は微妙に異なるものの、よく似通っている。
怜悧なまでに整った顔や、体格までもがかつての恋人を思い出させた。

その、男にしては珍しいほど白い頬には、いつ怪我をしたのか赤い線が残っている。
彼は、まるで物思いにふけっているかのように、突然現れた時の体勢のまま動かない。
おそらく、放心しているのでなければ、自分たちの気配に気づくはずだとサラは思う。

と、不意にその肩が僅かに揺れた。
懐に手を入れ、取り出したものを見てサラとジンは顔を見合わせた。何だか分からないが、機械のようだ。
「……京楽か? 何の用だ」
小さな箱のようなものを耳に当て、何か話している。どうやら、あの箱を通じて誰かと繋がっているらしい。
風に乗って、途切れ途切れに聞こえてくる声に、耳を凝らした。
「……ああ。松本は……、瀞霊廷に……ああ、今は一人だ」

瀞霊廷?
ジンが絶句したのが分かった。こんな流魂街の果てにいても、「瀞霊廷」が何かは知っている。
この流魂街の中央に位置するという、この世界の神……死神が棲む場所。


「……ジン。下へ戻って、皆を移動させて」
肌に感じるほどに強い力も、獅郎が死神だと思えば何の不思議もない。
なぜ死神が自分たちに接点を持ってきたのかは不明だが、味方だと思うほどおめでたくはない。
他の死神の手引きをしている可能性さえある。だとしたら、この場所で野営をするのは危険だ。
「……お前は?」
「様子を見る」
「でも」
「行け」
話している時間はない。見上げると、ジンは初めと同じように唇を噛んでいた。
そして、思い切るように頷く。

一人残ったサラは、腰の懐剣を引き抜いた。
仲間の命を持っていったら殺す。そう言ったのに。
……また、斬らなければなるまい。