氷原が広がる峡谷を、風が高い音を立てて吹き抜けてゆく。
その中に、時折キィン、と甲高い金属質な音が混ざった。
雄叫びを上げ、刀を握ったジンが思い切り振りかぶる。そして、向かいに立つ日番谷に向かって斬りつけた。
日番谷は上段の一撃を体を逸らして避けると、軽い動きで背後に下がる。
続けて打ちかかったジンの攻撃を、手にした脇差で受け止めた。互いの間に、白い息が散る。
「打って来いよ、シロウ!」
挑発するようにジンが怒鳴りつける。そして、大きく一歩踏み込む。その瞬間、日番谷は瞬歩で姿を消した。
「ジン、後ろだ!」
見ていたリョウが声を上げる。
やっぱりいい目をしている、と日番谷は思いつつ、無防備なジンの背後に回った。
トン、とその肩に刀の峰を打ち下ろす。ただ置いただけの軽い動きだった。

「……ちぇ」
慌てて振り返ったジンだが、自分の敗北は分かったらしい。ふてくされたように舌を打った。
「まだまだ、目が近くに行き過ぎてるぞ」
「手加減すんな、峰打ちにもなってねぇぞ」
「やめろよ、ジン。明日花守に討ち入るってのに。怪我したら置いてくぞ」
リョウの隣に腰を降ろして戦いを見守っていた黒髪の子供が声を上げた。
その声音を聞き、日番谷は刀を鞘に収めてそっちを見やる。
「……お前、女か」
リョウやジンと同じように、男物の着物を無造作に着ただけの姿だったから、男だと思っていた。
「男か女かなんて、どうだっていいだろ」
男そのものの言葉遣いだが、その声はやはり男にしては高すぎる。
「サクラってんだ。そういえば女だったな」
リョウの失礼といえば失礼な言葉にも、眉一つ動かさない。
確かにこの世界の中では、女の格好は動きづらい上、何かと危険なのだろう。
初めは朱雀は全員男だと思っていたが、よく見ると女も数少ないが混ざっていた。

リョウが伸びをして立ち上がる。
「だな。花が咲くのが明日か! 早いもんだ」
「俺、ちょっとは腕上がったかな」
ジンがさっきふてくされていたのが嘘のように無邪気な笑顔を浮かべて、日番谷とリョウを見比べた。
「まあ、な」
軽く日番谷はそう返したが、事実だった。正直、ここの少年達の力の伸びには目を見張るものがあった。
ジンが乱菊と試合をすれば、勝てはしないだろうが、いい勝負をするのではないだろうか。
戦いのスキルや、霊圧の操り方は乱菊に及ぶべくもないが、力と素早さはジンが上回っていた。

「ありがとな。お前が稽古つけてくれたお陰だ。お前がこのタイミングで朱雀に入ってくれて良かったよ」
ジンは屈託ない笑みを見せたが、サクラは軽く眉を顰めた。
「あまりにタイミングが良すぎる。お前、本当に例の花を狙っていないのか?」
ふん、と日番谷は軽く鼻を鳴らす。
「狙ってないとしたらNOって言うさ。逆に、狙っててもNOと言うだろうな。無駄な質問だ」
「……もっともだ。ただ、無防備にお前を信じることはできないってことさ」
よせよ、とジンが軽く声をかけられ、サクラは肩をすくめて黙った。
確かに、サクラの反応の方が最もだと日番谷も思う。……その懸念は、杞憂ではないのだから。

「お前達こそどうなんだ。ま、願いが叶う花を目の前にして、欲しがらねぇ奴はいねえか」
「欲しがってたのはハクさ。あいつが何を望んでたのか知ったこっちゃないけど」
「……裏切ったとはいえ、前のリーダーに向けるとは思えねぇ台詞だな」
サクラは無言で、リョウとジンを睨んだ。余計なことを日番谷に話したと思っているのだろう。
「ハクがリーダーだなんて、あいつが裏切るずっと前から誰も思っちゃいなかったさ。
力も、頭脳も、カリスマ性も、ぜーんぶサラが上だったんだから。でもハクがいる限り、下克上は起こらない。
ああなったのも自然の成り行きでさ。しかたなかったんだとアタシは思うよ」
「……その結果が、アレじゃねぇか」
リョウがそう言い、四人は同時に見上げた。
数十メートル離れた崖の岩の上に腰掛け、放心したまま座っているサラの姿があった。
右膝を立てた上に腕を置き、その上に顎をついて西の方向を見つめている。……花守の里の方向だった。

