突然周囲に広がった光に、乱菊はハッと顔を上げた。霧のような白いものが周囲に広がってゆくのに、目を見張る。
明らかに霧と違うのは、それらは淡い乳白色の光を放っていた。
殺気だった周囲の人間達とは無関係のようなその光は、会った記憶もないくせに、母親の腕を連想させた。
気配の方角へ、走る。花園を見渡した乱菊は、絶句した。

「なに、これ」
花園全体が、光り輝いていた。光に包まれた花たちは、夜にも関わらずその花弁をいっぱいに開いている。
薔薇、桜、金木犀、ワスレナグサ。季節も様々な花たちの香りが混ざり合い、なんともいえない芳香となって乱菊の鼻腔を擽(くすぐ)った。
「花が、生まれるのね」
まだ、時間は四時間ほどある。「何でも願いが叶える」王家から賜った宝物。
その荘厳な響きとは裏腹に、どこまでも優しい景色を、乱菊は黙って見つめることしか出来なかった。


「願い……か」
ポツリ、と一人つぶやく。
―― 「裏切るのか?」
確信を胸にそう訊ねてきた日番谷の翡翠は、苦しげにかすんで見えた。
日番谷がこれほど苦しむのを見るのは、雛森の一件以来、初めてかもしれない。

背中合わせに敵と対峙してきた、長い長い時間。
乱菊がしたことは、戦いの最中に振り返り、無防備な日番谷の背中に刃を突きたてる、それほどの痛烈な「裏切り」だった。

―― 「言ったはず。絶対に思えた関係も、失うときは一瞬だと」
冷静な瞳でそう告げた、美しい少女を思い出す。
そのとおりだ、と乱菊は思う。百年もの間大切に、大切に積み上げた関係は、文字通り一瞬で砕け散った。
百年前の、日番谷と雛森の関係と、同じように。
逃げた日番谷は、何を思う?

「……っ」
胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
乱菊は思わず身を二つに折り、前かがみの体勢で吐き出すように口をあけたが、流れ出したのは空虚な笑い声だった。
涙も、出ない。
口を歪め、子供のように一回、しゃくりあげた。
もう二度と、日番谷の隣に立つことはない。笑いあうことも、ない。

「でも……」
それでも、日番谷との全てを引き換えにしても、叶えたい願いがある。そして、それは乱菊にしかできないのだ。
腹を抱えこんだ姿勢のまま、深呼吸する。二回。三回。
そして貌を上げた時、そこにはいつも仕事にあたる時の、副隊長の貌に戻っていた。
もう、迷わない。ただ、最後までやりぬくのみだ。


スラリと灰猫を引き抜き、そっと花園の中に足を踏み入れる。乱菊の足元で、色とりどりの花弁がそよそよと揺れた。
乱菊は、すぐに見えてきた背中を、まっすぐに見据えた。あの背中を越えなければ、「願い」は叶えられない。
ぎゅっ、と灰猫の柄を握り締める。冬空に浮かぶ月のように美しく、そして孤独な日番谷の横顔を思い出す。
「もう、あんな表情をしなくていいように」
近づく気配に、如月が振り向いた。そして、乱菊が抜き放った灰猫を見て、目を剥く。
「どうか最後に、笑ってくれるように……」


***


乾いた風に、ぎぃ、ぎぃ……と耳障りな音を立て、扉が開閉している。
月光の下で、木が腐ってところどころ床が抜けた縁側や、紙の部分が破れて枠だけになっている障子、穴が開いている壁がぼんやりと照らし出されている。
六畳一間ほどしかない、そこは住む者も絶えた庵だった。突然現れた気配に、羽を休めていた鳥が闇の中に飛立った。
息を荒げてたどり着いた訪問者は、男女一人ずつ。

サラは荒ぶる息を抑えながら、引っ張るようにしてつれてきた日番谷の背中を、庵の柱に押し付けた。
日番谷の腕から手を離し、うつむいたその肩が、大きく揺れている。
何キロもの距離を、日番谷をつれて全力で駆けたのだ。息切れしても当然だった。
「……」
サラは弾む息を飲み込むと、そのままズルズルと腐った縁側に座り込んだ日番谷を、見下ろした。
「……すまねぇ。逆に助けられるとは」
情けねぇ、と自虐的に呟くと、その顔を腕で覆った。


「ショックなの? 裏切られて」
日番谷がただの流魂街の人間ではないことは、初めて目が合った瞬間に分かった。
支配するものの目だと思った。決して短くない時間、上に立ち続けていた自信が、立ち振る舞いにも気配にも表れている。
でも、今の道に迷った日番谷の肩を見下ろして、サラは心を震わせる。
ここまで日番谷を打ちのめしたものの正体を、サラは知っていた。今、自分がいるのと同じ場所に、日番谷が下りてきたのだと思えた。

「どうしたら、元に戻るんだ?」
顔を伏せたまま日番谷が呻くように言った。
「瀞霊廷に戻さなければよかったのか? それとも、抱くべきだったとでも言うのかよ」
その答えを、サラは知っている。しかし、残酷すぎて口にはできない。
どんな道を辿ったとしても、結論は変わらない。仮に結論を変えられる道があったとしても、戻ってやり直すわけにはいかないのだ。

もう、全てが遅いんだ。
サラは、唇を噛んだ。それは、そのまま自分にも跳ね返る結論だったからだ。
いくら、心でハクを追い続けても、そこにハクはいない。
ハクが最後に求めていた「名も無き花」を手に入れたとしても、ハクの背中に追いつけるわけではない。
わたしはただ、何も見えない闇の中で、ハクが残していった残像を探そうとしていただけなのか。

「それが分かるなら、」
サラの瞳から大粒の涙が零れ落ちるのを、日番谷はどこか、現実感なく見上げた。
膜に覆われているように見えていたサラの瞳が一瞬、とてつもなく澄んで見えた。
その名残を残すような透明な涙が、日番谷の掌に落ちてゆく。
「それが分かれば、わたしもこんなに苦しんでない」

顔を上げて見つめてきた日番谷の翡翠色を、懐かしく感じるほど鮮やかだと思った。
その翡翠に、吸い込まれそうになる。そう思った時、サラは日番谷の上に覆い被さるように、倒れこんでいた。
「お願い、シロ」
サラの声が、涙で濡れている。
「今だけ、ハクと呼ばせて」