時間が無い。
自分の手も見えない闇を駆け抜ける。枝が頬をかすめ、足が岩に当たっても構ってはいられない。
これほどに夢中に奔ったことは、どれくらいぶりだろう。
しなやかに疾走するサラの気配を隣に感じながら、日番谷はゆっくりと「その時のこと」を思い出した。


***


百年前。藍染の反乱による戦乱が佳境を迎えていたとき。あの時も、身を切るような冷たい風の中、周囲は漆黒の闇だった。
「雛森……!」
決して遠くは無い、肌に馴染んだ霊圧が、いつになく遠く感じる。
間に合ってくれ。祈るような気持で、日番谷は瀞霊廷のはずれに向かって、全力で駆けていた。

その華奢な背中が見えた時、日番谷の鼓動がどくん、と一度高鳴る。彼女の先に見えた穿界門が、日番谷の予想が正しいことを直截的に示していたからだ。
雛森が、ゆっくりと穿界門に歩み寄る。その扉に手を伸ばしたとき……その場を吹きぬけた疾風に、息を飲んで手を引いた。

「……日番谷くん」
穿界門と自分の間に割って入るように、突然現れた日番谷を見下ろした雛森の声は、驚いているようには聞こえなかった。
「やっぱり、来たんだね。日番谷くんなら間に合うと思ってた」
「藍染のところへ行くつもりか」
日番谷は雛森を見上げると、鋭く問いかけた。雛森は、ふわりと微笑む。
日番谷の怒りが、本音を覆い隠すためのものでしかないと、気づいているのだろう。ふわり、と雛森の掌が、日番谷の髪を撫でる。

「ありがとうね。何度も、何度もあたしを引っ張り上げようとしてくれて。あたし、日番谷くんに迷惑ばっかりかけてたのにね」
「……雛森」
いつもなら、髪に触れられようものなら罵声と共に、思い切り拒絶したものだった。
しかし今、日番谷の表情には必死の色が浮かんでいる。分かっていたのだ。話すのは、これが最後になると。


「……瀞霊廷を、裏切ることになるね」
雛森は、どこか他人事のように言うと、背後に視線をめぐらせた。
そこには、藍染の侵略にさらされながらも尚、荘厳と佇む瀞霊廷の灯があった。
「隊長として、あたしを斬ってもいいよ。日番谷くんになら、かまわないわ」
「俺は隊長として、お前を止めに来たんじゃねぇ!」
日番谷は、烈しい勢いで雛森の言葉を遮った。
「俺は、」
「ごめんね、日番谷くん」
ふっと頬を緩めて、雛森は日番谷を見下ろした。

この小さな弟のような少年が、自分に対してどのような気持を持っているか、実はずっと前から気付いていた。
それは淡い、淡い気持ではあるけれど、育つかもしれなかった小さな蕾。
「……藍染はお前を殺そうとしたんだぞ! それでも、お前は……」
「それでも、あたしは行くわ」
蕾を、摘み取る。
そうしないと、この少年はきっと前へと進めない。そう、雛森は思う。
芯から大切だと思える女(ひと)が、実は近くにいるのだという事実に、これからも気づくことができないままになる。


「思いが通じなくてもいいの。皮肉だよね。藍染隊長とは、絶対に揺らぐことがない信頼で結ばれてると思ってたのに。
そう思ってたのは、あたしだけだったみたいだね」
「そこまで考えてて、なんで……」
「ねぇ、日番谷くん」
雛森の心が、日番谷から遠のく。雛森はどこか遠い目をして続けた。
「人には、誰にもわかってもらえなくても、間違っていても、それでもどうしても叶えずにはいられない『願い』があるの。
それに出会えるのは、幸せなのかしら。不幸せなのかしら」
日番谷は、その言葉を反芻する。答えを自分の中に探したが、何も手ごたえはなかった。

