日番谷は花守を後にし、朱雀のアジトへと足を急がせていた。
頬を切るような冷たい風が、びゅうびゅうと音を立てて耳元を吹きすぎてゆく。
瞬歩を繰り返しながら花守の里のある西を見やると、闇の中で空がわずかに明るく見えた。
この距離なら、たとえ花守の里で突然異変が起こっても、すぐに駆けつけられるだろう。
朱雀のアジトが、近い。日番谷は速度を落とし、岸壁の上に降り立った。

自分が流魂街の住人に及ぼしうる影響を考えないのなら、わざわざ朱雀に潜入するまでもない。
ただ、「名も無き花」が咲いた時を見計らって、単独で突っ込んで花を奪えばいいだけだ。
それなのに、気づけば足が朱雀のアジトへと向かっていた。
出会ってわずかなのに、あの少年達のことが引っ掛かる。特に、砂のように乾いた気配を持つ、あの少女のことが。
サラは、「幸せを壊された」のだとリョウは言っていた。


「幸せ、か」
岩と岩との間を、身軽に飛び移りながら一人ごちた。
例えば幸せが、くだんの花のように形があるものなら、手に入れて与えることができる。
与えることができるというのなら、乱菊にそれを与えてやりたかった。
市丸を乱菊から引き離したのが自分だと思えば、なおのこと。

松本乱菊を幸せにしてやりたい。市丸なんぞに言われなくてもそう思う。
それなのに心を覆い尽くそうとするドス黒い感情に、日番谷は自分でうんざりしていた。
市丸を忘れられずに声を押し殺して泣く乱菊を見て、市丸を憎んだ。乱菊を陵辱した男を知り、殺してやりたいと思った。
それは、もはや乱菊のための感情ではない。ただ、自分のためだけの感情だ。
その証拠に、自分を目の前にして震えていた乱菊を見て、どう思った?
すべて弁えたかのような紳士的な態度とは裏腹に、無理やり踏み込んで、奪ってやりたいと思ったのは他ならぬ自分ではないか。
これでは、これまで乱菊に接してきた男と、変わらない。乱菊が震えだすのも、無理は無い。
日番谷はそこまで考えて、大きく息を吐き出した。とめどなく浮かぶ考えを、振り払う。

乱菊を幸せにしてくれ、とはよく言ったものだと思う。
市丸は、百年後の日番谷を、牽制でもするつもりだったのかもしれない。自分が二度と乱菊の目の前に現れないのを引き換えに。



朱雀のアジトの炎が、かすかに眼下に見えている。物思いにふけっていたため、思わず通り過ぎそうになった。
突然体に伝わってきた伝令神機の振動に、日番谷は我に返る。
慌てて立ち止まり、震え続ける機械を懐から取り出すと、耳に当てた。
「……日番谷だ。京楽か? 何の用だ」
「ああ、日番谷君かい」
遠く離れた瀞霊廷から届く京楽の声は、いつもどおり人を落ち着かせるような余裕をたたえている。
「首尾はどうだい。ていうか驚いたよ。乱菊ちゃん、瀞霊廷に戻ってきてるじゃないか」
「ああ。松本は瀞霊廷に戻した」
「じゃ、代わりに誰か寄こしたのかい? まさか、一人?」
「ああ、今は一人だ」
驚いたね、と京楽は別に驚いていなさそうな声で言った。

「油断は禁物だよ。四楓院から聞き出したんだけどね。花守の里には、彼らの手に負えない強者が三人いたらしい。
ま、推測するに副隊長クラスより強いか弱いか、というレベルだろうね」
「……そんな奴が、三人も?」
どういうことだ、と日番谷は眉を寄せた。まだ役者は出揃っていないということか?
二人は、花守の里にいる者たちのことだろう。
一人は、乱菊を陵辱した男。もう一人の実力は、存在は確かに感じるものの、実力ははっきりと掴めなかった。
しかし、最後の一人は誰だ? 朱雀もつわもの揃いだが、副隊長に迫るとまでは思えない。

「四楓院家の連中はプライドが高いからね、多くは語らなかったけど。いかに君でも、三人にいきなり囲まれたら困るでしょ。
なんなら、八番隊から誰か寄こそうか?」
「はっ、一度に片付いて好都合なくらいだぜ。大体、人が足りてねぇ訳じゃねぇ」
ふっ、と京楽が静かに笑う気配が伝わってきた。
「相変わらず頼もしいねぇ。ま、心配はしてないさ。……乱菊ちゃんは大丈夫かい?」

「……」
日番谷が沈黙を守った理由はふたつある。
一つは、少し前の乱菊の様子を考えれば、とても大丈夫だとは断じられなかったことだ。
そしてもう一つの理由は……日番谷の首元に、突如白銀の刃が突きつけられたからだ。
微動だにするだけで切っ先が触れそうな距離に、日番谷は視線をめぐらせることしかできなかった。

「……サラ」
恐ろしいまでに気配を感じさせない女だと、改めて舌を巻いた。
いくら物思いにふけっていたと言っても、隊長格に気づかれずに近づき動きを封じるなど、簡単にできることではない。
まさか、「三人目」は、この女なのか。
「……君。死神、だね」
サラの視線が伝令神機に向けられているのを見て、日番谷は瞬間的に観念した。

「何かあったのかい?」
異変を察知したのだろう、電話の向こうの京楽の声は固い。
「……今日は電話には運がねぇ日だ」
「は? どういう……」
「客が来てるんだ。切るぞ」
京楽がなんとも返さないうちに電話を切り、サラを見返した。


「なぜ朱雀に近づいた」
「……お前の仲間をどうこうする気はねぇ。花に用があるだけだ」
サラの鳶色の瞳を見返したが、意志が全く読めない人間は恐ろしい。
次の瞬間、切っ先を突き出してきても分かるまいと思えた。
「花を取り戻すつもりか?」
「お前に刺されなければ、そうするさ」
サラは、一瞬視線を伏せた。しかしすぐに顔を上げて、真っ直ぐ日番谷を見据えてきた。
膜に覆われたかのようにかすんだ鳶色の中に、かすかに意志が宿る。そして続けられた言葉は、思いがけないものだった。
「わたしと組まないか? 花守の傭兵を蹴散らすまで。花を盗れるのは生き残った方。両方生きてた場合は、早い者勝ちでいい」
「……他の仲間はどうする気だ」
「置いていく」
一瞬のためらいも見せず、サラは言い切った。

「どうするの? ここで刺されるか。手を組むか」
この女、仲間が言うように本当に自我を失っているのか? 日番谷はもう一度、疑った。
めまぐるしく変わる状況の中で、手を叩くくらいの一瞬で決断する。
その思い切りのよさが、この短い問答によく現れていた。
「……乗った」
本気を出すなら、サラを撥ね退けることは難しくはない。
しかし、手を組んだ先にあるものを確かめたいと思った。
「決まりだね」
サラは、日番谷の首筋に突きつけていた刃を、スッと下に降ろした。