「……サラが唯一拘ってるのが、『花』だ。それ以外にはピクリとも反応しない。花を手に入れたら、前に進む気なのかもな」
リョウの言葉に、日番谷は複雑な思いに駆られる。
確かに、サラは「名も無き花」に拘っている。花を手に入れるために、この朱雀を置き去りにしようとしているのだから。
一瞬だけ見せた、意志の残像とでも言うべき瞳の輝きを思い出した。
「理由がなんだろうが、構わないさ。サラが欲しいなら、朱雀は一丸となって戦う」
それだけに、続けられたジンの言葉は、日番谷をうがった。

「……願いなんて」
不意に、サクラが独り言のように言った。
「こんな永久凍土しかない大地で、何を願ったらいいんだい? ひとつやふたつ願いが叶ったところで、どうにもなりやしない。
ただ、アタシは。落陽を自由にしてさ。みんなで普通に、仲良く暮らせたらそれでいいよ」
「男装なんて止めてな! お前、女の格好したら割と美人だろ」
「うっさい、リョウ!」
三人のやり取りを背中に聞きながら、日番谷は踵を返した。追いかける視線を感じたが、足は止めなかった。
普通に、仲良く。それだけは願いを叶えてやりたいと、そう思いながら。


***


どうしてこんなことになったのか、などと。起こってしまった過去を悔やんでもどうしようもないことは分かっている。
わたしは、こんなに優柔不断な女だっただろうか。そう、サラは思う。
結論を自分の中に求めても、かつてはいつも芯の部分に存在した「自分」が、霞のように消えたかのようだった。
まるで、ハクと自分の精神が手を取り合って、自分の中から立ち去ってしまったかのように。

「願いを叶える花だって?」
いつもの夕食の最中、団欒のなかにそんな声が上がったのを聞いたのは、今から一ヶ月前のことだった。
「ああ。なんでも叶うらしい。欲しいと思わないか?」
乱暴な言葉遣いが多い朱雀の中で、ハクの其れは丁寧で、それだけでほかとは違うように聞こえる。すぐに、落ち着いたリョウの声が返した。
「やめといたほうがいいぜ、ハク」
「怖気づいてんのか? リョウ」
「違う。俺達の目的は、花守を倒して落陽を解放すること。ほかに欲目振ってる場合か?
大体、願いって言っても一つしか叶わないらしいじゃねぇか。誰の願い叶えるつもりだ」
尖ったリョウの言葉に、仲間たちが一様にざわめきだす。行き交う声に混ざって、ハクの声が聞こえた。

願い、か。興味ないな、とサラは手にしていた金串を地面に刺した。
ハクという恋人がいて、仲間に囲まれ、今日は無事に終わり、明日も死ぬ予定は今のところない。それ以上の何を求めよう?
しかし、ハクがそれが欲しいというなら、話は別だ。

そこまで考えたとき、サラはいつか仲間達が静まり返り、自分に視線が注がれているのに気づいた。
「なに? あたしの顔になんかついてるの?」
「サラ。お前はどう思う?」
「なぜあたしに聞くの。リーダーはハクでしょ。リーダーが決めたことには絶対服従が朱雀の掟」
サラはため息をついて、何か言いたそうなその場の全員を見回した。
「あたしが先頭に立つ。後、誰が来るんだ?」
これまで一度も、敵にも味方にも敗北したことはない。いつか痛い目を見るといわれたことはあったが、あの屋敷の連中に負けない自信はあった。
「お前がやるなら、俺が行く!」
「俺もやる!」
単純な返事に、思わずサラは笑ってしまう。仲間というのは、悪くないものだと思う。崩れた緊張の先に、強張ったハクの顔が見えた。


