氷原が地平線まで続く寒々しい大地に、卵黄のように見える太陽が沈みつつあった。
濃い朱色の光が頬に当たると、かすかに暖かい。
ちらり、ちらりと気まぐれのように雪が降り出していた。

日番谷は肩越しに振り返り、ぴたりと背後につけているサラを振り返った。
このスピードによくついてきていると思うが、今は一秒でも時間が惜しかった。
「飛ばすぞ」
短く言うとサラの腕を掴む。実質、一団のリーダーを張っているのが信じられないほど細い腕だった。
引き寄せると同時に、瞬歩を使う。文字通り飛ぶように通り過ぎてゆく景色に、サラは目を見張った。

「……花守にいる、女の人は無事なの?」
やがて、ふと思い出したように問いかけてくる。日番谷は前を向いたまま答えた。
「松本のことか。あいつなら、もう花守の里にはいねえよ。帰らせた」
はるか遠い瀞霊廷へと、思いを馳せる。
この戦いを経て再会したなら、前と同じような関係を保てるだろうか。
きっと難しい。それは、この一週間考えて出した、結論だった。

隊長と副隊長。背中合わせに戦い、互いに護りあう関係であるはずなのに、
きっと今の日番谷が乱菊を背にすれば、きっと振り向いてしまう。
背中合わせでいる以上、どれほど近くにいても向き合うことはない。
当然であるそのことを、自然に受け入れられなくなっている。


サラはそんな日番谷を見上げると、ポツリと声をかけた。
「……ねぇ、シロ」
「人を犬コロみてぇに呼ぶな」
「たとえ絶対の関係だと思ってても、失うときは一瞬だよ」
見下ろすと、サラが額に巻いた赤い布の間から、隠しきれない傷が除いているのが目に入った。
まだ、完全には治り切っていないその傷は、サラが前のリーダーであるハクに負わせられたものだという。
日番谷が返したのは、サラがもう自分が口にした言葉を忘れたかもしれない、と思うほど後のことだった。
「……雛森と、同じことを言うんだな」
「ヒナモリ?」
「いや、独り言だ」


夕日の最後の一投が、雪の舞う大地に照り映える。
日番谷はサラの肩を掴むと、タン、と軽い動きで地面を蹴った。
岩岩を身軽に飛び移り、崖の上まで一気に上り詰めた。そして、サラの腕をやっと解放した。
「……この下だね」
「ああ」
崖から見下ろせば、その真下に花守の屋敷が見えた。煌々とまばゆい燈が灯っている。
サラの意志を持たない鳶色の瞳に、崖下からの炎の光が明滅している。
彼女は、懐から小さな懐中時計を取り出した。そして下からの燈を頼りに、針の位置を確かめる。
「何時だ?」
「六時半」
「あと、5時間半か」
「そう」
パチッ、と音をたてて蓋を閉じると、サラは屋敷の屋根を見下ろした。敵の数は、おそらく百程度。
腕は昨日の傭兵と似たり寄ったりだろう、と日番谷は判別する。ただ……二人ほど尋常ではない力の持ち主がいる。
斬魂刀を使う気はなかったが、腰に帯びた氷輪丸を目線で確かめる。

花の気配は、真下から感じる。
「……あの辺か」
日番谷は、目を凝らした。ちょうど日番谷と乱菊が昨日非難した、火見櫓から数メートル離れた場所が、気配の出所だった。
もっとも、そのあたりは花に埋まっていて、どれが其れなのか、この位置から見分けることは難しい。
しかし日番谷の勘は間違ってはいないらしく、その周辺だけやけに警備が厚い。

花が咲くという日になるまで、あと5時間半。
少なくともこの状況では、もう花が咲いている、という最悪の事態ではないらしい。


「どうする?」
サラが崖下を見下ろしたまま、日番谷に問うた。
「こっちは二人だ。戦略も何もあるか?」
「だね」
日番谷は、視線をサラの横顔に向ける。全く動揺を見せないのは、感情が死んでいるからだとこれまで思っていた。だが、それだけではこの落ち着きは説明できない。

サラは腰に手をやると、短刀を二振り引き抜いた。
「最短距離で行こう」
一本を右手に構え、一本を口にくわえた。松明の灯りに照らされた瞳に映っていたのは、いつもの無感情と……ほんの少しの、愉悦、だった。

