隊長であれ末席であれ、不測の事態に備えて単独行動はしない。
その原則を破ってまで久徳を瀞霊廷に帰した理由は、一人になりたかったからだ。
隊長としての立場がある以上、部下の前でドス黒い感情を晒したくはなかった。
他の隊長ならば、押さえ込むこともできるのだろうが―― そこまでまだ、醒めることができない。
そういえば、あの時も松本がらみだったな、と日番谷はほろ苦く笑った。
***
……黒崎一護は、追ってきていない。
市丸と対峙した日番谷は、遠くの一点に留まったままの、一護の霊圧を追った。
霊圧を消してここまで来たから、追いたくとも追えなかった、というのが一護としては正解だろうが。
市丸は、腹が立つほど変わっていなかった。
白い死覇装のような着物こそ砂漠の生活のせいでくたびれているが、表情や気配は三番隊長だった頃と変わらない。
まるで、瀞霊廷で向き合っているかのような錯覚を起こさせる。
市丸も、同じことを考えたらしい。その口角が持ち上げられる。
「……変わらんな、十番隊長さん。変わったんはボクらの関係だけや」
「変わらねぇよ、何も。てめえは昔から、いけ好かねえ奴だった」
ヒドイなあ、と市丸の笑みが苦笑いに変わる。
戦意がないのを示すように、ひょい、とその両手を挙げて見せる。
「ボロボロやん、お互い。これ以上戦う意味、あるん?」
「てめえらを最後の一人まで討つのが、俺の任務だ」
「相変わらず仕事熱心やなあ。……こんな汚れ仕事、よう引き受けたもんや」
汚れ仕事。確かに、と日番谷は心中で苦笑する。
瀞霊廷は、もう藍染の裏切りなど無かったかのように、復旧に急いでいるというのに、
一方で砂にまみれながら殺し合いを続ける自分達がいる。
「俺が言い出したことだ」
ざっ、と前に踏み出した時、砂に足を取られそうになる。ここまで疲労が溜まっているのかと自分で驚いた。
長期戦になれば、持たない。しかしそれは、同じ戦争を潜り抜けてきた市丸も同じはずだ。
「……乱菊は、元気にしとる?」
「てめえが、松本の名前を口にすんな」
打てば響くように、言い返す。市丸はそんな日番谷を、一瞬動きを止めて見つめたが、やがて楽しそうにくつくつと笑い出す。
「何がおかしい?」
「分かりやすい性格も変わらんなあ。あんたが討伐を引き受けた理由は、ボクを殺すためやろ?」
「……」
「幼馴染を裏切ったボクが許せんかった? あんたは裏切られたクチやからなぁ……っと!」
市丸は言葉を切って、危なげない動きで背後に飛び下がる。さっきまで市丸がいた場所に、氷の刃が次々と突き立った。
自分の中に残っている力を、ここで全て引き摺り出すつもりだった。その結果、どうなってもかまわない。
もう少しだけ一緒に戦ってくれよ、と頼むように氷輪丸の柄を握り締める。静かに始解した。
「……ボクを殺したいんか? 十番隊長さん」
「違う」
わずかに、市丸が目を見開いた。
「じゃあ、何しにここまで来たん?」
「てめえを、瀞霊廷まで引き摺ってでも連れて帰るためだ。松本の前で、土下座して謝って貰う」
―― 「ギンは、見つかりましたか?」
日番谷が会いに行くたび、苦しい息の下から同じ問いを繰り返す、乱菊の姿が思い出される。
平気な顔をしながらも、どれほど日番谷の答えを恐れているのか、手に取るように分かった。
そうだよな、と日番谷は思う。幼馴染を失う苦しみを、自分は身に染みて分かっているから。
「……『嘘』が下手やね」
市丸は、頬に亀裂のような微笑を浮かべた。腰に差した神鎗を無造作に引き抜く。
二本の斬魂刀の切っ先が向き合う。互いにゆっくりと半円を描くように進みながら、にらみ合う。
一瞬、市丸の笑みが深まったように見えた。と思った時には、伸びた神鎗の切っ先が日番谷の眼前にまで迫っていた。
始解、と咄嗟に判断する。さすがにもう卍解する体力はないか。
避けることは、安易に推測されるだろう。刀で受ければ、さらに突っ込んでこられれば不利。