それから一時間後、ばらばらに塒(ねぐら)に仲間が散った後、サラはいつの間にかいなくなったハクを探していた。
なぜ、「名も無き花」を求めるのか。それを問いただすつもりだった。
朱雀の発足時、ハクは落陽を自分が救うんだと希望を持っていたし、リーダーという仕事にも誇りを持っていた。
それなのに、最近のハクは少しずつ変わってきたように思う。
仲間の間に亀裂を生じかねない「花」の存在は、サラの心に暗雲のような不安の影を落としていた。
そしてサラは、仲間から随分離れた岩陰で、ハクが煙草をふかしている後姿を見つけた。
「……ハク」
静かに声をかけて近づくと、ハクはわずかに振り返り、煙草を投げ捨てた。その隣に、サラはぴったりと座る。
温かな体温と、鼓動を感じた。自分よりわずかに低いハクの体温を感じると、心が凪いで行く。それは、何者にも替え難いものに思えた。
「サラ」
いつもの、穏やかな声だった。その白い肌、銀色の髪をいつ見ても美しいと思う。
ハクに肩を抱き寄せられ、その顔が近づく。サラは静かに目を閉じた。

刹那。
懐で、金属がこすれるかすかな音が聞こえた。本能的にサラは目を開けた。

シャッ!
鋭い風切音。目を開けたサラの視界に、パッと舞う砂色の髪が見えた。そして熱い痛みと共に、血しぶきが舞う。
敵襲か? 何が起こったのか分からないうちに、その場から飛び退く。右のこめかみに掌を当てれば、ぬるりと血の感触があった。
滴る血が、右目の視界を奪ってゆく。

赤くかすんだ視界の向こうに、立っている男の姿が見えた。
短刀を片手に持ち、切っ先をサラに向けていた。彼女の視線を受け、男はチッ、と舌を打ち、短刀を投げ捨てると懐の大刀を引き抜いた。
「……ハク?」
目の前の風景の意味が、理解できなかった。なぜハクが、自分に斬り付けなければならないのだ?

「……お前が、悪いんだ。お前は朱雀を乱す」
「な……に、言ってるの?」
きぃん、と耳の奥が鳴って、ハクの声がよく聞こえなかった。何か、とんでもないことが起きようとしていることだけは分かった。
朱雀のほかの仲間は異変には気づいていないらしく、ことりとも周囲からは音がしない。ハクは声を高めた。
「お前の願いは、朱雀のリーダーの座を乗っ取ることだろう!」
「……そんなこと、夢にも考えてないよ」
まさに、寝耳に水の言葉だった。
「花を奪うと言ったとき、あたしはあんたに味方した。あんたがリーダーだからだ。ハクの決定に異を唱えたことなんてない!」
「他の奴らは、俺じゃなくてお前の決定に味方したってことだろ」
明らかに、ハクは苛ついている。どんどん高ぶる感情をもてあましているようにも見えた。
「言い出したのはリーダーのあんたでしょ」
「お前の、そういうところが許せないんだよ!」
「……え」
突如激昂したハクに、サラは立ちすくむ。

「お前は気づいてる癖に黙ってるんだ。きれいごとを言うな! 朱雀の奴らは、とっくにお前をリーダーだと思ってる。
お前のほうが強い。お前のほうが速い。お前のような能力は俺にはない! 分かっているくせに、俺を嬲るつもりか」
手にした刀の切っ先がまっすぐサラに向けられる。その先は、かすかに震えていた。
「勝負しろ、サラ。勝ったほうが朱雀のリーダーだ」
「……待ってよ」
返したサラの声も、震えていた。
「あたし達は、恋人でしょ? あたし達の間にあるのは、勝ち負けでも優劣でもない、違う?」
この氷に覆われた地の中で、ぬくもりは人の中にしかない。そう、信じていた。
過去形にしなければならないことを、サラは近づく刃から知った。