「最短距離?」
日番谷が聞き返すのを待たず、サラは空中にしなやかな体を躍らせた。
「お、おい!」
砂色の髪が、下からの屋敷の松明の明かりに照らされ一瞬きらめきを残す。そのまま、ダン! と音をたて、屋根の上に飛び降りた。
「何か落ちたか?」
傭兵達の呼び交わす声が聞こえた直後。闇を劈く悲鳴が木霊し、辺りはあっという間に怒号に包まれた。
「マジかよ」
残された日番谷は、一人ごちる。軽くため息をつくと、ふっ、とその姿が掻き消えた。


***


野卑な怒号と同時に、傭兵のひとりが巨大な斧をサラに向かって打ち下ろした。刀を小ぶりな唇に加えたまま、サラが巨大な刃を一瞥した。
その直後、サラの体はフッとその場から掻き消えていた。残された地面に、斧が地響きと共に食い込んだ。
「……あ? ドコに」
男が肩に斧を担ぎ、周囲をあっけに取られた表情で見回した。
「上だ!」
肩に担いでいた斧の、重量が増す。鋭い誰かの叫びに男が見上げると、斧の上に身軽に飛び乗った少女の姿が眼に映った。

「鈍い」
見下ろされた鳶色の瞳にこもった殺意に、寒気を覚えたのは一瞬。少女の、まだあどけなさを残した声が脳天から落ちてきた。
それと同時に、短刀が男の脳天から首筋にかけて一直線に斬り下ろしていた。悲鳴と共に地面にくずおれた後に、噴水のような血が吹き上がる。

「この女!」
二人の男が同時に、両脇から刀を振りかぶった。サラは間髪入れず、口にくわえていた短刀を左手に持ち直す。
そして地を這うような動きで、下から短刀を斬り上げた。上から叩き落すように刃を振り下ろした男たちと、真っ向から刀が交差した。
耳をふさぎたくなるような金属音と共に、火花が散る。ザザッ、と砂を散らし、サラはその場に片膝をついて、止まった。
その背後で声もなく、二人の男が肩口から血を流して倒れる。

「殺して、殺して、殺してきた」
絶句した傭兵たちの前で、サラは短刀から滴る血を払った。周囲の明かりに照らされ、その鳶色の瞳は、今は血のような色に見えた。
サラは、自らの刀を見下ろして、ポツリと言葉を足した。
「……いつまで?」

「そのガキに近づくな! 火矢を放て!」
兵衛の怒鳴り声が、周囲に響き渡った。
「おっ、おう!」
一斉に炎を先端に取りつけた矢が、サラに向かって引き絞られた。砂色の前髪をかきあげ、サラは眼を細める。
さすがに、こう四方八方から同時に狙われれば避けようがない。その時、
「……氷輪丸」
騒ぎの中でどこからか、日番谷の声が聞こえた。
炎の中に氷を落とすような、異質なその声は、熱しきったその場にもよく通った。

途端。
炎が一斉に消えた。火矢も、松明も、炎という炎が一瞬の間に、強い風でも吹きぬけたかのように掻き消えたのだ。
周囲は墨を被ったかのような闇に覆いつくされた。
「どういうことだ! 風なんて……」
「兵衛殿! 松明が凍っています」
「何?」
さっきまでまばゆい灯りに照らされていたせいで、夜目が聞かなくなっていた。
混乱した空気の中、ひんやりとした気配が、サラの背後に不意に現れた。
「!?」
「俺だ」
「シロ……!」
カシン、と軽い音をたて、日番谷が腰に帯びていた長刀を鞘に収めた。

「……剣術使い、だけじゃないんだね」
「まぁな。とっとと片付けるぞ」
「ああ」
コクリとサラが頷いた。そして、まだ混乱から立ち直っていない傭兵たちを見据えた。たった二人とはいえ、完全に戦いの勢いはこちらに傾いている。
日番谷がサラの前に一歩踏み出し、腰に帯びた長脇差を引き抜いた。

日番谷の腕は、もうこの場にも知れ渡っているのだろう。傭兵達が一斉に身を引く。
「賊か! どこだ!」
その時、聞き覚えのある声が屋敷中に響き渡り、日番谷は体を強張らせた。
「……シロ?」
急に動きを止めた日番谷を、サラが見上げる。
「……奴が来る」
乱菊を苦しめた、あの男。この手で討たなければ、気がすまなかった。
「花を見つけたら、好きにしろ」
日番谷はサラを見下ろす。
「俺は、あの男を殺す」
それが、隊長にふさわしい行動と言えず、任務の失敗を意味するとしても。

