夢と、現実の間をうつらうつらと漂っていた。
よく覚えていないが、とても幸せな夢を見ていた気がする。

自分の手の指も数えられないような闇の中で、無我夢中で走り抜ける夢。
薄暗がりの中で、ぼんやりと輪郭が霞む見知らぬ町を、延々と歩き続ける夢。
これまで見てきた夢の中の乱菊はいつも、どこかへ向かっていた。

かすかに思い出すと、さっき見た夢の中で乱菊は、立ち止まっていたような気がする。
―― 「松本」
やわらかく呼ばれた気がして振り仰ぐと、思いがけなく明るい世界が広がっていた。



見慣れた木の天井を、目が覚めた後も、乱菊はぼんやりと見上げていた。
夢の中で呼ばれた時の余韻が、その胸の中にあたたかくとどまっていた。
「……お目覚めですか? 副隊長」
そう呼ばれても、しばらく現実の世界に戻ってくるのに時間がかかった。
しかし不意に我に返った乱菊は、同時に弾けるように布団を撥ね退けて身を起こす。

「……なんで、あたしはここにいるの?」
まだ新しい香りのする畳、拭き清められた床の間。皺ひとつない障子。
そして、遠くから聞こえてくる聞きなれた喧騒。十番隊の客間に違いなかった。

声が聞こえた縁側を見やれば、閉じられた障子の向こうに、十番隊三席の久徳の影が映っていた。
太陽はすでに高く、縁側の向こうには青空が見えている。
「入ってもかまいませんか?」
「……ええ」
当初の動揺から立ち直り、布団の上で上半身を起こす。
ゆっくりと久徳が部屋の中に入ってくる。そして、布団から少し離れた場所で正座した。

「昨夜、私は隊長の命により落陽に参りました。
そして、眠っていらっしゃった副隊長を瀞霊廷へとお連れするようにと命じられました」
「じゃあ、隊長は今、一人なの?」
知らず知らずのうちに、声が高くなる。久徳は頷いた。
「副隊長もご存知でしょう。隊長は、周囲にできるだけ影響を与えないよう現在の状況を利用して、
花を得ようとされていました。しかし今、隊長は考えを変えておられます」
「変えてる、って……」
「自らの手で討つおつもりですよ。貴女の敵を」
貴女の敵。断言した久徳を、乱菊は訝しげに見返す。
「……どこまで知ってるの? 貴方は」
穏やかな鳶色の瞳は、全く動揺の色を見せない。
「隊長は何もおっしゃいませんでしたよ」
「……時々怖いわ、貴方」

乱菊は言葉を止め、礼儀正しく座っている久徳を見やる。
最も敵に回したくないのは、こういう男かもしれないと、ふと思う。

確かに日番谷は、元々ぶつかる運命だった花守と朱雀の戦いに乗じて、花を奪おうとしていた。
それは、死神が介入することによって余計な死者や騒動を起こさないためだっただろう。
そして日番谷が一人を選んだというのなら、その理由はきっと、仲間を巻き込む心配なく戦えるからに違いない。

日番谷が乱菊の敵を……如月を討つところを、想像する。
あの野獣のような男を、怜悧な刃が貫く瞬間を。そこまで考えて、ぞっと胸を押さえる。
その瞬間、体を貫いた甘美ともいえる感情に、うろたえる。
自分は、望んでいるのか? 日番谷が、如月を殺すのを。



ハッと突然気づいて、乱菊は顔を上げる。傍に久徳がいることを忘れていた。
鋭いこの男は、今の乱菊の心の動きを、全て読み取ってしまったかもしれない。
「お疲れのようです。しばらく、お休みになってください。間違っても、隊長の後をお追いにはならぬよう」
久徳は乱菊の視線に気づかないように、膝に手を置き立ち上がる。
「……平気よ」
「平気でも、平気でなくとも貴女は大丈夫と仰る。……隊長もそうですが」
久徳は、穏やかな皺が刻まれた顔を和らげて、続けた。

「……昨夜、貴女の寝顔を見下ろしていた隊長の顔を、お見せできたらと思いますよ」
「……どういうこと?」
「そうすれば貴女も、自分を無碍に扱うことは、できないはずです。貴女は、貴女だけのものではありませんよ」
その瞬間に甦ったのは、自分を抱きしめた日番谷の腕の感触だった。
乱菊の頬に朱が差す前に、久徳はさらりと立ち上がると、部屋から出て行った。