その時だった。静寂の中で、サラを呼ぶジンの声が聞こえた。
この状況には気づいていないらしく、いつもの明るい声だ。不覚にもそれを聞いた時、視界が涙でぼやけた。
「……あたしを殺した後、どうするつもりなの?」
本能的に腰の刀の柄にかけた手を、他人のもののように見下ろした。
「花を奪ったら、こんな朱雀なんぞ、出てやる」
「朱雀はどうなるの。落陽は!」
「知るか」
頭をよぎったのは、朱雀を立ち上げた時の希望に満ちたハクの顔だった。
ぐっ、と唇を噛み締める。柄にかけた手に、力を込めた。

「……あんた、言ってたよね。朱雀がなによりも大切だって」
どうして「朱雀」と名づけるの? そう聞いた時のことを、思い出していた。
火の鳥は不死鳥。何度でも炎の中から甦る。今から立ち上げる「朱雀」をそんな風にしたい、と語っていたはずだ。
「昔の俺は、死んだ」
ぞくりとするほどに、暗い目だった。ああ、自分は隣にいて、何を見ていただろう。
相手が、自分を殺すほどに憎しみと募らせるのに気づかず、のうのうと過ごしていたなんて。それはもう、罪に近い。そう思った。
「……愛してた」
「昔の俺を、な」
サラは、手の甲で右目に流れていた血をぬぐった。泣くな、と自分に言い聞かせる。
「……そうだというのなら。昔のあんたの誇りを護るために、今のあんたを排す。朱雀を護る」
自分の声を聞きながら、まるで別人がしゃべっているようだと思った。

対峙は、一瞬で終わった。
サラの繰り出した刃は、的確にハクの足を狙った。ハクは避けることもできず、傷を受けて倒れた。
その時の記憶は、サラの中であいまいになっている。
ただ、歩み寄った時にハクに向けられた、恐怖と憎しみが入り混じった表情だけは、この後も一生忘れられるとは思えなかった。

足を引き摺って逃げたハクが、その後どこへ行ったのかサラは知らない。
ただ、足の腱を断ち切られたあの男が、この過酷な落陽の地で一人で生きることはもはや不可能なはずだった。
「お前の願いは、リーダーの座を乗っ取るつもりだろう」。投げつけられた言葉に、自分を嘲笑う。
ハクは、何も分かっていなかった。サラの願いはそんなものではない。
もっとささやかで、もっと平凡な……ハクがいなければ、叶えられなかったというのに。


***


「……あたしは、馬鹿だ」
岩の上に佇むサラは、こめかみに指を這わせる。消えなかった傷跡が指先に触れ、赤い布を額に巻きなおす。
「あんたが生きていてほしいのかどうかも、もう分からない」
「……サラ」
背後から静かに声をかけられ、振り返る。視界の先には日番谷の姿があった。
今の独り言を聞かれたのかそうでないのか分からないが、思いに沈んだ表情をしていた。

「お前の願いは、なんなんだ? ハクに戻ってきて欲しいのか」
かすかに、微笑が口元に乗るのを感じた。それが願えるのなら、どんなにいいだろう。
「馬鹿な願いだね」
否定も肯定もせずにそう返すと、日番谷は意外なことに首を振った。
「……俺の周りにも、そんな奴がいる。大切な男を見失ったんだ。引き裂いたのは、俺自身。つなぎなおせるものなら、つなぎなおしてやりたい」
サラは無言で、日番谷を向き直った。死神というのは全てを超越した存在だと思っていたが、違うらしい。
少なくとも、この男は苦悩に満ちた顔を見せた。ハクと容姿だけは似たこの男が辿ってきた道のりを、ふと思った。

そして、「その瞬間」は思ったよりも静かに、そして明らかにやってきた。
日番谷が顔を上げて花守の方角を見たのを見て、サラもその存在に気づいた。
目を閉じても、花守の里の方角が明るく感じる。
「……花にも霊圧ってものがあるんだな。さすが王家の宝だ」
そう一人ごちた日番谷は、サラに視線を戻した。
「時間だな」
「ああ」
短く言葉を交し合う。

「……いいのか。朱雀を置いていって」
日番谷の表情は、憂いを湛えている。サラはかすかに微笑んで頷いた。
「これは、わたしの問題だ。他の誰も巻き込めない」