予感など信じる柄ではなかった。
しかし、はるか離れた故郷で、兄の葉月が「何でも願いを叶える花」とやらを手に入れたと聞いた時、なぜか不快だった。
兄の持つ気配がそうさせるのか、花そのものが孕む気配なのかは分からない。
「時は満ちたり、てか……?」
ガラリと縁側を開けた時には、如月にはもう分かっていた。
花の持つ気配が、強烈に膨らんでいる。縁側から花の咲き乱れる庭を見下ろした時、
花々の上に、乳白色に輝く霧のようなものが立ち込めているのに息を飲んだ。
戦いになる。それは推測でもなく、数時間後に起こる事実だった。
―― あの男も、来るか……
東の方向に、わずかに視線を転じる。
直接如月は対峙していないが、素手で傭兵たちを打ちのめしたという男。
帯刀していたというから、徒手空拳以外にも戦う術がある、と見たほうがいいだろう。
人の気配を感じるのは不得意だが、その男の気配だけは、ぼんやりと東側に感じられる。
その男は、朱雀と共にいたという。となれば、手を組んでかかってくるか。
「……殺してやるさ。この手で」
見たこともない男の気配に苛つく自分を、どこか珍しいように感じてもいる。殺してやらなければ収まらない気がした。
必ず殺してやる。刻み込むように呟く。いつでも、自分の好きなようにやってきたのだ。
他人の命と、単なる物との違いが分からなかった。思い通りに行かない物は全て叩き壊して生きてきた。
如月は大股で縁側から降り、中庭へと向かった。所狭しと居並ぶ傭兵たちも、この異様な光景に興奮しているようだ。
誰が敵だか分かったもんじゃねぇ。肩で男達を押しのけ歩きながら、苦々しく思う。
所詮は寄せ集めの傭兵なのだ。願いが叶う花を目の前にしたら、寝返らないと考える方がどうかしている。
「兵衛! 矢の準備は出来てるか」
縁側で矢の手入れをしていた中年の男に、声をかける。
花守の里で長年仕えてきた、傭兵達の仕切りを任せてある男である。彼だけは、如月も信頼をおけた。
兵衛は皺が刻まれた口元をクッと上げると、手にしていた矢を如月に見せた。
「はい。何十人攻めてきても、問題ないですよ。コイツにかかれば一瞬です」
花守の圧制に反旗を翻してきた落陽の住人を、何十人も射殺したという鏃(やじり)。
それは、炎の照り返しを受けてもを光を反射しないほど黒くくすんで見えた。
「敵も味方もねぇ。花を盗ろうとする奴がいたら、即殺せ」
ことさらに、傭兵たちに聞こえるように大声を出す。しん、と周囲は静まり返った。
「……承知致しました」
「後、朱雀に混じって、毛色が違う桁外れに強い男が来るはずだ。そいつには手を出すな」
「なぜです?」
「俺の獲物だ」
兵衛は、ドス黒い感情をむき出しにしただろう如月の顔を、まじまじと見た。
やがて、口の端を捻じ曲げるようにして笑った。
「そういえば、先日屋敷から逃げたあの女、如月様の女だったそうですね」
「ああ? 乱菊のことか。逃がしやしねぇよ」
忌々しげに如月は吐き捨てた。
「追うおつもりですか? どうやって」
「今から攻めてくる男。そいつが乱菊の男だ。居場所を吐かせりゃいい」
「……なるほど。それで俺の獲物、ということですね。如月様でも、あれほどの女は惜しいと見える」
揶揄をこめた言葉に、如月は怪訝そうに眉を顰め、無言だった。そう見えるのか? と違和感を感じる。
確かにあれほどの容姿を持つ女を、如月はこれまで知らぬ。しかし、およそ女に執着したことなどなかった。
……あぁ、あの目だ。すぐに思い出す。
侮辱しても暴力を振るっても決して屈服しない、あの青い瞳だ。
あれを見るたびに、如月は昂ぶった。そして久しぶりに会っても、あの女は変わっていなかった。
どうしたら揺らぐ? どうしたら屈服させることができる。
そう思った時、例の男のことを告げた時の、乱菊の表情を思い出す。
―― 「……あの人を、侮辱したら許さないわよ」
あの時の彼女の目は、爛々と怒りに燃えていた。
そして、過去をばらすと続けた時、その表情は明らかな苦悩を示したではないか。確かにあの女はあの時、揺らいだのだ。
それほどまでに大切に思っている男が乱菊を裏切り、仇敵に向かって居場所を吐いたなら、あの女はどうするだろう。
そして、その上で無惨に殺されてしまえば、あの女は屈服するだろうか?