足音が近づいてくる。日番谷が振り返った時だった。
ヒュンッ、と何かが空気を引き裂き、日番谷に向かって一直線に飛んできた。
「!」
日番谷は、反射的に身を引いた。その鼻先を、銀色の輝きが飛びぬけた。
それは、日番谷の真横にあった柱に突き立ち、ビリビリと衝撃で震えた。眼前で、紅い飾りが揺れる。
「……これ、は」
まさか。これがどうして、こんなところに。

日番谷は指を伸ばし、その「簪」に触れた。サラが明らかに動揺した日番谷に、不審げな視線を向ける。
「灰猫……?」
灰猫が姿を変えた、あの簪だ。一週間前、乱菊が髪を結うために使っていたそれを、見間違えるはずがなかった。
乱菊を瀞霊廷へと返すとき、この簪も久徳に渡したはずだった。それなのに、どうしてこれがこの場所にある?

「やっぱり来たんですね」
慣れ親しんだその声は、その瞬間にもっとも聞きたくないものだった。
日番谷は、ごくりと唾を飲み込んだ。振り向いた先には、見惚れるばかりに美しい、一人の女の立ち姿があった。
「ま、つもと」
明らかに出来た隙。それを待っていたかのように、一筋の矢が日番谷を狙った。
百戦錬磨の耳に、その音はスローモーションのように響いたが、とっさに反応することは出来なかった。

「危ないっ!」
サラが凍りついたように動かない日番谷の前に飛び出した。そして、飛んできたその矢を、叩き落す。
「チッ、邪魔しおって」
闇から溶け出すように姿を現した男に、サラは唇を噛んだ。
「……兵衛」
「ほぉ儂を知るか、朱雀の娘。縁者を儂が殺したか? いちいち、覚えてはいないが」
歯をむき出すように、兵衛が笑う。サラは油断無く短刀を構える。
矢の位置は火矢が自分に向いたときに、ほぼ把握していたはずだった。逆に、火矢ではない、闇から狙う矢があることは見過ごしていたのだ。
「下がって」
サラは日番谷を押そうとしたが、その体はその場に根が生えたかのように動かない。
「……シロ?」
サラは戦いの最中だということを忘れたかのように、眼を見開いたままの日番谷を見上げた。


「……松本。お前、何やってんだ?」
漏れたのは、普段ならあまりにも自然な、この場においては不自然な問いだった。
「冗談ですよ」。今にもそう言いそうなほどに、乱菊の表情はいつもと変わらない。
すたすたと日番谷の目の前まで歩み寄ると、日番谷の鼻先に突き立ったままの簪を握り締めた。そのままスッ、と引き抜く。
その流れるような動きを、日番谷は無言で見守ることしか出来なかった。
目が合った時、にんまり、とその口角が引き上げられた。
ぞくり、とそれを見た日番谷に寒気が奔る。

―― コイツ。本気……か?
日番谷の動揺を確かめるかのように、乱菊はその猫を思わせる目を日番谷に向けた。
スッ、と弓形に眼が細められた、と思った時には、乱菊はすでに日番谷に背を向けていた。


「松……」
日番谷が言いかけたとき、忘れようも無い男の声がそれを遮った。
「ぬかるなよ、乱菊」
「てめぇ!」
日番谷は一瞬で我に返る。ギリ、と奥歯をかみ締める。それは昨日乱菊を追いかけていた男の声だった。
左目がつぶれた、隻眼の男。野卑な獣のような気配だが、決して弱くはない。
―― コイツが、松本を……
その場の状況も忘れ、日番谷は氷輪丸の柄に手をかけた。流魂街時代、乱菊に今も残るほどの傷跡を残した男。
手にかけた刀を、引き抜くか迷う。一体どういうことだ。動揺が体を揺さぶった。
どうして松本は、あれほど憎んでいたあの男に元へと戻る?

「アンタは、手を出さないで」
艶やかな声でそう言うと、乱菊は如月の隣に立った。その細腰に、如月が腕を回す。
振り返り、日番谷に流し目を送った乱菊の顔に浮かんだ恍惚に、日番谷は絶句した。
「ま、つもと。お前は……」
「ごめんなさいね」
乱菊の唇に、微笑が乗った。

「あたしは、隊長が思うような女じゃないんです。生き抜くためには、なんでもする女。あたしはね、隊長。花が欲しいんです」
「な……にを」
「諦めるんだな、色男。この女は、俺につくってよ」
言うべき言葉が、何も頭の中に浮かんでこない。ただ、氷輪丸の柄から、勝手に手が離れていた。