パタタッ、と音を立てて、流れた血が地面に落ちた。ぜぇ、ぜぇ、と喘ぐ声と共に、如月が一歩踏み込む。
息こそ荒く、乱菊に何度も斬り込まれながらも尚、体力は無くしていない。
「しぶといわね、あんたも……」
灰猫が、いつになく重いと感じた。確かに、過去のトラウマもあるが、それを差し引いても如月は、強い。
並みの死神では手も足も出ないと思われた。

「解せねぇな」
不意に如月がそう言った。何を今更、と毒づこうとして見上げて言葉を留める。奇妙な顔だ、と思った。
怒りやあざけりは影を顰め、ただただ、腑に落ちないような顔をしている。
「てめえは、願いなんて持たねぇ女だと思ってたぜ。何のために花が必要なんだ?」
意外と、よく自分と言う女を理解している。乱菊は嫣然とほほえんだ。
「言わなければならない?」
「へっ、俺とてめぇの仲じゃねえか」
「殺し合う仲って意味かしら」
「どうせどっちかしか生き残らねえんだ」
「ま、そうね」

乱菊は細いたおやかな指で、灰猫にまとわりついた血を払った。その指先が、息詰るような濃い紅色に彩られる。
「あんたの言う通り。あたしには、自分で叶えたい願いなんてないわ」
赤い水滴が、指先から一雫、落ちた。
死に賭けた人間にとって、下手な希望が命取りになるのと同じことだ。
幼い頃の乱菊にとって、打ち消されると分かっている幸せの予兆を感じることなどできなかった。
いや、
今も同じだ。
「願いなんて無い」
もう一度、念を押すように呟いた。

「じゃあ、なんで花を求める」
「あの男(ひと)の願いを、叶えるためかしら」
「あぁ?」
「あの男(ひと)には、百年の間、忘れられなかった大切な女(ひと)がいる。あの花が奇跡を呼ぶのなら。もう一度、死者をこの世に呼び戻せるかしら」
サラリと言った言葉を如月は一瞬聞き逃したらしく、「は?」と声を上げる。
「てめぇの男の、昔の女を生き返らせてどうするつもりだ? ンなもん、あの男がてめぇで叶えたらいいじゃねえか」
「そんなこと絶対に、あの人にはさせない。死者を生き返らせた死神は死罪になる」
死罪。その言葉のもつ厳然さに押されたように、如月が黙る。この男には、理解できない。
いや、この男だけではなく、他の誰もが馬鹿だというだろう、今の乱菊の行動を見れば。

「他人の願いを叶えるために、命を賭けるか」
あら? と乱菊は思う。この目の前の男は、こんな声だっただろうか。はるか昔、乱菊を思う様蹂躙した男は、どこか静謐な瞳で乱菊を見返していた。
「つまりてめぇは、あの男に惚れてるわけだ」
体が、恐怖ではない感情に震えた。今の自分にはそれは、とてつもなく残酷な問いかけに思えた。
日番谷は遅かれ早かれ全てを知る。そしてきっと乱菊を、許さない。
乱菊はゆっくりと、瞳を伏せた。
「……まぁ、そうね」
大丈夫、と自分に言い聞かせる。日番谷が傷ついたとしても、雛森がいれば大丈夫だ。
彼女の手はきっと、自分では終に届くことのなかった深い場所まで届き、彼を癒してくれるから。


「……馬鹿な女だ」
しばらくの沈黙の後、如月は吐き捨てた。
「しょうがないわよ」
どこか他人事のように乱菊は返した。少しずつ、「この世」から遠ざかってゆく気がしていた。
「全員が満たされるような、都合のいい願いはこの世にはないもの」
さぁ。そろそろ終わらせなきゃ。乱菊は、灰猫を再び如月に向けた。雛森と入れ違いになるのは残念だ、と少しだけ思う。
あれほどに日番谷を苦しめた少女を憎いと思ったこともあったが、今なら素顔で語り合えたかもしれないのに。
「あんたにも願いがあるんでしょ? これ以上潰す時間はないわ。違う?」
「……そうだな」
行き詰るような沈黙の後……
裂帛の気合が、如月の喉から漏れる。乱菊は無言で応じた。


