裏切り。
その言葉が頭に閃いても、認めることはできなかった。松本乱菊が日番谷冬獅郎を裏切る。
上司と部下の関係になってから一度も、夢にも疑いはしなかったことだった。
しかも乱菊は、悪戯っぽい笑みさえ浮かべて、こう続けたのだ。
「退いてください、隊長。隊長はあたしより強い。でもあたしを斬ることはできないでしょう?」

「……なんでだ。松本」
ぶれていた景色の焦点が今合ったかのように、日番谷は初めて、現実を捉えた問いを発した。
しかし、その声は疵を負った獣のように、かすれていた。
乱菊は、そんな日番谷を、まるで他人を見るような不可思議な表情でじっと見つめた。
如月の腕を離れ、ゆっくりと日番谷に歩み寄ってくる。数メートルほどの距離で、対峙した。


「……あたしには、叶えたい願いがあります」


その呟きに近い声は、きっと如月には届いていないだろう。
「……願い?」
乱菊が簪を一振りすると同時に、見慣れた一振りの斬魂刀「灰猫」が現れた。
真っ直ぐにためらいなく向けられた切っ先に、日番谷が一歩、下がった。そして鞘に収めたままの氷輪丸を、チラリと見下ろした。
今まで共に千の戦いを潜り抜け、敵を打ち破ってきた刀だ。
「……!」
日番谷の浮かべた苦渋の表情に、乱菊は無言だった。
「その長脇差じゃ、灰猫の相手にはなりませんよ。氷輪丸じゃないと」
「出来るわけねぇだろ!」
打てば響くように、日番谷が返す。この混沌とした状況の中でも、それだけはひとつ間違いが無いことに思えた。

「お前の願いは何だ、松本」
彼女の中に、ほんの少しでも彼の知る「松本乱菊」を探す。祈るような気持で、日番谷は昨日までは確実に部下だった女に問うた。
「市丸に再会することか? それなら……」


「違います」


眼を見開いた日番谷の翡翠と、対照的にスッと眼を細めた乱菊の蒼が交錯する。
「分から……ねぇよ」
「すぐに分かりますよ」
分からない。乱菊が願っていることが分からない。なぜ、こんな風に清清しいとさえいえる笑みを浮かべているのかも、分からない。
「松本。俺達が隊長と副隊長の関係になったとき、交わした約束を覚えてるか」
「ええ」
乱菊は、瞳を伏せて頷いた。黄金色の睫毛が、松明の光に輝いている。
「隊長は道を切り拓く。その背中はあたしが必ず護る」
「それでも」
日番谷は、そこで言葉を切った。ごくりと唾を飲み込むほどの時間の後に、意を決したように続ける。
「裏切るのか?」

重い沈黙が、2人の間に落ちた。
日番谷の隣に立つサラが、2人の張り詰めた表情を交互に見る。最期に日番谷の横顔を見やり、どこか哀しげに息をついた。


「そう、なりますね」
その言葉は、重くゆっくりと振り下ろされる刃のように。2人の間を断ち切った。
「なんでだ、松本!」
胸の奥から噴き上げてくるような想いを、これ以上堰き止められない。
乱菊が日番谷に向かって灰猫を振りかぶった瞬間、日番谷は隊長の貌をかなぐり捨て、怒鳴っていた。

冷たい金属音と共に、灰猫と、長脇差の刃が交錯した。
それとほぼ同時に、ビシッと音を立てて、長脇差の刀身にヒビが入った。
鍛え上げられた刀といっても、所詮は普通の脇差である。死神の持つ斬魂刀には、とても太刀打ちできるものではない。
「隊長は、本当に優しいですね」
微笑みと同時に向けられた言葉は、どこか悲しげに聞こえた。わずかにその口元が歪む。
「だから、あたしは貴方を、裏切らずにはいられなくなるんですよ」
ピキッ、と音を残し、長脇差の刀身が、折れる。
そう思った瞬間、日番谷の懐から白い閃光が奔った。
「!」
乱菊が、その場から跳び下がる。