その場面を思い出すだけで、欲望がこみ上げてくる。楽しみだ。我知らず、笑っていた。
「……貴方は、怖いお人だ」
その様子を見守っていた兵衛が、ぽつりと言う。返そうとした如月は、角を曲がって現れた兄に視線を移した。
「おい、葉月! 親父はどうした」
黒い着流しに、黒髪をさらりと背中に流している。何度見ても、同じ血が繋がっているとは思えなかった。
鬼と呼ばれた自分の野卑な容姿とは真逆に、まるで浮世絵から切り出されたかのような風雅な立ち姿だった。
「奥の間で、その時を待っているよ。確認次第、私から声をかけることになっている」
ふぅん、と鼻を鳴らす。その容姿も声も、気に食わなかった。女のような外見をしやがって。
「お前は引っ込んでろ、葉月。戦えもしねえくせによ」
露骨に、軽蔑するような声音が混ざった。しかし葉月は顔色も変えずに微笑んだ。
「頼りにしているよ、如月」
そう答えた葉月は、不意に背後を振り返った。彼には似合わぬ、鋭い身のこなしだった。
「……おい、どうした」
如月の言葉が聞こえないように、背後に目を向けたままの葉月は、珍しく笑みを浮かべていた。
右の口角が軽く引き上げられた以外は、全く「笑っている」ようには見えなかったが。
ほぅ、と男にしては赤い口元が、かすかに嘆息を漏らす。
「……客人だ」
客人? 如月が眉を顰めると同時に、その女は視界に現れた。
かんざしで束ねていた髪は下ろされ、金色の輝きが腰の辺りまで覆っている。
漆黒の袷に、同じく漆黒の袴を身に纏っていた。背中の辺りに突き出して見えるのは、刀の柄だろう。
「……乱菊? てめえ……」
まさか自分から戻ってくるとは、夢にも思っていなかった。
乱菊は、如月ではなく葉月を見ていた。わずかに見える葉月も、彼女と同じく無表情。
「……如月」
やがて葉月は、背中を向けたまま弟に呼びかけた。
「せいぜい寝首を掻かれぬように」
わずかに、その口角が上がったように見えた。そのまま葉月は歩き出し、視界から消えた。
葉月を通り越すと、乱菊はすぱすぱとした足取りで、まっすぐに如月の方へ歩いてきた。
忌わしい気配だ、と思う。その漆黒の着物のせいか、それとも乱菊の足音が全く聞こえないせいか。
「どうしたの? 機嫌が悪そうね」
猫のような乱菊の瞳が、冷酷な光を湛えている。
思い出せ。如月の中で警鐘が鳴る。漆黒の衣装をまとう異形の者たちの話を、噂話に聞いたことはなかったか?
すぅ、と冷水を背中に流し込まれたような気がして、如月はとっさに何も返せなかった。
如月のいる庭に下りた途端、月光がその姿を照らす。その髪は、銀色にけぶって見えた。
明るい青色の瞳が、まっすぐに如月を見つめている。
―― なんだ? この女の気配は……
殺気、というのとも違う。しかしなんとも言いがたい迫力が、その全身から放たれていた。
「不満なのかしら? どんな願いでもかなう花を前にして、自分の願いがかなわないから? 強欲なアンタだもんね」
逆に、乱菊は楽しそうとさえ言える口調で言う。
「……け。変わらねぇ女だ」
如月はわざと荒々しく、ズカズカと乱菊に歩み寄った。そして、その顎を指で挟み、強引に持ち上げる。
「すぐ挑発してきやがる。その結果どうなるか、身に染みてるだろうに」
「睦言でも交わすと思ったの?」
その紅く艶めく唇が、別の生き物のようにぐいと目を引いた。
「どうして戻ってきた? てめぇの男が死ぬところでも見物しに来たか」
「あんたが死ぬところかもね?」
「なんだと? てめ……」
不敵に笑った乱菊に、如月の口調が荒くなる。その胸倉を掴もうとした瞬間、乱菊の懐から、白銀の輝きが奔った。
「……お前」
「いつまでも無力だと思ったの?」
その首元に突きつけられた刃に、如月はごくりと唾を飲み込む。
「何者だ」
「昔アンタに弄ばれたこともある、ただの女よ。ただ……今は『死神』と呼ばれてもいるけど」
「死神、だと?」
如月が瞠目する。ぐい、と刃の切っ先が近づき、その首元に血がにじんだ。
「貴様、何してる!」
異変に気づいた兵衛が、立ち上がる。それと同時に、周囲にたむろしていた傭兵たちも色めきたった。
「冗談よ」
乱菊はサラリと言い捨てると、切っ先から如月を開放した。そのまま刀身を肩に担ぐと、如月を見返す。
「ただ、ひとつだけ言っておくけど。これから来る男は、強いわよ。死神の中でも最強なくらい、ね」
死神、という言葉に、周囲にどよめきが広がる。流魂街の住人にとって死神とは別格、文字通りの「神」なのだ。
不審と、動揺の視線が如月と乱菊に向けられた。その時、乱菊の口角が、にんまりと上げられた。
「だからさ。あたしを、連れて行かない? きっと役に立つと思うわよ?」