そして、二人の体が真っ向から交錯した。
乳白色の光に満ちた花園が、紅の飛沫に赤く染まった。
乱菊のむき出しになった右腕から、血が滴り落ちていた。
左手で、その傷跡をバシッと叩き、血を止める。肩越しに、振り返った。
「救いようのない男ね。でも、最期はいくらかマシだったわ」
「ふ・ざけんな……」
如月が、花園の中に膝をつく。その右肩から胸元にかけて、灰猫が一文字に切りさげていた。
命が助かっても、もう二度と刀を振ることは出来ないだろうことは、だらりと垂れ下がった右腕を見れば一目瞭然だった。

乱菊が如月に向き直った時。乱菊の体が、強張る。その蒼い瞳が、歩いてくる初老の男を捕らえていた。
「如月……?」
いぶかしげに呼ぶ声は間違えようもない芥のもの。如月は歯を食いしばる。
振り返ろうとした体が、前にのめり、顔から地面に突っ込んだ。血を流す息子を見た瞬間、芥の喉から掠れた悲鳴が漏れた。

「来るな親父!」
その声に含まれた必死の色に、乱菊はふと違和感を感じた。目の前のこの男は、乱菊に対して蹂躙の限りを尽くし、今も殺そうとしていた男。
でも今叫んだ男は、明らかに別の貌(かお)をしていた。
「大丈夫かっ、如月!」
かまわず駆け寄った芥が、如月の前にかがみこもうとした時だった。全く何の前触れも無く、背後から奔った閃光が、芥の胸を貫いた。


「な……!」
乱菊も、全く気づけないほどのスピードだった。それが鬼道の一種だ、と気づいた時には、芥は如月に覆いかぶさるように倒れこんでいた。

「親父っ!」
如月が、震える上半身を起こした。おびただしい出血が地面に滴ったが、血だまりに膝をつくと、身を起こして芥を抱き起こした。
乱菊は駆け寄ることもできず、突然起こった惨劇をただ見守ることしかできなかった。
芥の胸には、背後が見えるほどの穴が開いている。息があることのほうが不思議なくらいの重傷だった。
「死ぬな、親父! もう少しで、願いが叶うんだよ! お袋に会えるんだよ!」
「……あぁ」
芥は、口から血をこぼしながら、頷いた。
微笑っている。その表情を見て、乱菊は慄然とする。

「もう……いいんだ」
「何を……!」
「死ねば、妻ともう一度会える……」
何だ。
最期に、今初めて気づいたかのように、芥は呟いた。
簡単なことだったじゃないか。



死の匂いが、花園を埋め尽くして行く。
「関わるものは不幸になる」その伝承を裏付けるように。
「もういい、なんて言うんじゃねぇよ」
如月は、血を流しながらも安らかな死に顔を、ゆっくりと撫でた。
「あんたの願いをかなえることが、俺の願いだったのに。花なんてあったところで、もう願うことなんて……」
声が、嗚咽に変わる。

「如月」
この男の名前を呼ぶのは初めてだ、と乱菊は思う。全然、強そうじゃないじゃない。怖くもないじゃない。子供みたいに泣きじゃくったりしてさ。
「あんたの、願いは……」
あんただってあたしと同じじゃない。

仇敵じゃないの、という声が、心の中で乱菊にささやく。
乱菊には乱菊の願いがある。花のもとへ一刻も早く向かわなければいけない時なのに、乱菊の足は、如月へと向いていた。
まさか、慰めようとでも言うの?
分からない。
自分の声に向かって、乱菊は返す。
ただ、放ってはおけない。


如月の髪が震えているのが、分かるところまで近づいた時だった。
不意に、声が響いた。
「願いは無いのか。では、問題ないな」
温度が一分も感じられない男の声だった。途端に、乱菊の背中の背筋が強張る。
「きさ……」
なぜだか分からないまま、手は如月に向かって伸びていた。閃光が、如月に向かって真っ直ぐに伸びるのが、見えた。

如月は、苦しい息の下でもそれに気づいたのだろう、とっさに刀を構えようとする。
しかし、その隻眼が、唖然と見開かれるのを、乱菊は一瞬、捉えた。
刀を構えようとした手が、中途半端に止まる。
「如月っ!」
叫んだ刹那、如月の胸に、閃光が食い込んだ。