日番谷は右手の拳で、神鎗の峰側を払った。鈍い痛みがはしったが、構ってはいられない。
思い切り、地面を蹴る。相手の刀は一本、懐に飛び込めばこっちの勝ちだ。
紅蓮の目を見開いた市丸の膝に、足を乗せる。脇から斬り上げた氷輪丸が、その顔面に迫る。
「赤火砲!」
市丸が口走ったのと同時に、炎が日番谷に迫る。しかし日番谷は動きを止めなかった。
鈍い音が響き渡り、双方が飛び離れる。
ぱしん、と音を立てて、日番谷は自分の身を走った炎を消した。
首筋から右腕にかけて引きつれるような痛みが走る。
「……保身を考えてへん戦い方やな」
「うるせえ」
向き合った市丸の額からは、鮮血が流れ落ちていた。
思ったとおり、今の日番谷と市丸の力は逼迫している。共に体力の削りあいになることは間違いなかった。
ひゅっ、と音を立てて、市丸が矢継ぎ早に斬りつけてくる。日番谷は紙一重でかわした。
一太刀でも浴びれば、命に関わる。市丸の紅蓮の瞳が、細められた。
「……あんた、ここに死にに来たな」
剣戟の合間に投げつけられた言葉は唐突だったが、意外には思わなかった。
「くだらねえ。何を根拠に」
「……あんた、誰のために生きて帰るつもりや? 雛森ちゃんがおらんのに」
「……っ!」
刀を払い、飛びさがる。これくらいのやり取りで、息があがるとは相当体力を失っているらしい。
なおも市丸が突っ込んでくる気配を感じた。
ざまあねえ、と心中嘲笑う。こんな男に、自分の心理を見抜かれるなんて。
―― 誰のために。
問うまでもなかった。今までは、どんな死地にいても、必ず生きて帰ると決めていた。
自分が死ねば、雛森が泣く。それだけのことかと人は笑うかもしれないが、生死を決める一瞬に浮かぶのは、いつも雛森の笑顔だった。
もう、雛森はいない。
「隙だらけやで」
しまった、と思う間もなかった。市丸が放っていた「這縄」が日番谷の足に絡まり、熱い砂の上に引き倒されていた。
「ここまでや」
素早く身を起こした日番谷の眼前に、市丸の神鎗の切っ先が据えられた。
中途半端に上半身を起こしたまま、日番谷が動きを止める。右手に握っていた氷輪丸を、すかさず市丸が脇へ蹴飛ばした。
「……言い遺すことは、あるか?」
「お前の勝ちだ。とっとと決めたらどうだ」
一護が気づいた、と察するだけの心の余裕があるのが、我ながらおかしかった。
猛スピードで、霊圧が近づいてくる。一護が血相を変えて割り込んでくる前に、さっさと終わらせてしまえばいい。
一護は、いや乱菊は、日番谷が雛森の後を追うのではないかと恐れていた。
そんなつもりはない、と答えた言葉に嘘はないつもりだったが、結局同じことかもしれない、と今頃になって日番谷は気づいた。
一方、市丸は一護の霊圧に気づかないように平然と続けた。
「最後の望みやったら、聞いてやってもええで。乱菊の前に土下座したらいいんやろ? ……無意味やと、あんたも分かってるやろけど。
ボクはもう二度と、乱菊の元には戻れん」
どうしてなのだと、聞く気にはなれなかった。日番谷も、そんなことを本気で、望んでいたわけではなかった。
「杞憂やで、十番隊長さん。乱菊はどこぞのお姫さんやあらへん。男に体売って生きてきたような女やで。男の裏切りなんか、慣れとる」
「……何を、言ってる」
その言葉は、思いがけないほどに日番谷の心に衝撃を与えた。
「なんや、知らんかったん? ボクと会う前の話やけどな。何人と寝たか、覚えてへんって言ってたな」
市丸は、日番谷の反応を意に介することなく、笑った。
それから市丸が話した乱菊の体験は、当時の日番谷にとっては聞くに堪えないものだった。
「……市丸」
市丸の話す言葉が、意味を持って理解できるのに、しばらく時間がかかった。
陵辱? 体を売る? 何十年もの間、一人で?
日番谷はほとんど言葉を挟むこともできず、動き続ける市丸の口を見つめることしかできなかった。
こいつは、松本の幼馴染で、松本が誰よりも大切に思っている奴、のはずだろう?