「サラ!」
日番谷は瞠目して、自分の腰から目にも留まらぬ速さで氷輪丸を抜き、乱菊に斬りつけたサラを見下ろした。
焼きつくような視線を、サラは乱菊に向けている。そのままの体制で呟いた。
「……シロ。もう一人、強いのがこっちに来る。引き際だ」
「……サラ。でも」
「この女に勝てるの?」
「勝つとか勝たねぇとかいう問題じゃねえ! コイツは俺の部下なんだぞ!」
「裏切ったんでしょ? じゃあもう部下じゃない」
サラは、透明な視線を日番谷に向けた。
「言ったはず。絶対に思えた関係も、失うときは一瞬だと」
「な……」
「ヒナモリって人も、君にそう言ったんでしょ?」
雛森。その名前に反応したのは、日番谷だけではなかった。乱菊は一瞬息を詰め、それと分からぬほどに、睫を震わせた。

「君は混乱してる。一旦退こう」
歯噛みして、日番谷は乱菊を見つめる。これほどまでに、目の前の女の考えていることが何か、切実に求めたことは無かった。
―― 分からねぇ、か。
「矢を構えろ!」
兵衛の声を耳に捕らえ、反射的にサラは日番谷の腕を取る。
「撃(テェ)ッ!」
放たれた刃は、ことごとく空を切った。
「……行ったわね」
乱菊は空を仰いだ。そして夜空に冷たく浮かんだ氷輪を見て、唇を噛んだ。


*** 


心がしんと冷え切るほど白い月が、氷原を照らし出していた。
「どこにも居ねぇぞ! サラだけじゃねぇ、獅郎もいねぇ」
叫んで寄こした少年の声に、ジンとリョウは顔を見合わせた。


「……どう思う? リョウ」
「サラのヤツ、獅郎と会ってから、ちょっと態度が変わってた。気づいたか?」
「変わった? どういうこと」
「変わったっていうか、元に戻ったっていうか。ほんのたまにだけど、視線とか表情とかが、昔みたいに見えるときがあったんだ」
リョウの日焼けした表情が、切なそうに歪んだ。
だから、不審な点も多かった獅郎を受け入れた。獅郎の中にサラがハクを見だし、慰められるというのならそれでいいと思った。しかし。
「二人で失踪してくれなんて、願ってねぇぞ俺は……」
「馬鹿言うな、リョウ」
ジンは、打てば響くように言い返した。

「サラは、逃げるようなヤツじゃねぇ。獅郎だって、出合ったばっかりだけどそんな馬鹿なことするヤツじゃねぇと俺は思う。
きっとサラは、自分の願いに俺たちを巻き込めないって思ったんじゃないかな。獅郎はそれについていった。そのほうが納得できるよ」
絶対的な、信頼。それをジンの瞳の中に見たリョウは、唇を噛んだ。


サラは、ハクを失ったその瞬間に、「朱雀」の中にあった信頼はすべて死んだと思ったのかもしれない。
でもまたこんなところに、消えずに燻り続けているものがあるのに、気づいていただろうか。
リョウは、はるか彼方にある花守の里の方角に頭を向けた。
「おい! 全員集れ!」
その声に、朱雀十数名が全員、散り散りにリョウとジンの居る場所へと戻ってきた。どの顔にも、不安と心配が色濃く滲み出ている。
しかし、「疑惑」の表情を浮かべたものはひとりもいない。
―― 頼む。間に合ってくれ。
祈るような気持で、リョウはその場の全員に告げた。
「サラと獅郎は花守に向かった」


「……」
かすかな灯りの方角を、少年たちはしばらく見つめていた。その時、少年たちの胸に、どんな思いが去来したのかは分からない。
「……俺は行くよ。サラは俺たちのリーダーなんだ」
一番初めに動いたのは、ジンだった。地面を蹴ると、身軽に岩の上に飛び上がる。
そのまま手をついて飛び越え、姿を消した。二人、三人とその後に続く。

「……リョウ? どうしたんだ」
一番最後まで残っていたリョウに、少年たちの一人が声をかける。
「……あぁ、すぐ行く」
動揺を抑え、リョウは答える。
―― なんだ? この気配は?
ほんの数秒前、突然現れた気配。霊圧というのを探ることはできないリョウでも、その異様さは伝わってきた。
恐怖や威圧感を与えるような気配ではない。しかし何か大きな気配が、どんどん花守の方角で膨らんでいくのを感じていた。
「まさか。花……?」
こうしてはいられない。リョウは慌てて地面を蹴った。