「分からねーよ、そんなの」
だから、そう吐き捨てた。自分がまだ幼いからなのか。雛森が言いたいことが、分からないのだ。
ただ、もう二度と自分の言葉が雛森に届くことは無い。それだけは理解できた。
「何でだよ」
言葉を尽くしても、心を尽くしても、尚更止められないものがある。それを思い知ったとき、日番谷の頬を伝ったのは涙だった。
悔しくて、悔しくてたまらなかった。思えば一途に隊長を目指した裏にも、雛森がいた。
雛森を越え、護れる存在に自分がなりたいと思っていなければ、自分が今隊長になっていたかも分からない。
ただ突きつけられた現実は、自分が変わらず無力のままだということしか示していなかった。


「日番谷くん」
両方の頬に、雛森の掌の感触を感じた。そう思った時には、ふわりと抱きしめられた。
「いつか、あたしよりも大切な誰かの存在に、気づく時がくる。その時にわかるわ、あたしの言葉が」

体温は触れたときと同じようにそっと優しく、日番谷から離れた。
雛森が穿界門に向き直り、ゆっくりと歩き出す。日番谷の隣を通り過ぎても、日番谷は顔を上げることができなかった。
すれ違った瞬間、押さえていた涙が雛森の頬を伝い落ちた。
しかし振り返ることなく、そのまま涙を拳でぬぐうと、そのまま歩いてゆく。2人の距離が、開いてゆく。


日番谷を愛していたら、どうなっていただろうと思う。藍染に出会わなかったら? 日番谷と共に歩む未来は、きっと光に満ちていただろう。
そんな気がした。そんな未来を、ほんの少しだけ夢見る気持を残していたいと思うのは身勝手だろうか?
「時は巡る。輪廻の中であたしたちは、きっとまた出会える。そしたら今度こそシロちゃん、あたしはあなたの傍にいるわ」
背中合わせの約束。それが、日番谷が雛森と交わした、最後の言葉だった。


***


「……あ」
日番谷の唇から、嘆息が漏れた。サラが、不審気に日番谷を見上げてくる。
―― 「あたしよりも大切な誰かの存在に、気づく時がくる」
雛森は、そう言った。その言葉に意識を向けたことはこれまでなかったが、考えてみれば「誰かを見つける」とは言わなかったのだ。
雛森は、気がついていたのだろうか。百年経って、日番谷の心を占める女(ひと)が、当時から日番谷の隣にいたことを。

「願い、か。やっと分かったような気がする」
「なに?」
日番谷の呟きを聞き漏らしたサラが、日番谷に問い返す。
「俺は、自分の大切な人間を、他の奴が幸せにしてくれるのを願う、なんてことはもう真っ平だ」
雛森が歩み去る足音を聞きながら、どうか藍染が雛森を幸せにするようにと、絶望の中で祈ったことを思い出す。
そしてその祈りは、やはり通じることはなかったのだ。
戻ってきた雛森の、蝋人形のような頬。二度と開くことのない瞳に、泣くこともできなかった。
……もう、あんなことは二度と御免だ。

乱菊を、幸せにしてやって。
そう言わざるを得なかった、市丸の孤独をふと思った。


サラは、日番谷の言葉を聞き届けると、スッと目を閉じる。花守の屋敷が三度、近づいてきていた。
「あの女(ひと)は屋敷の奥にいる。朱雀は手前。私は、朱雀を助けに入る」
「あぁ」
日番谷は頷く。もう氷輪丸を抜くことに、ためらいはなかった。
覚悟を決めたその横顔は、凛と張り詰めている。サラは目を細めて、日番谷を見つめた。
「よく見たら君、ハクには全然似てないね」
「当たり前だろ……」
言いかけた日番谷の額に、と柔らかなものが押し付けられた。身を引いた日番谷を見返して、微笑む。
「サヨナラ」
サラの瞳が潤んだが、それは一瞬のこと。次の瞬間には、野生の輝きがギラリと渡った。