それなのに、
「……なんでてめえは、笑ってんだ」
気づけば、神鎗の切っ先を、右手で掴み取っていた。
当然ながら、掌が切れる感触と共に、血が腕を伝って流れる。痛みは、感じなかった。
市丸が一度でも神鎗の力を発動させれば、日番谷は串刺しになる。しかし市丸は、一歩退いただけだった。
乱菊がどれほど市丸を想おうが、市丸は乱菊のことなど考えていない。「裏切り」すら、そこには発生しない。
乱菊の過去の傷を平然と語る市丸を見れば、そうだとしか思えなかった。
「なんでって? だってボク、いっつもこの顔やし」
「……何も、思わないんだな」
乱菊が、平気なはずがない。そんなことも、分からないんだな。
歯を食いしばり、ぐい、と神鎗の切っ先を脇に退け、立ち上がる。
「……松本は、俺が護る」
あまりにも、遣る瀬無いではないか。これで、自分も生きて戻らなかったとしたら。誰が乱菊の共にいるというのだ。
「……氷輪丸」
立ち上がった日番谷が名を呼ぶと、音もなく氷輪丸が宙を舞い、日番谷の左手の中に納まった。
力を欲しい。これほどまでに、強く願ったことは無かった。
「……タイムアウト、やね」
構えた市丸が、身を起こす。その刹那、
「冬獅郎っ!」
一護の叫びが、その場を貫いた。と同時に、繰り出された斬月の一撃が、その場の砂を吹き飛ばした。
「冬獅郎っ、大丈夫かよ!」
「騒がしい野郎だ」
「あ!?」
眉間に皺を寄せた一護だが、日番谷の右手から流れ落ちる血を見て、その場にかがみこむ。
ぐっと腕を掴んで引き寄せた。
「お前、その手……骨見えてんじゃねぇか!」
利き腕がこんなでは戦えない。分かってはいたが、日番谷はずいと前に出た。市丸がいる方向は、砂煙のために見えない。
「十番隊長さん。アンタに、ひとつ頼みがある」
煙の向こうから、市丸の声が聞こえた。ぼう、と輪郭は見えるが、どんな表情をしているかは分からない。
一護が、油断なく斬月を構えた。
「乱菊を、幸せにしてやって」
「……なに?」
声を出したのは一護だった。問いかけるような視線が、日番谷に向けられる。
日番谷は、とっさに何も返せなかった。
「……どれが本当なんだ? お前は」
思わず、思ったままを口にしていた。乱菊の不幸な記憶を笑いながら語った直後に、幸せにしてくれと言うのか。
気まぐれなこの男の言葉が、分からない。真意も分からない。
ただ、その時の市丸の姿には、いつもの得体の知れなさや不気味さよりも強く、深い孤独が張り付いているように見えた。
ただそれは、日番谷がそう思いたかっただけかもしれない。
「……二度と、てめえが松本に近づかないなら」
こんな男のことを理解することなんて、生涯無い。そう断言しながらも、一瞬だけ、胸をよぎった思いがある。
自分は誰よりも雛森の隣にいたのに、雛森を幸せにしてやることはできなかった。
そんな自分と市丸は、似ているのかもしれないと。しかし、それはやはりほんの一瞬のこと。
市丸は、右手をわずかに上げたようだった。ようだった、というのは、煙幕がいまだ晴れなかったからだ。
あ! と一護が声を上げる。一歩踏み出した時には、市丸の姿は影のように消えていた。
「……冬獅郎」
名前を呼ばれても、返す気が起きなかった。それくらいに疲れていた。
一護が懐から取り出した布を細かく裂き、掌に巻いてくれるのをぼんやりと眺めていた。
「お前はさ、桃さんが死んで、全てがゼロになったみたいに思ってるのかもしれねぇけど、それは絶対に違うんだぞ。
待ってる人達のところへ帰るべきだ。……もう、戦争は終わったんだ」
戦争は、終わった。
日番谷は、煙幕が晴れた砂漠を見渡す。確かに。もう、ここには何もない。
自分は、もしかしたら戦争を終わらせたくなかっただけかもしれない。
雛森の死が、戦争の終結と共に一種のピリオドを打たれ、そのまま風化していくのが、やるせなかったのかもしれない。
松本は、無事だろうか?
大切な者に裏切られようとも、俺達の心臓はまだ動き続けている。
戦争を終わらせ、前へ。日番谷は一護に向かって、小さく頷いて見せた。