***


縁側を照らしていた太陽の光は、今は部屋の中ほどにまで差し込んでいる。
久徳の余韻が残る部屋の中、乱菊はひとり迷っていた。

普段の乱菊なら、迷うことは考えられなかっただろう。
乱菊にとって、いや全ての死神にとって、隊長の命令は絶対である。
日番谷が乱菊に「瀞霊廷に戻れ」と命じたのなら、それ以外の選択肢はない、はずだった。
それなのに、今こうやって座っていることが、耐えられない。
すぐにでももう一度、落陽へ戻りたいと急く自分がいる。

どうして? 乱菊は自分に問うた。
隊長の背中を護るのが、副隊長の責任だから?
そうではなく、ただ日番谷に、会いたいのか。
そこまで考えて、乱菊は思わず頭を抱えた。あたしは、一体なにを考えている?
戒める心とは別に、記憶は昨夜の日番谷との邂逅の記憶を辿っている。
がっしりと重い日番谷の手首を掴み、掌を自分の髪に導いた時のことを。
あの時、日番谷の指が一瞬迷ったのを知っている。引き離そうとしながらも一瞬、自分を引き寄せようとしたことを。
目がくらむような気持ちで、抱きしめて欲しいと、焦がれる自分を知ってしまった。

―― 「間違っても、隊長の後をお追いにはならぬよう」
さりげなく久徳から投げかけられた言葉に、にがい笑いが浮かんだ。本当にあの男は、上品な顔をしながらも下世話な機微にも敏い。



気がつけば廊下をふらふらと、日番谷の自室に向かって歩いていた。
頭をよぎっていた日番谷は、成長した今ではなく少年の姿だった。
流魂街で、初めて出会った日のこと。深く傷ついた瞳を見て、抱きしめてあげたいと思った。
そしていきなり隊長と副隊長として、再会した日のこと。強い力を持ちながらも、アンバランスに小さな背中だった。
完全ではなく、弱さをはらみながらも、共に歩いてきた道は決して短くはない。

いつの間に、自分は日番谷に対して、このような気持ちを抱くようになっていたのか。
力になりたいとか、役割だとか、今乱菊を突き動かしているのはそんな動機ではないと、今はもう認めざるを得なかった。
「……会いたい」
ぽつりと漏らした自分の声に、乱菊はその場に立ち竦んだ。

見回せば、そこは日番谷の自室の前の縁側だった。視線を庭にやった乱菊は、目を見開く。
二日前の朝、乱菊が訪れた時にはなかった足跡が、縁側から庭に、外の道にむかって続いていた。
日番谷は二日前は夕方まで働いていたし、次の日の朝には落陽に向けて発っている。
つまり、この足跡を日番谷が残したのは出発前夜だと分かる。
怪訝に思ったのは、その道の先に人家はなく、人も立ち入らない森が広がっていたためだ。
その先を見やった乱菊の動きが、ふと、止まった。



ある確信を元に、乱菊は日番谷が残した足跡を追った。
足跡は迷いなく森に踏み入り、人一人がやっと通れる広さの道に、まっすぐに続いていた。
そして、その場所にはすぐにたどり着ける。
「……雛森」
日番谷が払ったのだろう。その漆黒の墓石の上だけは、雪が積もっていなかった。


墓には、花も供え物もなかった。
墓石の前に跪き、手を合わせようとした乱菊は、同じ場所に日番谷の草履の跡が並んでいるのに気づく。
その前に二つ、丸く雪が溶けた跡が残っていた。
しばらくそれを無言で見つめた乱菊は、ゆっくりと掌をその跡にあわせてみる。
自分より一回り大きなそれは、場所から見て日番谷が掌を置いた跡のようだった。

ああ、とため息が漏れた。
雪が溶け地面が見えるほど長い間、この場所に拳を置いた日番谷は、一体どれくらいの間、どれくらいの絶望と戦ったのだろう。
突っ伏した視界から見上げた雛森の墓は、冷たく、高く、どこまでも黒い。
二度と会えない、断絶を見せつけるように。


本当は、分かっていた。
日番谷が、自分には見せない柔らかな表情で、彼女のことを話すたびに。
ふとした素振りで、言葉で、分かっていたというのに。
「雛森……あんたが、うらやましいわ」
ぽつりと呟く。
「百年経ってもずぅっと、隊長に愛されるなんて、ね」